門司(読み)モジ

デジタル大辞泉 「門司」の意味・読み・例文・類語

もじ【門司】

福岡県北九州市の区名。もと門司市関門トンネル関門橋山口県下関市と結ばれている。石炭の積み出し港・貿易港として発展。工業地。

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精選版 日本国語大辞典 「門司」の意味・読み・例文・類語

もじ【門司】

福岡県北九州市の行政区の一つ。関門海峡を隔てて山口県下関市と対する。門司港があり、鹿児島本線の開通以来、筑豊炭田の石炭積出港・九州の表玄関として発展。工場の設置もみられ、港湾工業都市となる。瀬戸内海国立公園に含まれる和布刈(めかり)公園、北九州国定公園に含まれる風師山、関門橋などがある。明治三二年(一八九九)市制。昭和三八年(一九六三)小倉・戸畑・八幡・若松の四市と合併して北九州市が成立、門司区となる。

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日本歴史地名大系 「門司」の解説

門司
もじ

古代よりみえる地名、関名。現門司区門司・旧門司きゆうもじ辺り一帯に比定される。史料上は門司のほか、文字・文司・毛字とも記される。関門海峡に臨む当地は古来より政治・軍事上および交通上の要所として重視された。

〔古代の門司〕

 長登ながのぼり銅山跡(山口県美東町)出土の天平年間(七二九―七四九)と考えられる銅付札木簡(木簡研究一九)に「豊前門司」とある。延暦一五年(七九六)一一月二一日の太政官符(類聚三代格)が「豊前国草野津・豊後国々埼・坂門等津」と摂津国難波なにわを往還する「公私之船」の「門司」経由義務の緩和を命じたように、本来門司は公私の船を寄港させ、その過所を確認するために設置された機関。当地の名称はこれが転じたものと考えられる。門司は豊前国司の監督のもと、大宰府の管轄下にあった(「三代実録」貞観八年四月一七日条)。長保五年(一〇〇三)には大宰帥平惟仲と密接な関係にあった「門司関別当」佐伯良方が当時大宰府と対立していた宇佐宮大宮司の手の者に殺害され(同年八月一九日「宇佐宮司解案」石清水文書/平安遺文九、「日本紀略」寛弘元年閏九月五日条など)、このとき門司関は盗賊に焼かれ、兵卒は殺され、武具は掠奪され、船は追払われたという(寛弘元年閏九月五日「某断簡」平松文書/大日本史料二―五)。平安後期には通過船舶より関料を徴したようで、康治元年(一一四二)六月三〇日大宰帥庁宣案(醍醐雑事記/平安遺文六)によれば「三宅寺年貢運上船弐艘門司関勘過料」が免じられている。また平安末期には伊川いかわ大積おおつみ吉志きし楠原くすばるやなぎおよび片野かたの(現小倉北区)の門司六ヶ郷を核とした「門司関領田」があり(年月日未詳「豊前国図田帳写」永弘文書/鎌倉遺文二)、文永九年(一二七二)一〇月九日の門司六ヶ郷惣田数注文写(甲宗神社文書/鎌倉遺文一五)に「門司関六ケ郷」は惣田数約二八〇町余、名田数四六などと記される。永長二年(一〇九七)死去の大宰権帥源経信を悼んだ歌「ゆき過る心はもじの関屋よりとゞめぬさへぞかきみだりける」(散木奇歌集)ほか、「金葉集」「新勅撰集」などに「文字の関守」や「もじのわたり」が詠込まれている。

〔鎌倉期の門司〕

 治承・寿永の乱では壇之浦だんのうら(現山口県下関市)が最後の戦場となった。文治元年(一一八五)二月一六日平氏は「九国官兵」をもって門司関を固め、彦島ひこしま(現下関市)に陣取り、源氏迎撃の態勢を調えた(吾妻鏡)。同年三月二四日壇之浦合戦で平氏は滅亡、「平家物語」巻一一など多くの記録類に門司関沖合での攻防が記される。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「門司」の意味・わかりやすい解説

門司
もじ

福岡県北部、北九州市北東端にある区。1899年(明治32)北九州市地区で最初に市制施行、1963年(昭和38)門司、小倉(こくら)、若松(わかまつ)、八幡(やはた)、戸畑(とばた)の5市合併による北九州市設置により区制施行、同市門司区となる。九州の北東端である企救半島(きくはんとう)の大部分を占め、関門海峡(かんもんかいきょう)を隔てて本州と対峙(たいじ)する交通上の要地で、645年(大化1)に文字の関(もじのせき)が置かれ古代より発展したが、中世から明治初年にかけては繁栄を対岸の赤間関(あかまがせき)(現、下関(しものせき)市)に奪われて一漁村にすぎなかった。1889年築港会社が設立されて門司港は石炭、米などの特別輸出港の指定を受け、1891年九州鉄道(現、JR鹿児島本線)が開通すると九州の陸海の玄関口として発展を開始した。その後、筑豊炭(ちくほうたん)の積出し港、大陸貿易の基地として、第二次世界大戦前は神戸、横浜、大阪に次ぐ全国第4位の貿易港の地位を誇った。1942年(昭和17)の関門鉄道トンネル、1958年国道トンネルの開通や、戦後の大陸貿易の衰退などにより交通拠点としての機能低下を示し、低迷傾向にある。区域は企救山地により表門司(関門海峡側)と裏門司(新門司)に分けられるが、表門司の門司港は、海岸通り付近に門司港湾合同庁舎、第七管区海上保安本部、船舶会社、倉庫などの港湾施設が立地、大里(だいり)にかけての臨海部には金属、機械、セメント工業などの工場とともに関門製糖などの食品工業の工場が港湾機能を背景に立地し、近年では明治期の景観を保存する門司港レトロ事業の中心地域になっている。重化学工業に偏った北九州工業地帯にあっては特徴的である。周防灘(すおうなだ)に面した新門司は開発が遅れた農漁村地域であったが、低迷する北九州工業地帯の復興のために臨海工業用地が造成されて、フェリーも大阪方面へ就航し、新しい工業地帯として発展しつつある。早鞆(はやとも)ノ瀬戸や壇之浦(だんのうら)、巌流(がんりゅう)島(船島)などを一望できる和布刈(めかり)公園は、九州最古の灯台である部埼(へさき)灯台(重要文化財)がある部埼とともに瀬戸内海国立公園に含まれる景勝地で、近くに和布刈神社、文字(門司)の関跡などがあり、1973年開通の関門橋は観光的価値も高い。九州の玄関口となる門司港駅は大正時代に建築されたもので、国の重要文化財に指定されている。近くに九州鉄道記念館がある。

[石黒正紀]

『『門司市史 第二篇』(1963・門司市)』


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改訂新版 世界大百科事典 「門司」の意味・わかりやすい解説

門司 (もじ)

福岡県北九州市の区名。人口10万4469(2010)。1963年門司市(1899市制)が小倉市など4市と合体して北九州市が誕生した際,その一区となる。企救(きく)半島に位置し,関門海峡をはさんで下関市と相対する。古代に門司関が置かれるなど古くから海陸交通の要地であった。1889年門司港の築港会社が発足して米,石炭など5品目の特別輸出港に指定され,91年にここを起点に九州鉄道(現,鹿児島本線)が開通して〈九州の表玄関〉となり,さらに食料品,セメント,金属などの工業も興り,急激に発展した。第2次大戦前までは北九州工業地帯を背後にもつ大陸貿易の基地として日本有数の貿易港であった。しかし,鉄道海底トンネル(関門トンネル)の開通(1942)や戦後の大陸貿易の途絶などもあって一時衰退をみた。1958年国道トンネルの開通により再び交通要地となったが,1970年代以後,関門橋,山陽新幹線新関門トンネルなどが相次いで完成し,九州の玄関から単なる通過地に化した。門司港は小倉・洞海両港と統合されて北九州港となり国際的な貿易港へと発展している。早鞆(はやとも)ノ瀬戸に臨む岬の端には和布刈神事(めかりのしんじ)で知られる和布刈神社やめかり公園がある。
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普及版 字通 「門司」の読み・字形・画数・意味

【門司】もんし

門番。

字通「門」の項目を見る

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世界大百科事典(旧版)内の門司の言及

【門司関】より

…古代から中世にかけて現在の北九州市門司区の甲宗八幡宮あたりにおかれていた海関。関門海峡をへだてて赤間関と向かい合い,本州と九州を最短距離で結ぶ位置にあり,また西九州から海路瀬戸内,畿内地方へ向かう船がかならず通る場所であった。…

※「門司」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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