長谷川好道(読み)はせがわ・よしみち

朝日日本歴史人物事典 「長谷川好道」の解説

長谷川好道

没年:大正13.1.27(1924)
生年嘉永3.8.26(1850.10.1)
明治大正期の陸軍軍人岩国藩(山口県)藩士長谷川藤次郎の長男。藩の精義隊小隊長として戊辰戦争に参加。明治3(1870)年大阪兵学寮に入学。翌年歩兵大尉。歩兵第1連隊長として西南戦争(1877)で戦う。18~19年,フランスに派遣された。日清戦争(1894~95)では混成旅団を率いて大山巌の第2軍に属した。満州(中国東北部)と山東で連戦し旅順攻撃で勝利を収めたが,その直後の市民大虐殺は拭い難い汚名を残した。戦功により男爵,29年中将。同年桂太郎を継ぎ第3師団長。37年大将に進む。日露戦争(1904~05)では朝鮮駐箚軍司令官。終戦後,朝鮮保護条約が結ばれ,伊藤博文が朝鮮統監になると,満州朝鮮政策に関して文武離隔が広がり,伊藤と長谷川が対立し,外国の新聞にも報道されるに至った。40年,ハーグ密使事件に対して日本政府は朝鮮国王を退位させ,反日運動が激化した。45年から大正4(1915)年の間参謀総長に任命されたが政治能力に欠け,2個師団増設問題などで政党,海軍に対抗するには力不足とみられた。4年元帥となり,5年朝鮮総督に任じられたが,朝鮮啓蒙運動と経済発展に対処できず,3・1独立運動(1919.3.1)に対して銃と剣をもってしか応えられなかった。軍隊による虐殺は世界中から批判され,8年8月辞任した。<参考文献>鵜崎鷺城(熊吉)『薩の海軍 長の陸軍』

(スチュワート・ローン)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「長谷川好道」の意味・わかりやすい解説

長谷川好道 (はせがわよしみち)
生没年:1850-1924(嘉永3-大正13)

明治・大正期の陸軍軍人。長州藩士長谷川藤次郎の長男。戊辰戦争,西南戦争などに従軍。日清戦争には混成旅団長として第2軍に従軍,のち第3師団長,近衛師団長をへて日露戦争には第1軍に従軍,韓国駐劄(ちゆうさつ)軍司令官となる。軍事参議官,参謀総長などを歴任し,1914年元帥となった。16-19年第2代朝鮮総督をつとめ,いわゆる武断政治を徹底させたが,朝鮮民族の三・一独立運動のなかで辞任した。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「長谷川好道」の解説

長谷川好道 はせがわ-よしみち

1850-1924 明治-大正時代の軍人。
嘉永(かえい)3年8月26日生まれ。周防(すおう)(山口県)岩国藩士の子。日清(にっしん)戦争では混成旅団長,日露戦争では韓国駐箚(ちゅうさつ)軍司令官。のち参謀総長などをつとめる。陸軍大将,元帥。大正5-8年朝鮮総督。在任中に朝鮮民族の三・一独立運動がおこり辞任した。大正13年1月27日死去。75歳。

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