間重富(読み)はざましげとみ

精選版 日本国語大辞典 「間重富」の意味・読み・例文・類語

はざま‐しげとみ【間重富】

江戸後期の天文暦学者。号は長涯。通称十一屋五郎兵衛。大坂の人。麻田剛立に天文暦学を学び、種々の観測器・観測法の改良に努め、幕府の命令高橋至時とともに寛政の改暦を行なった。訳書に「ラランデ暦書訳稿」がある。宝暦六~文化一三年(一七五六‐一八一六

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デジタル大辞泉 「間重富」の意味・読み・例文・類語

はざま‐しげとみ【間重富】

[1756~1816]江戸中期の天文・暦学者。大坂の人。号、長涯・耕雲。富裕な商人の出身。麻田剛立あさだごうりゅうの門人で、幕府の寛政改暦や観測器械の改良に尽力。長崎の沿海測量も行った。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「間重富」の意味・わかりやすい解説

間重富
はざましげとみ
(1756―1816)

江戸中期の天文暦学者。大坂の豪商の六男。幼名孫六郎、諱(いみな)は重富、字(あざな)は大業、号は長涯(ちょうがい)、耕雲主人(こううんしゅじん)ともいう。長兄たちの夭死(ようし)により、父の没後16歳で家督を相続、通称を十一屋五郎兵衛という。少年時代から天文儀器に関心があったようで、12歳で渾天儀(こんてんぎ)を模造して人を驚かしたという。後年多くの天文観測器を創案改良し、観測の精度を高めた。自家工人をも養成した。30歳ごろ麻田剛立(ごうりゅう)に入門し、同門の高橋至時(よしとき)と暦算の研究に励んだが、重富の機知をもって『暦象考成後編』を入手すると、師弟3人はこれの研究に没頭した。1795年(寛政7)幕府に改暦の議がおこると徴されて改暦に参画し、2年後大任を果たした。改暦の功により名字帯刀を許され、帰坂後も天文方の待遇で自宅で観測を命ぜられた。1803年(享和3)至時が幕命により『ラランデ天文書』のオランダ語訳書を解読したが、業なかばで他界、その後、重富は至時の嗣子(しし)景保(かげやす)を助けて至時の遺業を続行するため1804年(文化1)再度出府、1809年帰坂するまで江戸にとどまった。帰坂後は奈良、京都に古尺取調べに回った。至時は、全国測量による日本地図の作製の一半を重富にも分担させるつもりであったが、重富が病にかかり測量を延ばしている間に、至時は死去し、その機を失った。重富は恵まれた才能と財力によって1800年前後に生きた大坂町人を代表する人物であったが、病気がちで文化(ぶんか)13年、61歳で没した。大阪市天王寺区茶臼山(ちゃうすやま)邦福(ほうふく)寺に葬る。

 重富の長子重新(じゅうしん)(1786―1838)も優れた天文観測者であり、父とともに、またその後を継いで天文観測を続行し多くの記録を残した。

[渡辺敏夫]

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改訂新版 世界大百科事典 「間重富」の意味・わかりやすい解説

間重富 (はざましげとみ)
生没年:1756-1816(宝暦6-文化13)

江戸中期の天文学者,暦学者。大坂の長堀富田屋橋北詰にあった質商の六男として生まれたが,兄たちがみな早世したため16歳で羽間家を継いだ。大業を名のり長涯と号し,また屋号をとって十一屋五郎兵衛を称した。後,改暦の功により苗字帯刀を許されて間と改めた。中国在住の宣教師の手になる西洋天文学の漢訳本《暦象考成後編》は当時としては最新の暦学書であったが,民間人には入手困難のものであった。重富はその財とくふうによってこの書を入手し,師の麻田剛立,同門の高橋至時(よしとき)と3人で共同研究に努めこの難解な本をそしゃく,習得した。時代の水準を抜く学力を身につけた麻田一門の天文暦学は幕府の知るところとなり,1795年(寛政7)重富は至時とともに出府を命ぜられ寛政改暦に携わることになった。商人であったため天文方には任ぜられなかったが同格の待遇を受け,若くして没した高橋至時亡き後は,20歳で父のあとを継いだ高橋景保の補佐を幕府から命ぜられ,第一人者としての実力を認められていた。重富は機械工作の優れた天分をもち,日月食観測用の測食定分儀や精密な振子時計である垂揺球儀その他の製作によって観測精度を飛躍的に向上させた。その財力を用い自家に機工の職人を養成するなど技術面での功績も大きい。また測量の根本として日本の尺度の基準となるべき古尺の研究をし,測量についても伊能忠敬より重富を信頼していた至時は,全国測量のうち半分の西国は重富に託す予定であったが病身のため成らなかった。
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朝日日本歴史人物事典 「間重富」の解説

間重富

没年:文化13.3.24(1816.4.21)
生年:宝暦6.3.8(1756.4.7)
江戸中期の暦算家。通称五郎兵衛,字は大業,長涯と号す。代々大坂の商人で質屋を家業とする十一屋五郎兵衛の第6子。麻田剛立門下に入り,望遠鏡その他の観測器械をつくり,天文観測や地図製作に努めた。また観測の基礎になる尺度をあきらかにするために,晩年には奈良,京都に赴いて,古今の尺度の異同を弁じた。 寛政7(1795)年に幕府で改暦の議が起こり,当時民間にあって,近代天文学でもっともすぐれているという名声の高かった麻田剛立が委嘱された。剛立は老齢の故に辞し,そのかわり,弟子の高橋至時と間重富を推薦した。重富は大坂の同心であった年少の至時を天文方に推し,商人の自分は補佐役にまわったが,徴されて暦局に3年間勤めて,寛政暦を完成させた。御用手当5人扶持,1カ年金25両支給。以後大坂で御用相勤めるために,町屋敷を賜り,苗字帯刀御免にもなった。さらにその後も京都に,西国に,江戸にと,官命を受けて観測・測量のため出張し,そのたびになにがしかの報償を得ている。 重富は至時を表に立てたが,職業柄経営の能力に富み,改暦事業のプロデューサーとして,関係者間の人間関係に気を配り,麻田,高橋一家の面倒もよくみている。自らの資力をつかって,器機の職人を補助したり,助手を養成しようと努めた。また至時の没後,彼が晩年手を付けて未完に終わったラランデ暦書の翻訳事業の完成を指揮し,完成に導いた。

(中山茂)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「間重富」の意味・わかりやすい解説

間重富
はざましげとみ

[生]宝暦6(1756).大坂
[没]文化13(1816).3.21. 大坂
江戸時代中期の天文,暦学者。通称,十一屋五郎兵衛。字は大業。号は長涯,耕雲。家は質業を営む富裕な町人で,少年時代から天文に興味をもち,長じて麻田剛立の門に入り高橋至時と並び称された。寛政7 (1795) 年江戸幕府の改暦事業に高橋とともに推挙され,寛政暦を作り,苗字帯刀を許され,のち大坂で天文方御用をつとめた。その財力によって天文器械の考案改良に尽力し,また『算法弧矢索隠』という算書を著わした。享和3 (1803) 年幕命によって長崎におもむき沿海測量を行なった。

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百科事典マイペディア 「間重富」の意味・わかりやすい解説

間重富【はざましげとみ】

天文・暦学者。富裕な質商の子として大坂に生まれ,麻田剛立(あさだごうりゅう)に天文・暦学を学ぶ。1795年剛立の推挙により高橋至時(よしとき)とともに江戸に出て寛政の改暦に当たる。その後大坂にもどって家業のかたわら天文を観測,多くの観測器械を製作・改良した。子の重新も天文学者。
→関連項目橋本宗吉

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「間重富」の解説

間重富
はざましげとみ

1756.3.8~1816.3.24

江戸後期の天文暦学者。質商十一屋五郎兵衛の子。通称十一屋五郎兵衛,字は大業,号は長涯・耕雲。大坂生れ。1787年(天明7)麻田剛立(ごうりゅう)に入門。苦労の末「暦象考成後編」を入手し,剛立・高橋至時(よしとき)とともに研究した。95年(寛政7)幕命により至時とともに寛政改暦を行った。実測とともに天文振子時計や子午線観測装置などの観測器機を製作。著書「垂球精義」「天地二球用法記評説」「算法弧矢索隠」。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「間重富」の解説

間重富 はざま-しげとみ

1756-1816 江戸時代後期の暦算家。
宝暦6年3月8日生まれ。家業は大坂の質商。師の麻田剛立(ごうりゅう),同門の高橋至時(よしとき)と西洋天文学の漢訳書「暦象考成後編」を研究。幕府の暦作御用をつとめ,寛政改暦では至時と中心的役割をはたした。文化13年3月24日死去。61歳。字(あざな)は大業。通称は十一屋五郎兵衛。号は長涯。著作に「算法弧矢索隠」など。

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旺文社日本史事典 三訂版 「間重富」の解説

間重富
はざましげとみ

1756〜1816
江戸後期の天文・暦学者
大坂の町人で,麻田剛立 (あさだごうりゆう) に師事して天文・暦数を学んだ。幕府の改暦事業に推挙され高橋至時 (よしとき) とともに寛政暦を完成。その後も天文方御用をつとめ,天文観測器械を考案・改良した。

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367日誕生日大事典 「間重富」の解説

間重富 (はざましげとみ)

生年月日:1756年3月8日
江戸時代中期;後期の暦算家
1816年没

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世界大百科事典(旧版)内の間重富の言及

【伊能忠敬】より

…測量に際しては沿道の諸藩から多数の手伝人が差し出された。測量に用いた測器機は,高橋至時やその同僚の間(はざま)重富が漢籍から示唆を得て苦心を重ね,精密工まで養成して作製したものであったし,この測量によって得た緯度1゜の距離28.2里(地球を球として)は,現在からみてもかなり正確なものである。忠敬の業績は〈伊能図〉と呼ばれる地図および《輿地実測録》として編纂された。…

【寛政暦】より

…没後の1755年(宝暦5)に採用された宝暦暦は,貞享暦の定数を少し変えただけの暦法で,施行後まもなくから幕府は次の改暦を考えねばならなかった。やがて大坂の麻田一門の名声が高くなると,幕府は95年麻田門下の俊秀高橋至時を天文方に登用し,同門の間(はざま)重富に協力させて改暦に当たらせた。至時は西洋天文学の漢訳本である《暦象考成後編》を参酌し,97年に早くも新暦案を完成,《暦法新書》8巻とし,土御門泰栄に献じた。…

※「間重富」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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