長崎オランダ商館跡(読み)ながさきおらんだしようかんあと

日本歴史地名大系 「長崎オランダ商館跡」の解説

長崎オランダ商館跡
ながさきおらんだしようかんあと

[現在地名]長崎市出島

出島でじまに置かれたオランダ東インド会社の日本出張所の跡。出島和蘭商館跡として国指定史跡。寛永一八年(一六四一)平戸のオランダ商館が移転したことにより開設。寛政一一年(一七九九)東インド会社が解散したことに伴い商館はバタヴィア(ジャワ)のオランダ国東インド政庁の管轄下となり、安政二年(一八五五)の日蘭修交通商条約の締結後、同五年にネーデルランド貿易会社の代理店となる。

寛永一六年以後もオランダ貿易は変わらず、六―七月に来航してパンカド(糸割符)白糸を売却し、ついで蘇木・香料・胡椒・砂糖・皮革織物(西欧毛織物・中国絹織物や印度・ペルシア産織物など)などを売っていたが、慶安二年(一六四九)のオランダ船二隻による取引高は商品代銀七七五貫目余、丁銀・銀道具の銀五千三四〇貫目余、遣捨(出島の諸経費)銀九六〇貫目余となっており(通航一覧)、日本からの銀輸入額の大きさが知られる。明暦元年(一六五五)糸割符廃止に伴い対日貿易は好調となり、万治元年(一六五八)・寛文四年(一六六四)および同六年より延宝元年(一六七三)までの間は一〇〇万グルデンを超える純益となった(ナホッド「十七世紀日蘭交渉史」)。延宝元年より市法貨物仕法が施行、オランダ人は「長崎奉行によってかれの意のままに評価される」貿易と認識していた。貞享二年(一六八五)定高貿易仕法によりオランダ船の貿易高を金五万両(銀で約三千四〇〇貫文)に制限され、糸割符が復活、金銀の海外流出を抑制するなど幕府の政策に左右された。なおオランダ船生糸の売高は定高の約三分一とすべきこととされ、それ以上の取引は認められなかった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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