長沙(読み)ちょうさ(英語表記)Cháng shā

精選版 日本国語大辞典 「長沙」の意味・読み・例文・類語

ちょう‐さ チャウ‥【長沙】

[1] 〘名〙 広大な砂漠。
海潮音(1905)〈上田敏訳〉象「また岩清水迸る長沙(チャウサ)の央、青葉かげ」
[2]
[一] 中国湖南省の省都。洞庭湖の南方、湘江(しょうこう)の下流東岸に位置する。水陸交通の要地にあり、米、茶、麻布などの集散地

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デジタル大辞泉 「長沙」の意味・読み・例文・類語

ちょうさ〔チヤウサ〕【長沙】

中国湖南省の省都。洞庭湖の南方、湘江しょうこう下流に位置し、交通の要地。機械・紡績などの工業が発達し、農産物の集散地。1972年、東郊の馬王堆まおうたいで前漢代の古墓が発掘された。人口、行政区212万(2000)。チャンシャー

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改訂新版 世界大百科事典 「長沙」の意味・わかりやすい解説

長沙 (ちょうさ)
Cháng shā

中国,湖南省の省都で,省の東部湘江の下流沿岸,京広鉄道沿線にある。人口212万(2000)。省の政治・経済・文化・交通の中心地で,長沙県と望城県を管轄する。古くは青陽と呼ばれ,長江(揚子江)流域から広東に通じる最古の交通路上にあり,嶺南に対する軍事的要衝であったため長江以南で最も早くから発達した都市の一つである。春秋戦国時代を通じて楚国の地で,楚人はみずから商(殷)文化の後継者たることを誇り,周の中原文化と対抗する意識があり,独自の文化を繁栄させた。尭帝の娘で舜帝に嫁いだという娥皇・女英の姉妹も,ここでは楚の民間伝承と結びついて湘君・湘夫人と呼ばれてまつられている。屈原やその弟子の宋玉,景差らによって作られた《楚辞》は中国文学の源流の一つをなしている。屈原が身を投げた汨羅(べきら)も長沙から近い。前漢には南方の要地としてとくに帝室の一族が封じられ〈長沙王〉と称した。武帝が儒学に特権的地位を与えて以来,それを喜ばぬ文人や黄・老などの諸派には,南下して長沙王のもとに身を寄せるものがあったし,また賈誼(かぎ)のように中央政府から左遷されてくる者もいた。1972年市郊外の馬王堆(まおうたい)で,漢代初期の古墓がほぼ完全な形で発見され,軑侯(だいこう)夫人の遺体と副葬品である帛書(はくしよ),絹織物,竹簡,陶器,地図は中国古代文化の研究にとってきわめて貴重な資料である。

 漢以来,臨湘県といい,隋代に長沙県に改名され,宋代以後善化県を並置して清末におよんだ。すでに秦代から長沙郡が置かれ,漢代には長沙国または長沙郡,南北朝時代には湘州,隋以後は潭州の治所となった。五代のとき馬殷がここに独立して国を建てたのも主として交通上の優位による通過貿易の利益に目をつけたにほかならない。のちに南唐の領土に入り,また周行逢の根拠地となった。宋では荆湖南路転運使が置かれ,元では潭州路といい,一時湖広行省が置かれたがまもなく廃止され,末期には天臨路と改めた。明以後,長沙府と称し,1664年(康煕3)から巡撫の治所として湖南省の中心となった。民国には府を廃して善化県を長沙県に合わせ,1933年市街部に市を設置した。旧市街をとりまく周囲7kmの城壁はとりこわされて環状道路となり,湘江岸は河街と呼ばれ碼頭(埠頭)が連なるほか,橘子洲という中州や江を隔てた西岸にも市街が発達した。下関条約により1904(光緒30)に開港したが外国貿易はあまり発展しなかった。

 長沙は,中国の穀倉である湖南省最大の農産物集散地として,古くから米市でにぎわった。現在も湘江流域の米,豚,茶油,茶,木材などの大集散地である。解放後,工業の発展はめざましく,機械・紡績・食品工業などが核となる総合的な工業都市である。明末・清初には長沙の南の衡陽から王夫之が出たので,湖南の地は滅満興漢運動の策源地の一つであった。また毛沢東の初期革命活動の中心地で,清水塘,湖南自修大学旧址など革命記念地が多い。伝統的な手工業としては湘綉と呼ばれる精巧な刺繡や羽布団,革細工が有名である。
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春秋戦国時代の楚墓は,長沙市郊外の沙湖橋,楊家湾,伍家嶺,瀏城橋,陳家大山,五里牌,黄泥坑,左家公山,識字嶺,仰天湖,黄土嶺などの各地区に1800余基以上も存在するといわれている。この時代の楚墓は長方形竪穴土坑墓が一般的で,墓道をもつものもある。墓室内には木槨と木棺が存在し,墳丘のある墓はまれである。長沙における春秋時代楚墓の発見例は多くないが,1971年に調査された瀏城橋1号墓は,春秋時代末の楚墓の代表例といえる。墓坑は長さ5.84m,幅3.97m,深さ7mあり,中に白色粘土で包まれた二重の木槨が存在した。木槨内には黒漆と紅漆に塗られた木棺が納まり,槨内・棺内には270余点の陶器,青銅器,漆器などの副葬品が存在した。副葬品の中でとくに注目されるのは武器類で,戈や矛の柄は木,竹,籐で作られ,削った竹を束ねた戈,矛,戟(げき)の柄は,《説文解字》に見える〈積竹〉であろうと推測されている。左家公山15号墓は,戦国前・中期の楚墓の代表例である。正方形に近い竪穴土坑の底に1槨・1棺を納め,槨の上下を白色粘土で塗り固めている。副葬品の多くは,槨と棺の間の空間に納められ,陶器,漆・木器,青銅器具類,皮革類などがあった。陶器としては,鼎,敦(たい),壺,鐎壺,盤,匜(い)が出土し,鼎,敦,壺の組合せは,戦国時代前・中期の楚墓における典型である。楊家湾6号墓からは,鼎,盒(ごう),盤,匜,薫炉の副葬陶器が出土しているが,盒の出現は戦国時代後期以降であり,この墓の年代もほぼその時期であろう。

 長沙の戦国墓から出土する遺物は豊富で,多くの漆器,絹織物,竹・木器,陶器,ガラス器,青銅器,鉄器が発見されている。漆器は文様が精緻で,胎質は薄くかつ軽く,木や竹の胎のほか夾紵(きようちよ)胎も知られている。出土する絹織物類には,絹,紗,錦,編物の絹帯があり,戦国時代楚国の絹紡織技術が高水準にあったことを示している。長沙の戦国墓から出土した人物夔鳳(きほう)帛画と人物御竜帛画は,楚国の高い芸術水準を示し,また,五里牌406号墓,仰天湖25号墓,楊家湾6号墓などから出土した竹簡は,楚国の歴史と古文字を研究する上で重要な資料となっている。長沙は楚国の一地方都市であったが,経済・文化の面ではきわめて発展した重要都市であったことを,出土した考古学的な遺物が示している。

 長沙では多くの漢墓が調査されており,その多くは前漢墓で,戦国墓と同じく,長方形竪穴土坑と木槨・木棺をもつ墓が一般的で,長沙市近郊の沙湖橋,糸茅沖,伍家嶺,湯家嶺,柳家大山,馬王堆,識字嶺,砂子塘,紙園沖などに存在し,200余墓が調査されている。長沙の前漢の墓で,最も重要な代表例は馬王堆の3基の墓(馬王堆漢墓)である。馬王堆の1,2,3号墓からは3000点に近い遺物が出土し,2号墓から出土した3個の印章は,馬王堆が第1代軑侯で長沙丞相の任にあった利蒼とその家族の墓地であることを示している。1975年に陡壁山で発掘された曹墓は前漢の武帝前後のころの墓と考えられている。この墓の槨室は木材を小口積みにして壁面を構築しているが,これは《礼記(らいき)》や《漢書》に記載されている〈黄腸題湊〉である。この墓からは大量の玉器と漆器が出土しているが,五銖銭(ごしゆせん)は出土していない。前漢の後期の墓からは五銖銭が出土し,また硬陶が盛行し,薄釉のある陶器も認められる。1951年に集中的に行われた発掘調査では,38基の前漢後期の墓が発見され,これらの墓の副葬品には五銖銭や泥五銖が存在した。前漢の墓は,戦国時代楚国の文化的伝統を継承し,漆器や絹織物の製作技術やそれらに描かれた絵画的資料に楚文化の伝統をみることができる。長沙で発掘された後漢時代の墓は,60基足らずで相対的に遺跡は少ない。51年に7基の後漢墓が発掘調査されているが,これらの後漢墓はすべて小塼で構築されたものであった。副葬品としては,盆,碗,釜,奩(れん)などの陶器と,竈,井戸,家屋などの陶質明器が出土している。これらの陶質明器は,時代を特徴づける遺物であるが,戦国時代,前漢時代にみられた絢爛たる絹織物や漆器は激減する。後漢になってからの長沙が,経済・文化の面で,戦国時代・前漢時代のそれに遠くおよばなかったことを,遺跡や遺物が示している。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「長沙」の意味・わかりやすい解説

長沙
ちょうさ / チャンシャー

中国、湖南(こなん)省東部、湘江(しょうこう)下流部に沿う地級市で、同省の省都。長沙県の県政府も置かれている。別名は潭州(たんしゅう)または星城。岳麓(がくろく)、芙蓉(ふよう)、天心(てんしん)、開福(かいふく)、雨花(うか)、望城(ぼうじょう)の6市轄区と長沙県を管轄し、寧郷(ねいごう)市、瀏陽(りゅうよう)市を管轄代行する(2017年時点)。人口680万3600、市轄区人口318万5000(2015)。秦(しん)代に臨湘(りんしょう)県とよばれ、すでに長沙郡治が置かれていた。漢代に長沙国となり、後漢(ごかん)には長沙郡に復し、隋(ずい)代に長沙県と改称した。隋・唐代には潭州の州治、明(みん)・清(しん)代は長沙府治であった。1933年県の市街地に市制施行。

 亜熱帯季節風気候で、年平均気温は17.2℃。年降水量は1362ミリメートルと豊富。四季の区分は明瞭で、夏と冬はそれぞれ120日程度と長い。春は気温の変化が激しく、初夏には雨が多い。初秋は高温が続き、冬の寒さはあまり厳しくない。鹿児島市と姉妹都市提携を結んでいる。

[河野通博・編集部 2018年1月19日]

歴史

長江(ちょうこう)(揚子江(ようすこう))中流では最古の都市で、交通・軍事上の要衝であった。古来、ミャオ族(苗(びょう)族)、南越に対する防衛拠点で、春秋時代には楚(そ)に属し、南方文化圏の一中心であった。漢以後の臨湘県、隋以後の長沙県にあたる。漢代の長沙国、南朝以後の湘州・潭州と長沙郡・長沙府などの首邑(しゅゆう)であった。乱世にしばしば争奪地となり、1852年太平天国軍に70余日包囲されても陥落しなかった。1927年には、一時中国共産党軍の拠点ともなった。1904年下関(しものせき)条約で開港されたが、対外貿易はあまり発展せず、むしろ奥地の工業都市として栄えている。

[星 斌夫 2018年1月19日]

産業・交通

湘江の水運と京広線が通じる交通の要地である。高速鉄道では京広高速鉄道、滬昆(ここん)高速鉄道(上海(シャンハイ)―昆明(こんめい))が通じ、京港澳(けいこうおう)高速道路(北京(ペキン)―香港(ホンコン)―マカオ)、滬昆高速道路も通る。長沙県にある長沙黄花国際空港は、2011年に第2ターミナルが完成して発着枠が拡大した。

 古くから重要な商業都市であり、中華人民共和国成立後、工業が発展した。食品加工、建設機械、素材産業が工業生産の半分を占めているが、1990年前後に長沙経済技術開発区と長沙ハイテク産業開発区(高新区)が設置されて以降、自動車産業や電子製品製造業の発展も目覚ましい。そのほかには伝統の花火産業と、湖南テレビに代表されるコンテンツ産業が盛ん。地下資源、非金属資源が豊富で、とくに瀏陽の彩色菊花石(きっかせき)は希少な鑑賞石として知られる。伝統工芸として彩色菊花石を使った彫刻のほか、湘繍(しょうしゅう)とよばれる刺しゅう、陶磁器が特産である。

[唐 琳 2018年1月19日]

文化・観光

早くから長江南部の交通・軍事上の中心であって文化も開けていた。1972年に東郊の馬王堆(まおうたい)で発掘された漢代初期の古墓3基(馬王堆漢墓)からは、中国古代史を解明するうえでの貴重な遺物3000点余りが発見され、考古学的に注目される都市でもある。

 長沙はまた中国革命運動史のうえからも重要な土地であり、毛沢東(もうたくとう)の初期の革命活動の舞台であった。清水塘(せいすいとう)の中国共産党湘区委員会旧跡、岳麓山、湖南省立第一師範学校跡、湖南自修大学跡をはじめ多くの革命史跡が残され、それを詠んだ毛沢東の詩によって有名である。毛沢東の最初の妻で革命の犠牲となった楊開慧(ようかいけい)(1901―1930)の墓も故郷の長沙県板倉にある。景勝地として湘江西岸の岳麓山頂の愛晩亭、湘江の中州の橘子州(きっししゅう)などがある。

[河野通博 2018年1月19日]

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百科事典マイペディア 「長沙」の意味・わかりやすい解説

長沙【ちょうさ】

中国,湖南省の省都。湘江下流の右岸にあり,京広鉄路(北京〜広州)に沿う。交通・経済・教育文化の中心で,米の取引は〈四大米市〉の一つと呼ばれるほど盛ん。木材,麻などの集散があり,紡績工業,伝統の絹織物・刺繍(ししゅう)は〈湘綉〉と呼ばれ有名。湖南大学がある。古くから国の地で,屈原の《楚辞》など,北方に対し独自の文化を誇った。解放後郊外の楚〜宋代の多数の墓が発掘され,戦国時代や漢代の木槨(もっかく)墓,後漢や宋の【せん】槨(せんかく)墓などが発見された。とくに1972年に馬王堆で発掘された漢代初期のほぼ完全な墳墓は,中国古代文化の研究にとってきわめて貴重な史料とされる。298万人(2014)。
→関連項目湖南[省]

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「長沙」の解説

長沙(ちょうさ)
Changsha

中国湖南省の省都。湘江(しょうこう)下流域にある水陸交通の要衝の地。秦漢以後,中原の文化が普及した。1972年,市東北にある馬王堆(まおうたい)漢墓からミイラが発掘されたことでつとに有名になった。市内には朱熹(しゅき)の岳麓(がくろく)書院や毛沢東が教鞭をとった学校など,旧跡が多い。現在は機械化学工業都市として発展している。鹿児島市と友好都市関係にある。

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