長野(県)(読み)ながの

日本大百科全書(ニッポニカ) 「長野(県)」の意味・わかりやすい解説

長野(県)
ながの

本州の中央部に位置し、中部地方の東部を占める県。面積は1万3561.56平方キロメートルで全国都道府県中の第4位である。周囲を新潟、富山、岐阜、愛知、静岡、山梨、埼玉、群馬の8県に囲まれた内陸県である。古来畿内と東国を結ぶ交通路にあたり、東西の文化・技術の影響を受けてきた。県域の80%は山岳地で、これに火山山麓(さんろく)などの高地6%を加えると、生活の中心となる平地と台地は約14%にすぎない。県域は、中央部をほぼ南北に走る筑摩山地(ちくまさんち)と八ヶ岳火山連峰(やつがたけかざんれんぽう)によって東西に二分される。東部は、北流する千曲(ちくま)川の流域で、上流から佐久(さく)、上田、長野の3盆地が連なり、佐久盆地、上田盆地を東信、長野盆地を北信とよぶ。西部は、犀(さい)川、天竜川、木曽(きそ)川などの流域で、松本、諏訪(すわ)、伊那(いな)の3盆地と木曽谷に分かれ、松本盆地を中信、ほかを南信とよんでいる。県庁所在地は長野市。

 1920年(大正9)第1回国勢調査時の人口は156万2722人であったが、2020年(令和2)の国勢調査では204万8011人になった。本県の人口は第二次世界大戦前後に一時疎開・海外引揚げなどのため急増したが、以後1970年(昭和45)まで一貫して減り続けた。1970年からは、しばらく自然増加・社会増加が続いたものの、2005年調査からはふたたび減少に転じている。本県人口現象の特色は全国の特色と同様である。第一の特色は高齢化で、2000年には65歳以上の人口が県総人口の21.4%で全国平均より4%ほど高くなった。山間地の町村では30~40%に達している。第二の特色はいわゆる核家族化の傾向が強まり、1世帯当り1950年(昭和25)の3.58人から2000年には2.89人になっている。第三の特色は、死亡率・出生率ともに低下し、自然増加ではあるが、その増加率は第一次団塊の世代といわれる1947年(昭和22)の16.6%から2000年には1.0%と10分の1以下に減少している。なお県下77市町村のうち、2000年頃まで人口増加が続いていたのは高速道路インターチェンジ周辺である。1958年西筑摩郡神坂村(みさかむら)、2005年木曽郡山口村がそれぞれ岐阜県中津川市に越県編入されている。

 2020年10月現在、19市14郡23町35村からなる。

[小林寛義]

自然

地形

日本の中央部を南北に横切る大地溝帯フォッサマグナの西縁は、糸魚川‐静岡構造線(いといがわしずおかこうぞうせん)によって明瞭(めいりょう)にくぎられ、この大断層線を境にして県の西側と東側では、地形的にも地質的にもかなり異なっている。西側には日本の屋根と称される飛騨山脈(ひださんみゃく)(北アルプス)、木曽山脈(中央アルプス)、赤石山脈(あかいしさんみゃく)(南アルプス)が雁行(がんこう)して南北に走る。3000メートル級の山々が連なり、頂上近くに氷食地形をもつ山々もみられ、日本アルプスの呼称にふさわしい。東側には標高2000~2500メートルの三国山脈(みくにさんみゃく)、関東山地があって関東地方との境界をなしている。これらの山地・山脈から流れ出る千曲川、天竜川、木曽川などの流域に形成された6盆地が県民生活の中心地をなしている。また県域には浅間山、飯縄(いいづな)山、焼(やけ)岳、乗鞍岳、御嶽(おんたけ)山、八ヶ岳などの火山も多い。これらの火山の裾野(すその)は広大な高原をなし、近年観光地や農業地に開発されている。県内の盆地と木曽谷は山地や山脈で分離されていることもあって、相互の連絡に障害があり、これが県の統一性を妨げている。

 県域の大部分が山地のため、九つの国立・国定公園のすべてが山岳地や山地に指定されている。中部山岳、上信越高原、妙高戸隠連山、南アルプス、秩父多摩甲斐(ちちぶたまかい)の5国立公園、妙義荒船(みょうぎあらふね)佐久高原、八ヶ岳中信高原、天竜奥三河、中央アルプスの4国定公園、国営アルプスあづみの公園のほか、県立自然公園に、御岳、三峰川(みぶがわ)水系、塩嶺王城(えんれいおうじょう)、聖山(ひじりやま)高原、天竜小渋(こしぶ)水系の5公園がある。

[小林寛義]

気候

南北に長い地形なので、太平洋気候、日本海式気候の両方の気候が現れる。県北部は冬季降雪量が多く北陸地方の気候に近く、上田、松本、佐久、諏訪の各盆地は夏と冬、日中と夜間の気温の差が大きく、降水量は少ない内陸型をなし、南部の木曽谷や伊那盆地は比較的温暖で夏季に降水が多く、冬季は晴天の太平洋型である。標高800~1500メートルの地帯は高冷地気候で、これより高くなると寒冷気候に移り、植物も亜高山性や高山性の樹種にかわる。これらの多様な気候はそれぞれの地方の生活様式にも密接な関係を及ぼしている。

[小林寛義]

歴史

原始・古代

信濃(しなの)の歴史は火山の裾野の高原から始まった。1952年(昭和27)諏訪市の茶臼山遺跡(ちゃうすやまいせき)から黒曜石の石刃や石鏃(せきぞく)が発見されて以来、八ヶ岳・蓼科(たてしな)火山裾野では旧石器時代文化の遺跡が次々に発見された。原始時代の居住は狩猟に便利な高原から始まったことがわかる。縄文時代もこれらの高原のほか菅平(すがだいら)高原などにも居住範囲が広がり、さらに、天竜川沿岸や諏訪湖岸など漁労に好都合な地域も居住地になった。縄文遺跡は県下全体で4000余りに及び、なかでも八ヶ岳山麓の標高1000メートル地帯にある竪穴(たてあな)住居群の尖石遺跡(とがりいしいせき)(国の特別史跡、茅野(ちの)市)や、160戸の竪穴住居跡をもつ井戸尻遺跡(いどじりいせき)(国の史跡、諏訪郡富士見(ふじみ)町)、平出遺跡(ひらいでいせき)(国の史跡、塩尻(しおじり)市)などは縄文期の代表的遺跡である。

 弥生(やよい)期になると、生活の場所は高原からしだいに盆地へと下るが、これは狩猟から稲作へと生活様式が変わったためである。弥生遺跡は約1300で、縄文遺跡よりかなり少ないが、これは居住地が稲作の可能な地域に限定されてきたためと推定されている。古墳時代に入ると信濃の生活舞台は明らかに盆地に移る。千曲川東岸の森将軍塚古墳(千曲(ちくま)市)は対岸の川柳将軍塚古墳(せんりゅうしょうぐんづかこふん)(長野市)とともに、県最大・最古の前方後円墳であり、松本市の弘法山古墳(こうぼうやまこふん)とともに国の史跡に指定されている。長野、上田、伊那の各盆地を中心に県全体では約3000の古墳が確認されている。同時に鉄製農具など稲作に必要な道具も発見されているが、木曽谷のような稲作に不適当な地方には現在までに古墳は発見されていない。

 大化改新(645)後、信濃国が成立したが、古代信濃の開発は、善光寺の存在や信濃国府の場所から考えて、長野、上田の両盆地から始まったものと思われる。善光寺は白鳳(はくほう)期に大陸からの渡来者たちによって建立されたとみられ、国府も当初は上田市郊外にあった。『和名抄(わみょうしょう)』(934ころ)に記されている信濃67郷のうち、半数以上が長野、上田地方にあり、『延喜式(えんぎしき)』所載の式内社も48座中36座がこの地方に集中している。なお諏訪地方の開発も早く、8世紀の一時期諏訪国が設置されていた。諏訪大社は大化改新前の草創と推定される。

 平安時代に入ると、官道である東山道(とうさんどう)は伊那谷を北上し、国府所在地の現松本市を経て上田を通り、碓氷(うすい)峠を越えて前橋(群馬県)へ向かった。東山道の支道は松本で分かれ、北進して直江津(なおえつ)(新潟県)へ向かった。この官道によって、伊那谷南部は京都方面の影響を強く受けた。信濃は牧馬の重要な産地でもあり、火山山麓には官牧が設けられ、全国32か所のうち16か所が信濃に置かれた。

[小林寛義]

中世

平安末期から信濃でも中央貴族の荘園(しょうえん)化が進み、その数は60か所に及んだ。国内各地に豪族が発生したが、なかでも木曽谷を根拠地とする木曽義仲(よしなか)(源義仲)はその代表的存在であった。義仲は1180年(治承4)木曽で挙兵するが、1184年(元暦1)源頼朝(よりとも)に討たれた。鎌倉幕府成立後、信濃の豪族はその支配下に入った。信濃守護職には比企(ひき)氏、のち北条氏が任ぜられた。鎌倉幕府滅亡後、諏訪氏らが北条氏を擁して中先代の乱(なかせんだいのらん)を起こし、鎌倉を攻めたが失敗に終わった。建武(けんむ)新政で信濃守護には小笠原氏(おがさわらうじ)がなり、守護所は現長野市に置かれた。

 南北朝時代には、信濃の豪族は北朝、南朝に分裂して争ったが、北朝の足利(あしかが)氏に味方した小笠原氏が勢力を得、諏訪氏や安曇(あずみ)の豪族は一時衰えた。戦国時代に入ると、甲斐(かい)の武田氏の進攻で長野盆地以北を除きほとんど武田の支配下に入り、長野盆地の支配をめぐって、武田、上杉が抗争を続けた。その後、織田信長が信濃を攻略し、1582年(天正10)信長が本能寺の変で倒れると、信濃は上杉、徳川、北条3氏の抗争の場となり、さらに関ヶ原の戦い後は徳川氏の支配を受けた。

[小林寛義]

近世

徳川政権確立後、信濃には小藩が分立した。1624年(寛永1)には真田(さなだ)氏松代藩(まつしろはん)10万5000石を最高に、飯山(いいやま)、長沼、須坂(すざか)、松本、上田、小諸(こもろ)、高島、高遠(たかとお)、飯田の諸藩があったが、その後、藩主の改易や交代、石高(こくだか)の変化などさまざまな推移があった。また、木曽谷をはじめ信濃国以外の藩の所領や幕府の直轄地が至る所にあり、それらが複雑に入り組んで、これが明治以後の県内の統一を妨げる原因にもなった。

 一方、産業面はこの時期に大いに進んだ。その一つは用水路の開削で、各盆地の稲作が目覚ましく発展した。ことに浅間、蓼科、八ヶ岳火山山麓や松本、長野盆地などの扇状地、伊那谷の河岸段丘など水不足に悩んだ所の開発が進んだ。1598年(慶長3)の豊臣秀吉の検地のおり、信濃の石高は40万8000石であったが、1832年(天保3)には76万7000石に増えた。近世中期からは養蚕業が各地に普及し、また手工業もおこった。飯田の元結(もとゆい)(現在は水引)と傘、諏訪の鋸(のこぎり)と寒天、木曽の漆器と櫛(くし)、松本の家具と菓子、上田の紬(つむぎ)と蚕種、長野盆地の和紙や鎌など、現在まで存続しているものはいずれも近世に始まったものである。

 信濃には五街道のうち、中山道(なかせんどう)と甲州街道が通過し、沿道には宿駅が整備された。これ以外に、隣接諸国からの物資搬入の役目を果たした野麦(のむぎ)、糸魚川(いといがわ)、三州(さんしゅう)、武州などの各街道があった。

[小林寛義]

近・現代

1869年(明治2)伊那谷の天領を対象にして伊那県が設置された。翌年伊那県の一部が中野県となり、1871年長野県と改称した。一方、同年の廃藩置県で、飯山、須坂、松代、上田、小諸、岩村田、松本、高島、高遠、飯田の10県が成立。信濃国外に本領のある椎谷(しいや)、尾張(おわり)の2県とあわせて14県が存在した。同年11月に長野に県庁を置く長野県と、松本に県庁を置く筑摩県(ちくまけん)の2県に統合された。筑摩県には飛騨国の一部も含まれていた。現在の長野県域が成立したのは1876年で、県庁は長野に置かれ、同時に飛騨は岐阜県域になった。

 行政上の近代化とともに産業、交通、教育などの分野も大きな変化を遂げた。産業上では、近世末から普及した養蚕業が発展を続け、明治中期には全国一の養蚕県となった。県下各地に製糸工業がおこり、諏訪地方はその中心であった。また現在全国第2位の生産量をあげているリンゴも明治10年代に栽培が始まった。しかし昭和初年の経済不況は長野の製糸工業や養蚕業に大きな打撃を与えた。第二次世界大戦後は桑畑にかわって、リンゴ、ナシなどの果樹や野菜作が畑作の主流を占め、工業も内陸型の機械工業にかわった。

 近代は、信州教育の確立した時期でもある。これは、明治前半における県政の努力と、幕末以来の県民の教育への関心の高さのためで、当時、義務教育の就学率は全国一を誇った。

 1888年直江津線(現、JR信越本線およびしなの鉄道)の長野―軽井沢間が開通し、明治末までに中央東線・西線が全通した。また大正から昭和10年代にかけて、飯田、大糸、小海(こうみ)、飯山の各線が開業し、この結果、旧街道による交通は衰退し、宿場集落は大きな打撃を受けた。

 第二次世界大戦時、長野県は山がちであり、空襲の対象となる大工場もないため、戦災はほとんど被らなかったが、国および県の満州移民政策により、大戦後1万5000人の命が大陸で失われた。移民は満州事変直後から始まり、県の満州分村計画などもあって農民を中心に約2万5000人が渡満し、「満州移民送出日本一の県」といわれた。

[小林寛義]

産業

農林業

1995年(平成7)2月現在、県下の農家総数は14万9000戸余りで、このうち専業農家は14%にすぎない。農業従事者も1995年現在で、65歳以上の高齢者が全就農者の50%に達し、耕地面積は、都市化による宅地化や工場団地造成、交通網の整備などのため、1990年から1995年の5年間に約1万ヘクタール減少し、総じて農業は不振である。

 耕地は県面積の10%にすぎず、この大部分は県下の6盆地に集中し、地形的には扇状地、火山山麓(さんろく)、河岸段丘などで営農条件としてはあまりよくない。農家の平均耕作面積は約60アールで全国平均を下回る。

 耕地は水田と畑がそれぞれ50%で、畑は野菜など普通畑が約5万6800ヘクタール(1995)、果樹など樹園地が2万0800ヘクタール、牧草地が4600ヘクタールを占める。

 農産物を販売する農家数からみた県農業の中心は稲作4万2000戸、野菜7500戸、果樹1万7300戸、花卉(かき)2200戸、酪農と肉用業は2800戸(以上1995)で、これらの部門が長野県農業の中核をなしている。

 水稲の生産力は高く、県単位では全国でつねにベスト5に入っている。水田も畑も耕作方法は近年かなり変わり、稲作では耕うん、田植、収穫はほとんど機械で行っている。またビニルでの保温育苗が発達し田植期は従来より1か月も早く、5月中旬が全盛期で、このため収穫量も増大しているが、山間地では機械も効率的な利用ができないし、過疎化で労働力も不足しているので耕作地の放棄が目だっている。全体的に一筆(土地登記簿上の一区画)当りの水田面積が小規模なので所要労働量が多いのも信州の米づくりの特徴になっている。

 一方、畑作農業は、信州の冷涼な気候を生かした高冷地での野菜栽培に特色がある。標高800~1000メートルの軽井沢高原では大正期から高原野菜を東京方面へ出荷していたが、自動車交通の発達に伴って、いまでは県内各地の高原野菜が、京浜、阪神などの大都市圏へ盛んに出荷されている。野辺山(のべやま)や浅間山麓のレタス、キャベツ、ハクサイ、八ヶ岳山麓蓼科(たてしな)高原のセロリ、パセリ、菅平(すがだいら)の短根ニンジンは代表的な高冷地野菜である。

 果樹栽培はリンゴをはじめ、ナシ、ブドウ、モモなど多様であり、昭和初年までの桑園から転換した所が多い。リンゴは青森県に次ぎ全国第2位の生産量を上げ、長野盆地を中心に佐久、松本、伊那の各盆地に広がっている。1980年(昭和55)ごろからは品質の向上に重点が置かれ、ふじ、津軽(つがる)などの品種が中心である。ナシは伊那盆地の段丘上で栽培され、1990年(平成2)に品種登録された南水(なんすい)の評価は高い。巨峰ブドウは長野盆地の中野市を中心に全国一の生産量を上げ、1970年以降は初冬から加温栽培を始め、4月下旬には出荷する促成栽培も進められている。このほか松本盆地南部、桔梗ヶ原(ききょうがはら)、佐久盆地のブドウなどもあり、ここではワイン生産も行われている。昭和初期は耕地面積の約半分が桑畑で占められ、養蚕農家13万6180戸、収繭(しゅうけん)量4万8833.5トン(1930)で全国一であった。近年は養蚕農家540戸、収繭量170.5トン(1996)と最盛時の0.3%に激減しているものの全国では上位にある。

 火山山麓の裾野は第二次世界大戦後、乳牛放牧地になった。乳牛飼育頭数は3万7102頭(1995)で、中部地方では愛知県に次ぐ。八ヶ岳周辺や長野市北方の飯縄高原などは集約酪農地に指定されている。また肉牛飼育は4万1924頭(1995)で、中部地方では第2位である。

 林業は、森林が多いにもかかわらず振るわない。林野面積は102万7874ヘクタールで、北海道、岩手県に次ぎ、そのうち国有林が3分の1を占める。国有林のなかでも木曽のヒノキは日本三大美林の一つに数えられるが、近年は資源の枯渇を防ぐため年伐採量は3万5000立方メートル程度に抑えられている。おもな林産物にはクリ、キノコ、シイタケ、ワサビがあり、ワサビ、エノキダケ栽培は全国一である。

[小林寛義]

工業

信州の近代工業は明治初年の器械製糸工業で始まった。1872年(明治5)諏訪に深山田(みやまだ)製糸場が設立され、翌年には高井郡に雁田(かりた)製糸場などがつくられ、全国有数の製糸工業県となった。明治末期には製糸業者たちが工場の動力化を図って発電所を建設し、電力を利用してカーバイドなどの化学工業の立地をみたが、全体としては製糸工業の比重が大きかった。昭和初年の養蚕の不況は長野県の製糸工業に大打撃を与え、休業、倒産する業者が多かった。第二次世界大戦中に京浜、中京方面から疎開してきた工場を受け入れたことが、現在の長野県の機械工業発展のきっかけとなった。1995年(平成7)製造業事業所数の割合からみた本県の工業の特色は、電機16.5%、産業機械15.0%、金属9.7%、食料9.7%など機械工業と食料品工業が中心である。出荷額等からみると電機のウェイトはいっそう高く、全工業製品出荷額等の42.6%を占めている。このように全般的に機械工業が盛んなのは、工場敷地が少ないことと、交通輸送の関係からで、内陸傾斜地における宿命であろう。以前全国有数の精密工業地区となっていた諏訪地区は工場拡張・新設用の土地取得難から、既存の工場も漸次地区外へ移動し、精密工業の出荷額等は県全体の5.4%で電機とは大きな差を示している。

 県の工業のもう一つの特色は、工場規模がきわめて零細であることで、従業員9人以下の工場が実に全体の71.7%(1995)を占め、300人以上の工場は0.6%にすぎない。

 最近道路網が整備されるに伴い、新設工場は高速道路のインターチェンジ付近に集中する傾向があり、松本、長野、佐久、伊那北部などへの立地が多い。

 信州の風土に適した工業に、木工木材と食料品工業がある。地元のヒノキ、トチ、ブナ材などを利用した家具製造、アスパラガス、トマトなどの缶詰工業、ワイン製造、酪製品などいずれも県内産原料によるものである。

[小林寛義]

開発

昭和30年代から菅平、蓼科、斑尾(まだらお)、黒姫、飯縄の各火山山麓の高原は別荘地に開発され、志賀(しが)高原、白馬(しろうま)山麓などではスキー場の開発が進み、1997年現在県下には110か所ある。また、ゴルフ場は64か所(1997)あり、首都圏に近いため利用者が多い。高原観光地へ通じる志賀草津道路、霧ヶ峰ビーナスラインなどの道路も敷設された。昭和50年代に入ると、多目的ダムの建設や都市再開発が活発になった。高瀬川上流の新高瀬川発電所は最大出力128万キロワットの地下発電所であり、奈良井川上流には奈良井ダムが完成した。戦災を受けなかった都市の再開発が1980年代から盛んになった。松本駅前、長野電鉄の一部地下化などが図られ、佐久市中込(なかごみ)駅前などは地方都市再開発の典型である。新幹線の玄関口になる長野駅周辺では大規模な開発がなされ、新設駅となった佐久平駅前も近代的な駅前商店街が造成されている。

[小林寛義]

交通

おもな鉄道はJR北陸新幹線とJR中央本線で、前者は東京から上田、長野を経て日本海側方面へ、後者は東京から諏訪・塩尻を経て名古屋へ通ずる。このほか、小海(こうみ)、飯山、飯田、大糸、篠ノ井のJR各線がある。新幹線の敷設により、長野―東京間の所要時間は約90分になり大幅に短縮された。中央自動車道西宮線(にしのみやせん)が県内を全通したのは1981年3月で、東京から岡谷市を経て小牧市(愛知県)へ至る。1991年(平成3)長野冬季オリンピック開催が決定されてから、従来「陸の孤島」とまで酷評されてきた県都長野市を中心に高速交通機関をはじめ、オリンピック競技会場までのアクセス道路の新設改良が急速に進んだ。高速道路では、名古屋―岡谷―東京までの中央道のほかに、岡谷―松本―長野の長野道が1993年に、群馬県藤岡―佐久―更埴(こうしょく)―長野―信州中野―新潟県上越までの上信越道が1999年に開通し、このほか長野―白馬村、長野―志賀高原、大町―白馬村のアクセス道なども新設改良され県北部の道路事情はきわめてよくなった。一方、1997年10月からは、フル規格の北陸新幹線の長野駅まで開業により、県内には軽井沢、佐久平、上田、長野の4駅が設置された。これに伴い、信越線の篠ノ井駅―軽井沢駅の区間はJRから分離され、第三セクター方式の「しなの鉄道」になり、長く親しまれてきた軽井沢駅―横川駅間の碓氷(うすい)峠の区間は鉄道が廃止され、バスが代行することとなった。2015年3月には北陸新幹線が金沢まで延伸し県内にはさらに飯山に新幹線の駅が置かれた。その一方で長野以北の県内の信越本線は第三セクターのしなの鉄道に移管され北しなの線となった。空港は松本市に信州まつもと空港があるが、新千歳、福岡の2空港間に定期便が就航するだけである。県域が山がちであり、交通整備が後れていたが、冬季オリンピック開催のため国道や主要地方道の改善が進んだ。しかし積雪・凍結をみる冬季の道路事情は悪い。自家用車の保有率は貨物自動車も含めて1世帯当り2.2台(1995)で、全国平均の1.8台より多い。これは山間僻地(へきち)が多いため、公的交通機関ではカバーしきれないからである。

[小林寛義]

長野オリンピック

1998年(平成10)2月7日より22日の16日間、第18回「冬季オリンピック競技大会」が長野市、白馬村、山ノ内町、軽井沢町、野沢温泉村の5市町村で開催された。日本では1972年(昭和47)の札幌大会以来、二度目の冬季オリンピック開催である。

 今回の冬季五輪大会の第一の理念は、「自然に優しく、自然との共生」である。元来長野県は自然美を売物にしてきた。しかし冬季五輪の主競技の一つであるスキーは大規模な屋外施設が必要になるため、五輪計画当初から自然の保護と競技施設の建設をどのように両立させるかが大きな課題になり、動植物の保護のため当初の競技予定地は二転三転した。そしてこの課題を象徴したのが、白馬村八方尾根のアルペン滑降地点をめぐって、国立公園地域を避けるかどうかで国際委員会と長野委員会が対立し、開催日1か月ぐらい前まで決定できなかったことである。

 第二の理念は「愛と参加」であった。愛には平和という意味をもたせた。元来オリンピックは平和のスポーツといわれてきたが、長野五輪ではこれを具体化するため、五輪開催中は世界で武力を使わないよう国連総会で訴えて採択された。同時にノーベル平和賞受賞者で対人地雷禁止国際キャンペーン代表であり、自らもベトナムの地雷撤去作業中に片方の足を失ったイギリス人を聖火ランナーに起用し、大きな感動を呼び起こした。そしてすべての人が参加する意味で、性別、年齢別、職業、身体状況を問わず多くの人々が聖火ランナーとなり、長野市内の小学校が一校一国運動としてそれぞれの国旗で応援し、各国選手との交流を深めた。

 第三には、大会の理念ではなく、性質ともいうべきだが、国の主導性は少なく、もっぱら県と長野市など自治体主導色が濃かった。26年前の札幌大会のときは、施設建設費の約80%、運営費の25%を国が補助したが、長野の場合は建設費に50%、運営費は0であった。県と長野市はこのオリンピック招致段階で知名度のアップと、これを機とする高速道路や新幹線の建設を意図した。

 長野冬季オリンピックが長野県にもたらしたものの第一は経済的影響である。この内容はメリットの部分とデメリットの部分があり、地域的にまた業種によって明暗が分かれた。メリットの部分としては、交通基盤が飛躍的に整備されたことである。長野冬季オリンピック開催が1991年に第97次IOC(国際オリンピック委員会)総会で決定されるまでは、全国の県都のなかでも長野市は数少ない、高速道路がない都市であった。ところが開催決定後、1992年から1997年までの5年間で、長野道と上信越道の県内部分が全通し、首都圏、中京のいずれへも通じることになった。さらに1997年10月からは新幹線が東京―長野間に開業し、従来上野―長野間が最短3時間要したものがこの半分の所要時間に短縮され、鉄道交通も面目が一新された。東京への時間短縮の効果は今後も計り知れないものがあり、オリンピック期間中の乗車人員は信越線特急時代の40%増、期間外でも5%内外の増加を示している。道路も、主会場の長野市を中心に、白馬村、志賀高原方面へのアクセス(連絡)道が全面的に改良された。またホテルなどの新設や民間の建築、市の長野駅周辺の開発などで建設業界が潤った。しかし、五輪期間中は一切工事がなくなり、五輪後の工事も急減した。長野市は五輪のため、今後14年分の工事を先行したといわれ、これからの建設業界の不況が心配された。

 またホテル業界は大会開催中こそ満室であったものの、大会終了後は空室が目だち始めた。このような業界にとって五輪大会のメリットは一過性のもののようである。

 商店街では人波はあふれたが、買う商品は五輪関連のバッジや「スノーレッツ」(フクロウをモチーフにした大会マスコット)のぬいぐるみといった大会のスポンサーになった会社の品物が大部分で、地元商店街で売上げを伸ばしたのは飲食店・写真関連ぐらいといわれている。つまり既存商店街の活性は見かけ上にすぎないようである。

 他方、白馬村、山ノ内町(志賀高原)、野沢温泉村のような代表的スキー場は五輪開催地になり、新聞などにより混雑が予想されたため一般スキーヤーは敬遠し、白馬村のペンション、民宿客は例年の50%減、志賀高原、野沢温泉付近は20~30%減でデメリットが目だった。また広い長野県内では県中・南部には経済的な波及効果はほとんどなく、不公平感を訴える自治体、企業人も多かった。

 第二は経済以外の分野への影響で、長野市の知名度の上昇、学校教育のうえで生徒児童の目が海外に向けられ、一般市民もボランティアを中心に国際親善の気風が高まり、県内外を問わず競技の観客に大きな感動を与えたことなどメリットの部分が大きい。また善光寺の知名度もいっそう広まった。総じて経済的には明暗が分かれたが、文化、教育あるいは精神的にはメリットが大きかった。

[小林寛義]

社会・文化

教育文化

18世紀末から幕末にかけ江戸での半季稼ぎが盛んになると、読み書き算盤の能力が農民の間にも必要とされ、庶民の教育機関である寺子屋が各地に育った。その数は約4000といわれている。また各藩の藩校では朱子学を中心に、漢学、国学、心学から、なかには洋学を教えたところもあり、藩の中核となる人材の養成を目ざし、このなかからは明治の近代教育に活躍した人たちも輩出した。

 幕末からの気風を受け継いで、明治の新しい学制下でも全国屈指の教育県をなした。1876年度(明治9)の就学率は63.2%で全国一であり、翌年も全国第2位であった。教師は研究、教育に力を注ぎ、帰宅は夕食時を過ぎ、「ちょうちん学校」ともよばれるほどであった。当時としては近代的な洋風木造校舎が山間の村々にも建てられた。現在も松本市の開智学校(かいちがっこう)(1876年造・国宝)や、地元住民が私財を投じて建築した佐久市の旧中込学校(きゅうなかごみがっこう)(1875年造・重要文化財)が残る。

 小学校教師の教育への熱意も大きく、全県的組織をつくり、1886年には信濃教育会が創立された。その機関誌『信濃教育』は現在も発行されている。人道主義を掲げて明治末期に創刊された雑誌『白樺(しらかば)』は、信州人、とくに青年や教師に大きな影響を与え、「白樺教育運動」として実践された。このほか山本鼎(かなえ)の自由教育運動、農村の青年たちが農閑期を利用して学ぶという信濃自由大学の設立などがあり、昭和初期の教員赤化事件や第二次世界大戦後いち早く設立された教員組合なども特筆すべきものである。

 高等教育機関には、1949年(昭和24)に旧制松本高等学校、上田蚕糸専門学校、長野工業専門学校、長野師範学校などを統合して設立された国立信州大学(8学部)のほか、県立の長野県看護大学、私立の松本歯科大学、長野大学、松本大学、清泉女学院大学、佐久大学、諏訪東京理科大学があり、短期大学に県立長野県短大、県立長野県工科短大、農業大学校のほか、私立の8校がある(2012年現在)。また国立長野工業高等専門学校がある。『信濃毎日新聞』は1873年発行の『長野新報』を前身とする。1890年以降主筆に山路愛山(やまじあいざん)、桐生悠々(きりゅうゆうゆう)、風見章(かざみあきら)、町田梓楼らを迎え、自由・進取の論調で知られた。『長野日報』は1901年諏訪で『諏訪新報』として発刊され、1905年『南信日日新聞』と改称、1942年(昭和17)の新聞統合で解散、1945年に再刊、1992年(平成4)に現在名に改称した。放送機関にはNHKのほか、信越放送(SBC)、テレビ信州(TSB)、長野放送(NBS)、長野朝日放送(ABN)、長野エフエム放送(FMNAGANO)などがある。

 文化施設には、信州の風土にかかわる大町山岳博物館、小諸市立郷土博物館、岡谷蚕糸博物館などをはじめ、県下の多くの市町村に歴史、民俗、美術、工芸、考古、文学などに関係する博物館、歴史民俗資料館、美術館などがある。

[小林寛義]

生活文化

県歌に「信濃の国は十州に境つらぬる国にして」とあるように、長野県は越後(えちご)、甲斐(かい)、上野(こうずけ)など10国に囲まれ、歴史時代からこれらの国々との交流が盛んであり、影響を受けてきた。また風土の多様性もあって県内各地にさまざまな生活文化がみられる。長野市近辺や木曽の高原では昭和30年代までアサ栽培が盛んで、内織(うちおり)(自家織)の麻布を自家栽培のアイで染めた着物を用いたが、一般には近世から昭和初期までの庶民の衣料は木綿であった。仕事着は各地の風土にあわせてつくられた。もんぺ、かるさんなど股引(ももひき)状のものを着け、これに半纏(はんてん)を羽織れば、普段着にも労働着にもなった。半纏は、冬は綿を入れ、作業がしやすいように袖(そで)なしにした。山仕事で丸太などを担ぐときには肩の痛みも和らげられた。県北の豪雪地ではもんぺに似た雪袴(ゆきばかま)に、藁沓(わらぐつ)を履き、蓑(みの)と菅笠(すげがさ)を着ける。藁沓に雪踏み用のかんじきをつけることもあった。

 食生活も地方色豊かである。木曽や佐久の高冷地は水田が少なく、そばやうどんを常食とした。そば粉でつくった皮の中に甘みそなどを入れ、いろりの熱い灰の中に入れて焼いた焼き餅(もち)(お焼き)は御馳走(ごちそう)の部類で、そば粉も十分でない所では、トチの実の粉を水にさらしてあくを抜き焼き餅をつくった。ほうとうは小麦粉を練って太めに切り、ダイコンや菜とともにみそ汁仕立にしたもので、寒い夜は体が温まると喜ばれた。おにかけはほうとうよりやや細めに切って熱湯でゆで、しょうゆ汁につけて食べる。伊那谷や木曽谷では米の粉を小判形にして竹串(たけぐし)にさし、甘みそやごまみそをつけて焼いた五平餅(ごへいもち)が祭りなどの御馳走になった。野沢菜漬けは塩分が少なく、冬の茶うけには欠かせない食べ物である。伊那谷の悪食(あくじき)は、ハチの子や天竜川でとれるザザムシをあぶって味つけをして食べることをいい、ときにはヘビも食べた。山国で動物性タンパクが不足するのを防ぐ生活の知恵である。また諏訪や佐久などの冬の保存食には、豆腐を凍らせた凍豆腐(しみどうふ)や、餅を外気で乾燥した氷餅などがある。

 豪雪地の家屋は、建てのぼせ造りといって、豪雪の重みに耐えうるように2階まで1本の通し柱を用いる。諏訪では霧ヶ峰で産出する板状の安山岩の鉄平(てっぺい)石を屋根瓦(がわら)の代用にしたり、寒さが厳しいので、母屋(おもや)の奥座敷を土蔵造りにした建てぐるみとよぶ様式もみられる。木曽谷のように木材が豊富な所は、板屋根上に石をのせる石置き屋根がみられた。伊那や諏訪の養蚕農家では、雨風を避けて屋外作業をするため軒を長く突き出している。

[小林寛義]

民俗芸能

信州の伝統的行事は年末年始と8月に多い。前者は1年を無事に過ごした喜びと新年への祈願を込めた行事が多く、また8月は春から夏にかけての激しい農作業から解放された人々の憩いの行事が多い。年末の伝統芸能の圧巻は、県の南端赤石山脈の山懐に抱かれた遠山(とおやま)郷に古くから伝わる遠山霜月祭の芸能(とおやましもつきまつりのげいのう)(国指定重要無形民俗文化財)である。江戸時代に相続争いと百姓一揆(いっき)によって滅びた領主遠山家の怨霊(おんりょう)を慰めるもので、熱湯のたぎる湯釜(ゆがま)の周りで夜を徹して湯立神楽(ゆだてかぐら)を舞う。娯楽に乏しい隔絶山村の慰安的要素をももっている。最高潮になると釜の熱湯を素手ではねて人々にかけ、これで穢(けがれ)を払う。遠山郷の近くの伊那谷阿南町(あなんちょう)新野(にいの)の12月から翌年1月にかけての「雪祭の芸能」(選択無形民俗文化財。「雪祭」は重要無形民俗文化財)も広く知られている。雪は豊年のしるしというわけで神前に供え、新年14日夜から伊豆神社の神楽殿でさまざまな舞が奉納される。伊那谷ではこのほか「坂部の冬祭りの芸能」「和合の念仏踊」(以上、選択無形民俗文化財)、「新野の盆踊」(重要無形民俗文化財)など伝統的芸能が多い。諏訪湖では厳冬期に湖の氷が南北方向に割れ目を生じる現象がおこる。「御神渡り(おみわたり)」といい、諏訪大社上社の男神が下社の女神のもとへ通うときに生じるものと伝えられ、神官たちは割れぐあいを見てその年の農作物の豊凶を占う。千曲川上流の川上村では、1月14日に村の子供たちが前の年に嫁入りのあった家を太鼓(たいこ)をたたき、御幣(ごへい)を振りながら回って祝福する「オカタブチ」の行事がある。佐久の山村北相木(きたあいき)村では、子供たちが3月3日の節供に紙細工の雛(ひな)人形を川に流す「カンナバレ」とよぶ素朴な行事がある。人間の罪や穢も同時に流し去るという。夏は県下各地で盆踊りが盛んであるが、その代表は木曽節による盆踊りである。木曽節の起源については諸説があるが、木曽川の筏(いかだ)下しの舟乗りたちの歌ともいわれている。8月15日、佐久市望月(もちづき)の榊祭り(さかきまつり)は青年たちが褌(ふんどし)一つで榊の神輿(みこし)を担ぎ、松明(たいまつ)を手に山から駆け下りてそれを川に投げ込み、神輿で町内を暴れ回る勇壮な祭りである。伊那谷の各地に伝わる「今田(いまだ)人形」「黒田人形」(飯田市)、「早稲田(わせだ)人形」(阿南町)は、江戸時代に盛んであった文楽系統の人形芝居の名残(なごり)で、「伊那の人形芝居」として選択無形民俗文化財である。また「下黒田の舞台」(国指定重要有形民俗文化財)は操り人形専用のもので、人形も多く残されている。松本市立博物館は国指定重要有形民俗文化財の「七夕人形コレクション(たなばたにんぎょうこれくしょん)」「民間信仰資料コレクション」などを展示する。

[小林寛義]

文化遺産

信州を代表する建造物は善光寺である。境内には本堂(国宝)、二層入母屋(いりもや)造の三門(国指定重要文化財)、仏教美術品を多数所蔵する大勧進(だいかんじん)、大本願のほか39院坊が配置されている。本堂は1707年(宝永4)の再建、撞木(しゅもく)屋根造は全国有数の規模である。上田市西方の青木村の大法寺三重塔(国宝)は純和風形式の美しさを示す。正慶(しょうけい)2年(1333)の銘文があり三間四方檜皮葺(ひわだぶ)きで、どっしりとした安定感がある。帰途にかならず振り返って見るほどなので「見返りの塔」ともいわれる。上田市別所温泉の安楽寺(あんらくじ)の八角三重塔(国宝)は純粋な禅宗様で、一層に裳階(もこし)をつけ、八角様式の異色な建物である。松本城の大天守、渡櫓(わたりやぐら)、乾(いぬい)小天守(いずれも国宝)は1592年(文禄1)から1600年(慶長5)のころの建造で、五層の天守は全国最古である。俗に烏城(からすじょう)ともよばれ、全体の構造物が直線的で素朴な美しさを備えている。神社建築では、大町市の仁科神明宮(にしなしんめいぐう)の本殿・前殿が伊勢(いせ)神宮様の建築様式で国宝に指定されている。国の重要文化財に指定されているおもな建築物には次のようなものがある。後醍醐(ごだいご)天皇の皇子宗良(むねなが)親王が拠(よ)った伊那谷大鹿(おおしか)村の福徳寺本堂は、鎌倉期の建立になる入母屋造、杮(こけら)葺きの阿弥陀(あみだ)堂で、静寂な山中に素朴なたたずまいをみせている。このほか、鎌倉時代の建造物に中禅寺薬師堂(上田市)、釈尊寺観音堂宮殿(小諸市)など、室町時代の建造物に筑摩神社(つかまじんじゃ)本殿(松本市)、前山寺(ぜんさんじ)三重塔(上田市)などがある。旧小笠原家書院(きゅうおがさわらけしょいん)(飯田市)は桃山時代の豪族屋敷の代表的建造物で、崖(がけ)上に突き出した懸(かけ)造の書院と唐破風(からはふ)造の玄関など貴重である。竹村家住宅(駒ヶ根(こまがね)市)は伊那谷の代表的豪農建築で、茅(かや)葺き寄棟造で、土間は10頭の馬が飼える広さがある。

 おもな仏像彫刻に以下のものがある。上田市長福寺の銅造菩薩(ぼさつ)立像は奈良時代の特徴をもつ信濃最古の仏像といわれる。長野市清水寺(せいすいじ)の聖観音(しょうかんのん)立像も藤原時代の特色をもつ優れた立像である。鎌倉時代のものでは、飯田市光明寺の阿弥陀(あみだ)如来像、松本市牛伏寺(ごふくじ)の十一面観世音立像と脇侍(きょうじ)、善光寺境内の世尊院の銅造釈迦涅槃(しゃかねはん)像などがあり、いずれも国の重要文化財に指定されている。佐久市の福王寺には鎌倉初期の地方作風を示すといわれる阿弥陀如来坐像(国の重要文化財)があり、大町(おおまち)市覚音寺(かくおんじ)の胎内木札をもつ藤尾観音堂仏像群、上田市安楽寺惟仙(いせん)・恵仁和尚(えにんおしょう)坐像(国の重要文化財)、同市常楽寺(じょうらくじ)の「板絵着色三浦屋図」(国の重要美術品)なども信州では著名な作品である。木曽谷の中山道宿場景観は全国的に知られている。南木曽(なぎそ)町妻籠(つまご)は木格子、出し梁(ばり)造の低い二階家の旅籠(はたご)や民家20数戸が復原修理され、塩尻市奈良井(ならい)も宿場景観が保存されて、両地区とも国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。また、北国街道沿いに築かれた宿場町の東御(とうみ)市海野宿(うんのしゅく)、農村景観を伝える山間部集落の白馬村青鬼(あおに)、戸隠神社の参詣道沿いに発達した宿坊群を中心とした門前町の長野市戸隠や、近世末期から近代にかけて、生糸や繊維製品の集散地として繁栄した商家町の千曲市稲荷(いなり)山もそれぞれ重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。

[小林寛義]

伝説

信州は伝説の宝庫といわれる。山国だけに「デイラボー」という巨人伝説が至る所に分布し、池や窪(くぼ)みの地形に結び付いている。姨捨山(おばすてやま)は善光寺平(だいら)の南西にそびえる山で、冠着山(かむりきやま)ともいう。親を山に捨てる「姨捨」の伝説は『大和(やまと)物語』『今昔(こんじゃく)物語』『打聞集(うちぎきしゅう)』などにも記されているが、原話はインド、中国から渡来したものといわれている。千曲(ちくま)市の長楽寺境内にある「姥石(うばいし)」は、山に捨てられた老婆が石に化したものと伝えている。長野市の往生寺(おうじょうじ)にある親子地蔵は、刈萱(かるかや)道心と石童丸父子の物語にちなむ。出家した父の刈萱を慕って石童丸が高野山(こうやさん)に行くが、父はすでに善光寺へ出発し、信州に訪ねると父は往生したあとであった。子は地蔵尊を刻んで父を弔ったというのが親子地蔵の由来である。長野市の戸隠(とがくし)山の南方にある荒倉山には鬼女伝説がある。平維茂(これしげ)が「鬼女紅葉(もみじ)」を討った地で、この伝説から謡曲『紅葉狩』や近松の浄瑠璃(じょうるり)『栬狩剣本地(もみじがりつるぎのほんじ)』が生まれた。梓(あずさ)川の右岸新村(にいむら)(松本市)に「ものぐさ太郎」という希代の無精者が住んでいたが、領主の命令で京に上り、才能をみいだされて信濃の中将に任ぜられた。安曇野市の式内社穂高神社は太郎を祀(まつ)り、新村にはものぐさ太郎がいつも腰をかけていたという「腰かけ桜」がある。諏訪大社の諏訪明神の本地として、中世以後語り継がれたものに「甲賀三郎(こうがさぶろう)」の伝説がある。近江(おうみ)国の地頭(じとう)の子三郎が、行方不明になった妻の春日(かすが)姫を捜して全国を旅した。蓼科山(たてしなやま)の穴底で妻を発見するが、兄次郎のたくらみで三郎だけ地上に出ることができず、ついに蛇体となって妻に巡り会うという。三郎は諏訪上社に、春日姫は下社に祀られたが、末弟の三郎がさまざまな困難に打ち勝って最後に成功するという末子成功譚(たん)でもある。諏訪社の神人たちの語りを経て、御伽草子(おとぎぞうし)の『諏訪の本地』として諸国に流布された。伊那谷の駒ヶ根市光前寺(こうぜんじ)に早太郎犬の塚がある。遠江(とおとうみ)の府中(静岡県磐田(いわた)市)の天満宮に大狒々(おおひひ)が住み着き、田畑を荒らし子供をさらったりした。この大狒々を早太郎が退治したが、早太郎も重傷を負って寺に戻ると息を引き取った。塚は早太郎を弔ったもので、この伝説が縁となって駒ヶ根市と磐田市は姉妹都市となっている。

[武田静澄]

『『信濃史料』全32巻(1952~1972・信濃史料刊行会)』『浅川欽一・大川悦生著『信州の伝説』(1970・第一法規出版)』『『長野県史』全38巻70冊(1971~1992・長野県)』『荒井勉著『信州の教育』(1972・合同出版)』『塚田正朋著『長野県の歴史』(1974・山川出版社)』『向山雅重著『日本の民俗 長野』(1975・第一法規出版)』『小林寛義・市川建夫著『ふるさと地理誌』(1977・信濃毎日新聞社)』『『長野県の地名』(1979・平凡社)』『『長野県百科事典』補訂版(1981・信濃毎日新聞社)』


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