長崎高資(読み)ながさきたかすけ

精選版 日本国語大辞典 「長崎高資」の意味・読み・例文・類語

ながさき‐たかすけ【長崎高資】

鎌倉時代末期の武将。将軍北条高時のとき父高綱の後をうけて内管領となり幕府の実権を握った。元弘三年(一三三三)、新田義貞の鎌倉攻めに敗れて自害。元弘三年没。

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デジタル大辞泉 「長崎高資」の意味・読み・例文・類語

ながさき‐たかすけ【長崎高資】

[?~1333]鎌倉後期の武将。執権北条氏の御内人北条高時のとき内管領となり実権を握ったが、失政から政治混乱を起こした。新田義貞の鎌倉攻めに敗れて自殺

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改訂新版 世界大百科事典 「長崎高資」の意味・わかりやすい解説

長崎高資 (ながさきたかすけ)
生没年:?-1333(元弘3)

鎌倉末期の武士。高綱(法名円喜)の子。父の跡を継ぎ,得宗被官(とくそうひかん)(御内人(みうちびと))として内管領(うちかんれい)の地位を得,専横政治を展開した。1322年(元亨2)に陸奥安東氏の内紛が起こると,対立する両勢力から賄賂をとって乱を長引かせるなど,その政治姿勢は御家人不信不満を増長させた。そのため公家側に討幕の機会を与える結果を招き,24年(正中1)には正中(しようちゆう)の変が起こっている。26年(嘉暦1)病により執権北条高時が出家すると,専断金沢貞顕(かねさわさだあき)を執権に据えたが,反対の動きが強く貞顕は就職後10余日で出家。ついで赤橋守時(あかはしもりとき)が執権となるが,これも〈高資が僻事(ひがごと)〉(《保暦間記》)であったという。33年5月新田義貞の鎌倉攻めで自害した。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「長崎高資」の意味・わかりやすい解説

長崎高資
ながさきたかすけ
(?―1333)

鎌倉末期の得宗(とくそう)被官。長崎高綱(円喜)の子。通称新左衛門尉(しんざえもんのじょう)。第14代執権北条高時(ほうじょうたかとき)のとき父の後を継いで内管領(うちかんれい)の要職につき、のちには評定衆(ひょうじょうしゅう)の一員ともなって権勢を振るった。1326年(嘉暦1)高時が出家するとその後に金沢貞顕(かねさわさだあき)を推挙したが、高時の弟泰家(やすいえ)らの猛反対にあった。結局赤橋(あかはし)(北条)守時(もりとき)が執権に、大仏維貞(おさらぎこれさだ)が連署(れんしょ)に就任して事は収まったが、これも高資の人事といわれている。また正中(しょうちゅう)・元弘(げんこう)の変のときは後醍醐(ごだいご)天皇に対して強硬な処置を主張したため、高時による高資討伐が計画されたほどであった。1333年(元弘3・正慶2)新田義貞(にったよしさだ)の鎌倉攻めに敗れて自殺した。

[黒田弘子]

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朝日日本歴史人物事典 「長崎高資」の解説

長崎高資

没年:正慶2/元弘3.5.22(1333.7.4)
生年:生年不詳
鎌倉後期の得宗被官。父は高綱。新左衛門尉,四郎左衛門尉。高綱・安達時顕と共に鎌倉幕府運営の中枢にあった。文保1(1317)年,北条高時の家督継承により内管領についた。元亨4(1324)年の筑前国粥田荘の年貢運送船の過所(関所通行許可証)は高資が奉者で袖判は高時であろう。正中3(1326)年の高時の執権辞任では,その弟である泰家の執権就任阻止のため金沢貞顕,次いで赤橋守時を執権に就任させた。また,安東氏の訴訟で双方から賄賂をもらうなど専権がめだち高時から排除されようとした。正中の変では,逮捕した日野資朝・俊基の護送に当たり,元弘の変では再逮捕された俊基の殺害を進言している。鎌倉幕府滅亡に当たり自害した。<参考文献>立花みどり「長崎氏と二階堂道蘊」(『鑑賞日本古典文学』21号),細川重男「内管領長崎氏の基礎的研究」(『日本歴史』479号)

(福島金治)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「長崎高資」の解説

長崎高資
ながさきたかすけ

?~1333.5.22

鎌倉後期の武士。北条氏得宗家の被官。高綱の子。1317年(文保元)頃,父高綱から内管領(ないかんれい)の地位を継いで幕政の実権を握る。22年(元亨2)頃,奥州安藤氏の内紛に際し,当事者双方から賄賂をとって紛争の激化を招き,幕府の権威を低下させた。26年(嘉暦元)出家した執権北条高時の後任に金沢(かねざわ)貞顕をすえるが,高時の弟泰家らの反対にあい貞顕はまもなく辞職。31年(元弘元)高資の専横を憎む得宗高時はその殺害をはかるが,計画が露見するとみずからの関与を否定し処分を免れた。高資に対しては得宗すら無力だった。33年新田義貞に鎌倉を攻略され,北条氏一門や一族とともに東勝寺で自害。

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旺文社日本史事典 三訂版 「長崎高資」の解説

長崎高資
ながさきたかすけ

?〜1333
鎌倉末期の武将
執権北条高時のとき,父のあとを継いで内管領となり,幕政の実権を握る。1326年高時が出家したのち,金沢貞顕を執権に擁立し失敗,ついで赤橋守時が執権となったが,高資の専断はやまず,御家人の不信を招いた。正中の変(1324)のとき,後醍醐 (ごだいご) 天皇の廃位,護良 (もりよし) 親王の遠流,日野俊基・資朝 (すけとも) の死罪を主張。新田義貞の鎌倉攻めにあって自殺した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「長崎高資」の解説

長崎高資 ながさき-たかすけ

?-1333 鎌倉時代の武将。
長崎高綱の子。執権北条高時の内管領(うちかんれい)となり幕政の実権をにぎるが,恣意的で無策な施政に批判や不満があつまった。新田義貞(よしさだ)の鎌倉攻めにあい,正慶(しょうきょう)2=元弘(げんこう)3年5月22日北条一門とともに自刃(じじん)した。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「長崎高資」の意味・わかりやすい解説

長崎高資
ながさきたかすけ

[生]?
[没]元弘3=正慶2(1333)
鎌倉時代末期の武将。高綱の子。執権北条高時のもとで内管領として,幕府の実権を握ったが,新田義貞の鎌倉攻め (1333) で,高時とともに戦死。

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世界大百科事典(旧版)内の長崎高資の言及

【内管領】より

…ないかんれいともいう。鎌倉時代,執権を独占した北条氏の家督である得宗家の家人は御内人(みうちびと)とよばれたが,御内人の筆頭が内管領である。御内人は北条義時・泰時のころより育成され,やがて御家人の勢力をもしのぐようになった。内管領はこの御内人の勢力を背景に,経済的には広大な得宗領を基礎として勢威を振るった。はじめて内管領とよばれた平頼綱は,得宗貞時の乳母の夫として貞時を養育した関係もあって,大きな力を幕政に及ぼし,1285年(弘安8)には政敵の安達泰盛を倒して,10年にわたって幕府の実権を握った。…

【長崎氏】より

…鎌倉時代の北条氏嫡流(得宗)の有力被官家。桓武平氏。北条泰時の被官関実忠の弟平盛綱が長崎を称したのにはじまる。盛綱は1234年(文暦1)尾藤景綱のあとをうけて北条泰時の家令となり,経時・時頼にも仕えた。その子頼綱は続く時宗・貞時の家令としてその権勢を極め,85年(弘安8)には幕府御家人の最有力者安達泰盛を謀殺(弘安合戦)。しかしその専権は長くは続かず,93年(永仁1)貞時の攻撃をうけて一党は没落(平禅門の乱),かわって頼綱の弟(一説には甥)長崎光綱の子孫が台頭した。…

【北条高時】より

…同10月父の死により内管領長崎円喜と安達時顕に補佐され9歳で得宗の座につくが,頻々と執権が交代し政治不安は増大した。16年(正和5)14歳で執権となるが,実権は得宗の専制権力を背景とする内管領長崎高資(円喜の子)が掌握,失政が続いた。24年(正中1)幕府は後醍醐天皇の討幕計画を未然に抑えたが(正中の変),激化する海賊・悪党の跳梁,蝦夷の蜂起,さらに泥沼化する内紛は幕府を弱めた。…

※「長崎高資」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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