長谷川潔
はせがわきよし
(1891―1980)
版画家。横浜市生まれ。東京の麻布(あざぶ)中学校を卒業後、黒田清輝(せいき)に素描を、岡田三郎助(さぶろうすけ)、藤島武二(たけじ)に油絵を学ぶ。1913年(大正2)から文芸雑誌『仮面』の同人となって創作版画を発表。18年末アメリカへ出発し、翌春パリへ渡る。銅版画技法マニエール・ノワール(メゾチント)を復活させ、さらに独自の近代的表現を加える。26年サロン・ドートンヌ版画部会員(48年には絵画部会員)のほか、春陽会会員、日本版画協会創立会員となる。35年(昭和10)レジオン・ドヌール勲章、ついでパリ万国博覧会で金賞牌(はい)を受ける。64年フランス芸術院コレスポンダン会員、66年フランス文化勲章受章。80年京都国立近代美術館で大回顧展が開かれたが、同年12月13日パリの自宅で没した。
[小倉忠夫]
『京都国立近代美術館監修『長谷川潔版画作品集』(1981・美術出版社)』
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長谷川潔 はせがわ-きよし
1891-1980 大正-昭和時代の版画家。
明治24年12月9日生まれ。油絵から創作版画にうつり,同人文芸誌「仮面」の表紙を担当。大正8年(1919)以後パリに定住,銅版画技法マニエール-ノワールを復活させ,独特の黒の濃淡表現を創造した。昭和10年レジオン-ドヌール勲章。昭和55年12月13日パリで死去。89歳。神奈川県出身。麻布(あざぶ)中学卒。
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はせがわ‐きよし【長谷川潔】
版画家。横浜市出身。大正七年(一九一八)フランスに渡り、古い銅版画技法を復活させて独自の画風を築き、フランス画壇で高く評価された。一九三五年レジオン‐ドヌール勲章受章。明治二四~昭和五五年(一八九一‐一九八〇)
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デジタル大辞泉
「長谷川潔」の意味・読み・例文・類語
はせがわ‐きよし〔はせがは‐〕【長谷川潔】
[1891~1980]版画家。神奈川の生まれ。パリで活躍。古い銅版技法を復活させて独自の様式を築き、国際的に高い評価を得た。
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はせがわきよし【長谷川潔】
1891‐1980(明治24‐昭和55)
版画家,画家。横浜市に生まれる。黒田清輝の白馬会研究所に学ぶとともに版画を作り始め,文芸誌《仮面》の同人として表現主義風の木版画で口絵や表紙を飾った。1918年本格的画法,銅版画技法修得のため渡仏。24年ころ,廃れていた銅版画技法マニエール・ノアール(メゾチント)を復活させ,白黒の諧調の美しい銅版画を創案した功績は大きい。以来,自然観照を深め,自然の神秘,自然の哲理を格調の高い静謐(せいひつ)な静物画に表現し,世界一級の版画家となった。
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世界大百科事典内の長谷川潔の言及
【銅版画】より
…J.マーティンやターナー,コンスタブルらの絵画も複製されるが,19世紀後半には流行が衰えた。それを現代に復活させたのは長谷川潔であり,M.アバティ,浜口陽三たちがこれを継ぐ。(6)アクアティントaquatintはメゾティントのように面的な加工・表現を可能とする。…
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