鏡新明智流(読み)キョウシンメイチリュウ

デジタル大辞泉 「鏡新明智流」の意味・読み・例文・類語

きょうしんめいち‐りゅう〔キヤウシンメイチリウ〕【鏡新明智流】

剣術一派。安永年間(1772~1781)桃井直由ももいなおよし創始

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「鏡新明智流」の意味・わかりやすい解説

鏡新明智流
きょうしんめいちりゅう

近世剣術の一流派。いわゆる田沼時代におこった新興流派の一つで、流祖は桃井八郎左衛門直由(もものいはちろうざえもんなおよし)(1724―74?)。初め鏡心明知流と書いた。直由は大和郡山(やまとこおりやま)の柳沢家の臣で、1757年(宝暦7)父のことで浪人し、諸国を歴遊して戸田、一刀、柳生(やぎゅう)、堀内の4流を修め、戸田流の秘太刀を基本に、槍術(そうじゅつ)山本無辺流の長所を加えて一流を編み出したという。1773年(安永2)江戸へ出て、大禾士流軒伴山(おおのぎしりゅうけんばんざん)と称し、日本橋南茅場町に道場を開き、芝愛宕(あたご)山の掲額事件で評判をとり、門人養子の2代春蔵直一(しゅんぞうなおかず)(1749―1819)が寛政(かんせい)年間(1789―1801)道場士学館(しがくかん)を築地浅蜊河岸(つきじあさりがし)に移すころにはしだいに門人も増え、3代春蔵直雄(1786―1852)の時代には、竹刀打込稽古(しないうちこみげいこ)、試合剣術の流行に伴い、道場もますます盛況を示した。

 4代の春蔵直正(なおまさ)(1825―85)は沼津藩士田中重左衛門の二男で、1841年(天保12)17歳のとき、その天才的な太刀筋を見込まれて養子に入り、25歳で奥伝を受け、52年(嘉永5)28歳で4代目を継ぐころには千葉栄次郎、斎藤新太郎らと並ぶ江戸一流の若手の大家といわれ、63年(文久3)には幕府の講武所剣術教授方に登用された。士学館には春蔵の剣名を慕って、全国諸藩からの入門者や短期の随身(ずいしん)者が多く集まり、千葉の玄武館、斎藤の練兵館とともに江戸の三大道場とよばれた。門下にも俊才が多く、56~57年(安政3~4)のころには土佐藩武市半平太(たけちはんぺいた)がこの塾監を勤めた。また上田馬之助(うまのすけ)、阪部大作(さかべだいさく)、兼松直廉(かねまつなおかど)、久保田晋蔵(くぼたしんぞう)、逸見宗助(へんみそうすけ)らは維新後も警視局(庁)剣術の中心的人物として活躍した。

[渡邉一郎]

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デジタル大辞泉プラス 「鏡新明智流」の解説

鏡新明智流

剣術の流派のひとつ。大和国出身で、冨田流、一刀流などを学んだ桃井八郎左衛門直由(なおよし)が創始。代々の宗家は春蔵を名乗る。流派名は冨田流の技名「鏡心」にちなみ、当初「鏡心明智流」と表記したが、のちに「鏡新」に改めた。安永2年(1773)に江戸、日本橋萱場町に道場を開く。2代宗家の春蔵直一(なおかず)の時代に南八丁堀大富(おおとみ)町に移転、以後道場を士学館と称するようになり、玄武館、練兵館とともに“江戸三大道場”のひとつに数えられた。

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