日本大百科全書(ニッポニカ) 「門田(かどた)」の意味・わかりやすい解説
門田(かどた)
かどた
「もんでん」「かどんだ」とも読む。中世の在地領主の居館の周辺部に所在した田地で、居館の門前に広がる形態が典型であったためこの名がついたと考えられる。畠地(はたち)の場合は門畠(かどばた)という。屋敷地に近く耕作にも便利であったため、古代から存在したことが『万葉集』の「妹(いも)が家の門田を見むと打ち出来し情(こころ)もしるく照る月夜かも」(大伴家持(おおとものやかもち))という和歌などから知れる。平安時代、大和(やまと)国にみられる「便宜要(びんぎよう)門田」と称せられる地種も同様の性格をもつものと考えられる。歴史的に重要性を増すのは在地領主制の展開する古代末から中世にかけてで、荘園(しょうえん)領主から免田(めんでん)・検注(けんちゅう)免除の地として認められ、かつ多くは熟田が選ばれたため、「おきの三反田より門田の二反田をな、ぬいはり愛(め)でたもれ門の二反田をな」(『田植草紙(たうえぞうし)』)と謡われるほど重要視された。一般的には、堀内(ほりのうち)・土居(どい)などと同じく、下人(げにん)・所従(しょじゅう)などの隷属民に耕作させた直営地で、在地領主の支配権がいちばん強く及ぶ耕地であり、居館とともに支配の根拠であった。したがって門田(門畠)を拡大しようとする動きは強く、たとえば、備後(びんご)国大田荘(おおたのしょう)(広島県世羅(せら)郡世羅町)の下司(げし)橘(たちばな)氏は「門畠門田」と号して「百余町の田畠」を押領したという(『鎌倉遺文』47)。
[木村茂光]