長久手古戦場(読み)ながくてこせんじよう

日本歴史地名大系 「長久手古戦場」の解説

長久手古戦場
ながくてこせんじよう

[現在地名]長久手町長湫

天正一二年(一五八四)織田信雄徳川家康と連合して羽柴秀吉小牧・長久手に会戦した。四月九日、秀吉の部将池田恒興(勝入、信輝)・森長可・堀秀政・三好秀次らは五隊を編成し、約二万の兵を率いてひそかに徳川軍の背後(東方)を通り、家康の本拠岡崎城の襲撃を図ったが、徳川方に察知され、この地で両軍激突、池田方は大敗し恒興・長可らが戦死した。秀吉は救援に駆け付けたが、徳川方はすでに小幡おばた(現名古屋市)に引揚げたあとで間に合わなかった(長久手記、長久手合戦記、長久手戦場図)

これが長久手の戦で、戦場は香流かなれ(矢田川の支流)上流南方に広がる丘陵地帯で広範囲にわたるが、その中心と思われるおよそ三万四千平方メートルの地域が国の史跡に指定され、そのなかの字仏ヶ根に池田恒興・之助父子および森長可を葬る池田いけだ(勝入塚、勝九郎塚)武蔵むさし塚のほか、家康が金扇の馬標を立てたという御旗みはた(字富士浦)、同じく色金いろがね山頂巨岩に腰かけて軍議を開いたという床几石(字色金)、また戦死した将兵首塚(字元門)などが含まれている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「長久手古戦場」の解説

ながくてこせんじょう【長久手古戦場】


愛知県長久手市にある古戦場跡。指定名称は「長久手古戦場 附御旗山(つけたりみはたやま) 首塚(くびづか) 色金山(いろがねやま)」。長久手古戦場は長久手の中心地から西南方の丘陵地帯に位置し、1584年(天正12)の小牧・長久手の戦いで主戦場となった。同年4月9日には羽柴秀吉の先鋒(せんぽう)、池田恒興(つねおき)とその子の池田之助(ゆきすけ)、森長可(もりながよし)などが徳川家康軍と激戦を展開した。仏が根には池田恒興、その南方の一段低い武蔵塚には池田之助、さらにその西方に森長可の墓がある。城屋敷は池田方の陣地と伝えられ、鎧掛松(よろいかけのまつ)と呼ばれる老松がある。また、御旗山は富士浦にあって、頂上には富士浅間社の社殿があり、家康が旗揚げした場所と伝えられるが、社殿の傍にはその由来を記した石標がある。首塚は、岩作(やざこ)元門(もとかど)の県道北側に位置し、人家に囲まれて高さ約1m、東西約5m、南北約6mの石垣が組まれ、「宝永三年四月建設ノ首塚」と記された石標と明治時代の碑がある。塚は高さ約1.5m上に松などの樹木が繁っている。岩作色金の色金山は首塚の北側、安昌寺の後方にある丘陵で、南西に激戦地の跡を眺望できる。丘上の3個の自然石は、古来、牀几石(しょうぎいし)と呼ばれ、家康が戦況を望む際に腰掛けに使ったものといわれる。現在、周辺は古戦場公園になっている。愛知高速交通東部丘陵線長久手古戦場駅から徒歩約3分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android