長崎会所跡(読み)ながさきかいしよあと

日本歴史地名大系 「長崎会所跡」の解説

長崎会所跡
ながさきかいしよあと

[現在地名]長崎市八百屋町・東上町

江戸時代、長崎貿易を一手に取扱った市政機関の跡。元禄一一年(一六九八)創設で、オランダ・中国との貿易や、その利銀の幕府運上および市中への配分をつかさどる総勘定所で、幕府財政にとって重視された長崎貿易を再編成、その独占化が推進されたといえよう。開設を元禄一〇年とする説があるが(五ヶ会所始并勤方覚)、元禄九年に町年寄の高木彦右衛門が「唐人おらんだ商売割方ならびに三カ一共に、総勘定の元締」に任じられ、同一〇年に銅代物替の総締役を命じられており(唐通事会所日録)、貿易勘定を統轄する役所が望まれていたといえよう。同一一年一〇月「長崎会所」から唐会所の年番方に売立銀一一貫五〇〇目が渡され、それより宿町に配るよう指示された(同日録)八百屋やおや町にあった五ヵ所糸割符会所(総坪数二一九坪余)が接収されて業務を開始、糸割符会所の機能は浦五島うらごとう町に移され、長崎会所の下部機関とされた(「長崎会所元方発端書」長崎市立博物館蔵、「長崎志」など)。幕府勘定所・長崎奉行の支配下で、当初は町年寄四人と請払役一二人、筆者・小役一五人で、五ヵ所糸割会所・代物替会所・雑物替会所などを合併、享保一九年(一七三四)に元方・払方の分局を行って機構を整備した。会所内に払方会所のほか、町年寄書物入蔵・御救銀掛役人詰所が併設され、敷地坪数は五四四坪とも(長崎市中明細帳)、五〇四坪余ともされる(「長崎諸役所絵図」内閣文庫蔵)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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