長崎養生所(読み)ながさきようじょうしょ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「長崎養生所」の意味・わかりやすい解説

長崎養生所
ながさきようじょうしょ

江戸末期に建てられた日本で最初の西洋病院。建設された地名から小島(こしま)養生所ともよばれる。1857年(安政4)江戸幕府に招かれて長崎の海軍伝習所医官として来日したオランダ人軍医ポンペは軍医養成のための病院付き医学校の設立を強く要請していた。1860年(万延1)設立が認可され、1861年9月20日(文久1年8月16日)開院式が行われた。東西12間半(約22.7メートル)、南北4間(約7.3メートル)の木造2階建て2棟からなり、ベッド15床を備えた大病室8室と、隔離あるいは手術を要する患者を収容する小病室4室のほかに、薬品室、図書室、器具室、洋式調理室、浴室、遊歩場などを備えていた。病院に隣接して医学生のための教室・寄宿舎である医学所が置かれていた。医療器具などもヨーロッパから輸入され、ポンペはこの病院付き医学校の開設によって初めて臨床講義を行うことができた。1865年(慶応1)には精得館と改称、1868年(明治1)には改革され一般市民も受診できるようになり、また西南戦争(1877)時には軍事病院となった。ポンペは1861年に帰国したが、ボードイン(1862年来日)、マンスフェルト(1866年来日)とオランダ人軍医が指導にあたった。

[大鳥蘭三郎 2018年9月19日]

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改訂新版 世界大百科事典 「長崎養生所」の意味・わかりやすい解説

長崎養生所 (ながさきようじょうしょ)

1861年(文久1)長崎に建てられた日本最初の近代的洋式病院(官立)で,近代医学教育の原点となった。蘭医ポンペの要請で小島郷佐古に同年7月1日に落成。病室8で各室15床からなり,ほかに隔離室手術室4,料理室,浴室,運動室などをもつ木造2階建洋風建築であった。西隣に校舎が建てられ医学所(のち精得館)と称し,教室と寄宿舎があった。ポンペはここで基礎から臨床までの系統的な医学教育を行うとともに,診療をなした。〈養生所〉が正式の名称だが,江戸小石川のそれと区別するため長崎の名を冠することが多い。ポンペのあとボードインA.F.Bauduin,マンスフェルトC.G.Mansvelt,ハラタマK.W.Gratamaなどが関係した。養生所と医学校は明治になって長崎医学校となり,長与専斎が校長となった。現在の長崎大学医学部はその後身である。
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百科事典マイペディア 「長崎養生所」の意味・わかりやすい解説

長崎養生所【ながさきようじょうしょ】

ポンペの建言により1860年長崎小島郷に設立された日本最初の官立洋式病院。木造2階建。120床,隔離室,手術室などを付設。翌年基礎医学講義の校舎(医学所)も隣に建設され,1865年精得館と改称。1868年長崎医学校となる。長崎大学医学部の前身。
→関連項目小石川養生所長崎大学

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「長崎養生所」の意味・わかりやすい解説

長崎養生所
ながさきようじょうしょ

日本最初の洋式病院。文久1 (1861) 年に長崎奉行岡部駿河守の助力によって,幕府医官松本良順がオランダ海軍軍医 J. L. C.ポンペ (1829~1908) とともに長崎の西小島に開設した。併設された医学講習所で幕府や諸藩から派遣された医官が医学を学んだ。慶応1 (1865) 年精得館と改称し,分析窮理所を併設してオランダ人化学者,医者の K.ハラタマを招聘。明治1 (68) 年長崎医学校と改称,現長崎大学医学部の前身。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「長崎養生所」の解説

長崎養生所
ながさきようじょうしょ

日本初の洋式の近代病院。海軍伝習派遣教官として来日したポンペが,コレラの大流行を契機に江戸幕府に対しヨーロッパ式の病院の設立を申請。1861年(文久元)8月に開所した。病棟2棟のほか隔離患者室・手術室・運動室(リハビリテーション用)・料理室などを備える。ポンペは翌年の帰国までにここで930人を診察した。65年(慶応元)に精得館と改称。

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世界大百科事典(旧版)内の長崎養生所の言及

【病院】より

… 西欧式の病院は,16世紀キリスト教の伝道とともに西日本のいくつかの都市に設けられたが,教団本部からの医療伝道の禁止令によって廃された。したがって1861年(文久1)に江戸幕府が西洋医学伝習のため,オランダ人教師ポンペの建言によって長崎に設立した養生所(長崎養生所)が,日本における病院の始まりといえる。ただしポンペは,当時のオランダの教育病院のように,貧困階層の病人を収容して,教育に協力させることを考えたが,日本側は,西欧式の近代医療を受けられる施設であると理解して,上層階層のものが多く入院した。…

【ポンペ】より

…コレラ予防,性病予防,種痘にも従事。61年彼の要請で長崎養生所を建てたが,これは,日本における近代病院の最初であるとともに,長崎大学医学部の原点ともなっている。良順のほかに佐藤尚中,司馬凌海,入沢恭平,長与専斎,戸塚文海,岩佐純,佐々木東洋らが学び,日本における西洋医学・公衆衛生の実施・普及の原動力となった。…

※「長崎養生所」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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