鎌倉(市)(読み)かまくら

日本大百科全書(ニッポニカ) 「鎌倉(市)」の意味・わかりやすい解説

鎌倉(市)
かまくら

神奈川県の南東部、湘南(しょうなん)地方東部の市。1939年(昭和14)鎌倉、腰越(こしごえ)の2町が合併して市制施行。1948年(昭和23)大船(おおふな)町、深沢(ふかざわ)村を編入。JR東海道本線、JR横須賀線が通じ、大船からはJR根岸(ねぎし)線、湘南モノレール(大船―湘南江の島間)が発する。また、南部の鎌倉―藤沢間には江ノ島電鉄が通ずる。また国道134号が走る。

 源頼朝(よりとも)の鎌倉開府以来、鎌倉地区は中世の軍事政治都市で、12世紀末から約150年間にわたって日本政治の中心地であった。面積39.67平方キロメートル、人口17万2710(2020)。

[浅香幸雄]

自然

地形上は三浦半島の丘陵(第三紀層)の北端部にあたる。北西の大船地区は標高60~80メートルの丘陵で、中央部には柏尾(かしお)川の本・支流がつくった三角州性の沖積平野が続く。これに対し南東の鎌倉地区は、周りが110~140メートルの丘陵が馬蹄(ばてい)形に巡らされていて「かまど」に似ており、「かまくら」の地名のおこりとされ、それから滑(なめり)川が流下する。この丘陵が相模(さがみ)湾へ臨む所は岩石海岸をなし、稲村ヶ崎や小動崎(こゆるぎがさき)では海食地形が発達し、由比ヶ浜(ゆいがはま)や材木座海岸では砂浜が発達し、湘南海岸きっての景勝地をなす。

 鎌倉は湘南型気候の代表地区である。気温は年平均16℃で、冬0℃以下に下がったり、夏も27℃を超えるようなことは少ない。昼夜の気温差も小さい。年降水量は1500ミリメートルで、集中豪雨その他の気象災害はほとんどみられない。

[浅香幸雄]

歴史

鎌倉における最古の遺物は、大船の粟船(あわふね)山で発見された旧石器時代の刃器形石器である。縄文時代の遺跡は北部の柏尾川流域に多くみられ、関谷東正院遺跡(せきやとうしょういんいせき)では集落の跡が発掘され、水道山遺跡(すいどうやまいせき)からは多くの遺物が出土した。旧鎌倉町内では、早くから横浜国立大学附属小学校や荏柄(えがら)天神前付近から遺物の出土が報じられていたが、近年、鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)境内の発掘調査の際にも若干の縄文土器が出土した。弥生(やよい)時代になると雪ノ下南御門遺跡(ゆきのしたみなみみかどいせき)で中期の住居跡が発見され、後期になると遺跡の分布は鎌倉全地域に広がってゆくが、柏尾川沿いの丘の上には続々と集落が営まれるようになった。山崎の水道山戸ヶ崎遺跡(すいどうやまとがさきいせき)では20戸以上の住居跡が発見され、関東では出土例の少ない鉄器と数点の青銅器が出土し、注目されている。やがて古墳時代を迎え、その後期には由比ヶ浜(ゆいがはま)海岸近くに古墳群がつくられた。その古墳群の一つと思われる采女(うねめ)塚からは優れた埴輪(はにわ)女子像や武士像、馬像、円筒などが出土しており、中央勢力との関係を想起させる。

 文献では『古事記』景行(けいこう)天皇の段に、倭建命(やまとたけるのみこと)の子、足鏡別王(あしかがみわけのみこ)は「鎌倉之別(かまくらのわけ)」の祖と記されているが、この鎌倉は相模(さがみ)国(神奈川県)の鎌倉と解されている。『正倉院文書』の天平(てんぴょう)7年(735)閏(うるう)11月10日の「相模国封戸租交易帳(ふこそこうえきちょう)」には、従(じゅ)四位下高田王の食封(じきふ)として「鎌倉郡鎌倉郷参拾戸、田壱佰(いっぴゃく)参拾五町壱佰玖(きゅう)歩(ぶ)(後略)」とみえ、確実な文献上の「鎌倉」の名の初見とされている。なお、このほかにも鎌倉郡内の郷と思われる尺度郷(さかどごう)、荏草郷(えがやごう)の名もみえている。平安時代の鎌倉については資料が乏しい。『倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』によれば、当時、鎌倉郡は沼浜、鎌倉、埼立(さきたて)、荏草、梶原(かじわら)、尺度、大島の7郷(ごう)から成り立っていたという。

 平安後期は源平二氏の興起の時代である。源頼信(よりのぶ)は上野(こうずけ)(群馬県)、常陸(ひたち)(茨城県)以下諸国の国司を歴任し、鎮守府将軍となり、1031年(長元4)平忠常(ただつね)の乱を平定し、東国に勢力を築いた。その子源頼義(よりよし)も相模守(かみ)となって下向し、陸奥(むつ)守鎮守府将軍に任じられ安倍頼時(あべのよりとき)を征討したが、1062年(康平5)には安倍貞任(さだとう)を討って平定した(前九年の役)。その翌年、彼は鎌倉郷由比に石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)の分霊を勧請(かんじょう)して社殿を造営した。これが鶴岡八幡宮のおこりである。その子源義家(よしいえ)は1081年(永保1)この八幡宮若宮(わかみや)を修理した。鎌倉が頼義・義家の東国における重要な拠点であったことはうかがわれるが、所領であったという明白な証拠はない。そのころは鎌倉権五郎景正(かげまさ)をはじめ鎌倉党と称する平氏の武士団が現れ、開発領主として活躍しているので、鎌倉姓を名のる彼らが領主であった可能性が高い。梶原や坂ノ下にある御霊神社(ごりょうじんじゃ)は鎌倉平氏の本拠に祖神として祀(まつ)ったものと推定されている。源義朝(よしとも)は1144年(天養1)「鎌倉之楯(たて)(館)」を祖先から伝得したと主張していたが、それはおそらく頼義・義家以来のもので、その館は亀ヶ谷(かめがやつ)の寿福寺付近にあったと考えられ、ここを根拠地として、鎌倉党の大庭(おおば)氏が下司(げし)を務める大庭御厨(みくりや)に侵入している。その後、義朝は東国の勢力を背景に上洛(じょうらく)し、保元(ほうげん)の乱(1156)に活躍した。東国では義平(よしひら)がその後を継ぎ「鎌倉の悪源太」と称されているから、やはり鎌倉の館に住んでいたのであろう。

 1180年(治承4)10月、源頼朝(よりとも)が鎌倉に入り、ここに鎌倉幕府を開いたのも、この地が要害であると同時に、頼義・義家とくに父義朝との縁故の深い土地柄ということも重視したからであろう。頼朝は鎌倉に入ると、ただちに由比郷にあった鶴岡八幡若宮を小林郷の北山に移し、鶴岡八幡宮新宮若宮と称した。彼はここを中心として、大倉に自らの邸宅を新造し、御家人(ごけにん)たちにも宿館を構えさせ鎌倉の都市としての設営が始まってゆく。1182年(寿永1)頼朝は鶴岡八幡宮を京都の内裏(だいり)になぞらえ、社頭から由比ヶ浜まで一直線に海岸に向かう若宮大路を築造した。また、これと並行して、南北にかけて小町大路、今大路、東西には若宮大路と交わって横大路、車大路などがあった。源家三代ののち摂家将軍になったが、北条氏が実権を握り、承久(じょうきゅう)の乱(1221)のあとは、鎌倉が事実上の首都としての性格を明らかにしてゆく。幕府も大倉から若宮大路の東側、宇津宮辻子(うつのみやのずし)に移した。1232年(貞永1)北条泰時(やすとき)は御成敗式目(ごせいばいしきもく)を制定、武家法の成立とともに、都市としての鎌倉がさらに発展した。このころから都市としての支配制度や組織が明らかになり、土地の表記も、田地の町段から、京都・奈良と同じように丈尺を用いるようになった。また間口5丈(1丈は約3.03メートル)、奥行10丈を一戸主(へぬし)とよんで家地の基本単位とした。さらに町の制度として1240年(仁治1)京都で行われていた保(ほ)の制を取り入れ、幕府機関の政所(まんどころ)が2人の地奉行(じぶぎょう)と、その下に多くの保奉行人を置き、これを統括、幕府の法令などの通達・実施に携わった。

 一方、鎌倉中の商業地域に関しては、1251年(建長3)小町屋の設置が許され、大町、小町、米町(こめまち)、亀ヶ谷辻(かめがやつつじ)、和賀江(わかえ)、大倉ノ辻、気和飛坂(けわいざか)山上の7か所に限られた。また物価統制も図られたことがある。鎌倉の港は、1232年(貞永1)和賀江嶋(じま)の築港がなされてからは、飯島とともに一段と舟運の便が図られ、中国との交易、あるいは国内航路の重要拠点として大きな役割を果たしていた。この南東の地区を下町とすれば、いわゆる山の手は、大倉を中心として、二階堂、雪ノ下、西御門、小町、扇ヶ谷(おうぎがやつ)などがこれを形成し、御家人たちの邸宅が多く所在したが、鎌倉の四方の入口付近には有力な御家人が配置され、鎌倉防御のうえからの配慮がなされていた。

 なお、鎌倉幕府が創立された当初、根拠地としての鎌倉の範囲は狭小で、西方では稲瀬(いなせ)川のあたりは鎌倉の外とされていた。1224年(元仁1)2月26日疫病が流行したので四角四境祭(しかくしきょうさい)を行った。そのときの四境とは、東は六浦(むつら)、南は小坪(こつぼ)、西は稲村ヶ崎、北は山ノ内とされ、1235年(嘉禎1)12月20日の四境祭のときは、東・南は前と同じであるが、西は片瀬川、北は巨福呂(こぶくろ)坂で祭事が行われた。四境祭とは鎌倉の外で行う祭事であるので、当時の鎌倉はこれらの地域よりも内側ということになる。1240~1241年(仁治1~2)北条泰時は巨福呂坂朝比奈切通(あさひなきりどおし)を開き、極楽寺(ごくらくじ)切通、大仏切通、仮(化)粧(けわい)坂、亀ヶ谷坂、名越(なごえ)切通とともに、いわゆる鎌倉七口として重要道路の出入口とした。すなわち、この内側が当時の「鎌倉中」で、現在でいう旧鎌倉にあたる。この切通の外側の地域には、鎌倉防御上の措置であろうか、北条氏一門が配置されている。そこにはまた、北条泰時の常楽寺、北条時頼(ときより)の建長寺、最明寺(さいみょうじ)、北条時宗(ときむね)の円覚寺(えんがくじ)、北条重時(しげとき)の極楽寺、北条実時(さねとき)の称名寺(しょうみょうじ)などの私寺が営まれた。これは、源頼朝が建立した勝長寿院(しょうちょうじゅいん)、永福寺、源実朝(さねとも)の大慈寺、北条政子(まさこ)の寿福寺、北条義時(よしとき)の薬師堂、藤原頼経(よりつね)の五大堂など、初期の重要な寺院が鎌倉中の山の手にあたる場所に所在したのに対し、注目すべき事柄といえよう。

 1333年(元弘3・正慶2)鎌倉幕府が崩壊し、それに引き続き南北朝の内乱で鎌倉は大きく被害を受けたが、室町幕府が確立し、足利尊氏(あしかがたかうじ)は三男の足利基氏(もとうじ)を鎌倉公方(くぼう)として関東に下し、鎌倉府を置き、東国10か国(あるいは11か国)を管轄させたので、ふたたび鎌倉は都市として復興した。市政も前代のものを踏襲したと考えられ、商工業もかなりの繁栄をみたようだ。鎌倉公方は浄妙寺の東方に公方屋敷を定め、これを補佐する関東管領(かんれい)上杉氏一族は山ノ内、扇ヶ谷、犬懸(いぬかけ)ヶ谷、宅間(たくま)ヶ谷にそれぞれ居館を構えた。社寺については、1386年(元中3・至徳3)足利義満(よしみつ)が建長寺を第1位とする鎌倉五山の順位を定めたほか、新たに尊氏の長寿寺、直義(ただよし)の大休寺、基氏の瑞泉寺(ずいせんじ)、上杉憲方(のりかた)の明月院などが創建された。また、禅僧による五山文学の盛行をみた。しかし、永享(えいきょう)の乱(1438~1439)ののち、鎌倉は衰退の一途をたどり、1455年(康正1)鎌倉公方足利成氏(しげうじ)が、将軍義政(よしまさ)の命を受けた駿河(するが)国(静岡県)の守護今川範忠(のりただ)に攻められて、下総古河(しもうさこが)に逃れ古河公方と称するようになった。ここにおいて鎌倉は急速に衰微した。このとき範忠の軍勢の放火略奪はすさまじく、大社寺にしてこのときに滅んだものも少なくないといわれている。

 1512年(永正9)小田原城を本拠とする伊勢長氏(いせながうじ)(北条早雲(そううん))は、当時鎌倉を支配していた三浦義同(よしあつ)を岡崎城(平塚市)に攻め、これを追い落として鎌倉に入った。そのとき早雲は「枯るる樹(き)にまた花の木を植えそへてもとの都になしてこそみめ」と鎌倉復興の和歌を詠じたという。しかし、早雲は、鎌倉を根拠地とはしなかった。同年、早雲は三浦半島に立てこもる義同攻略のため大船に堅固な玉縄(たまなわ)城を築き、1516年(永正13)義同一族を三崎の新井城に滅ぼした。早雲の後を継いだ氏綱(うじつな)は、1520年鎌倉の検地を行い、鎌倉の諸社寺に所領を寄進した。1526年(大永6)安房(あわ)の里見実堯(さとみさねたか)が鎌倉に侵入し、八幡宮以下の諸宮社が兵火にかかり焼亡したという。そのためであろうか氏綱は1532年(天文1)から1540年にかけて鶴岡八幡宮を再建した。1547年氏康(うじやす)のときに2回目の検地が行われ、氏綱のときと同じように土地課税は貫高の制を用い、税の3分の2を永楽銭(えいらくせん)で納めさせた。また、家屋を基準とした棟別銭(むねべつせん)も賦課した。1561年(永禄4)長尾景虎(かげとら)(上杉謙信(けんしん))は越後(えちご)(新潟県)より小田原城を攻めたが成功せず、むなしく兵を返して鎌倉に入った。このおり上杉憲政(のりまさ)から関東管領職を譲られ、鶴岡八幡宮において拝賀の式を行った。

 1590年(天正18)豊臣(とよとみ)秀吉は小田原城を攻略し、鎌倉に入り鶴岡八幡宮に参詣(さんけい)した。その翌年、徳川家康に鶴岡八幡宮の修理を命じたが、朝鮮出兵が始まって、一部の修理しか行われなかったようである。1602年(慶長7)ふたたび家康の手により修理が行われたが、改めて1622年(元和8)2代将軍秀忠(ひでただ)は八幡宮全体の造り替えを命じ、1626年(寛永3)に竣工(しゅんこう)した。家康は1590年(天正18)北条氏の旧領を与えられて江戸城に入城、翌年、関東一円の検地を行ったが、鎌倉の検地では従前どおりの貫高の制を用い、年貢のほかに棟別銭を徴し、直轄領、寺社領ともに新たに段銭(たんせん)を課したので、鎌倉の寺社は経済的に圧迫を受け、大部分が衰えていった。その反面、江戸時代の鎌倉は、古都としての寺社詣(もう)でや名所遊覧の場として訪れる人が多くなり、知識人による種々の紀行文が著された。江戸中期以降になると文人墨客をはじめとする江戸市民の来遊が盛んとなり、景勝地金沢八景、古都鎌倉、弁財(べんざい)天を祀(まつ)る江の島をセットにして巡覧するコースが定まった。

 幕末になって外国船の来航に伴い、幕府は急遽(きゅうきょ)、江戸湾沿岸、三浦半島沿岸の警備に重点を置いた。1810年(文化7)会津藩は、江戸湾沿岸の西岸、相模側の警備を命ぜられ、陣屋を三崎、観音崎(かんのんざき)に設け、台場を浦賀、観音崎、城ヶ島に設けた。これに従い任地での夫役(ぶやく)徴発の便宜のために、三浦郡、鎌倉郡で3万石余の領地を預けられた。そのおり大船村、岩瀬村、峠村が含まれていた。1820年(文政3)会津藩はその任を解かれ、そのあとは浦賀奉行の所管となったが、非常の場合は川越藩(かわごえはん)と小田原藩が警備にあたることとなった。したがって川越藩には、三浦郡と鎌倉郡内で1万5000石余の領地を与えられた。そのなかには大船村、岩瀬村、峠村が含まれていた。1842年(天保13)幕府は江戸湾警備の強化を図り、相模側の警備は川越藩が一手に引き受けることになった。よって翌年乱橋(みだればし)材木座、長谷(はせ)、坂ノ下、極楽寺、腰越(こしごえ)、津の各村が川越藩の預地(あずかりち)となったのはそのゆえであろう。なお、腰越村の八王子山には遠見番所が設けられていた。1847年(弘化4)相模側の警備に彦根藩(ひこねはん)が新たに加わり、三浦郡野比(のび)村、長沢村(ともに横須賀市)あたりから鎌倉郡の腰越村、片瀬村(藤沢市)まで、三浦半島西海岸を担当することになった。よって川越藩の預地のうち乱橋材木座、長谷、坂ノ下、極楽寺、梶原、常盤(ときわ)、津、腰越の各村が彦根藩の預地となり、川越藩の鎌倉郡内における預地は、峠、岩瀬、今泉、寺分(てらぶん)、上町屋(かみまちや)の各村だけとなった。

 1853年(嘉永6)アメリカのペリーが艦隊を率いて来航、浦賀沖に進入して、久里浜(くりはま)に上陸した。ペリー退去ののち、幕府は江戸湾警備の大改革を断行、これまで三浦半島沿岸の防備にあたっていた川越、彦根の両藩を解任し、これを江戸湾の内海警備に回し、かわって熊本藩、長州藩に警備を命じた。彦根藩の後を引き継いだ長州藩は四つの支藩を引き連れて警衛にあたり、本藩は三浦郡上宮田(三浦市)の陣屋を本営とし、鎌倉郡内では、支藩の一つ長府藩には腰越村の八王子山の遠見番所を、清末(きよすえ)藩には稲村ヶ崎の備場などを重要地点として警衛にあたらせた。このような幕府の海防政策のもとで、鎌倉地域の村々の多くが会津、川越、彦根、長州藩の預地となり支配を受け、異国船渡来の際には人夫、人足として徴発された。

 幕末の開港、攘夷(じょうい)の物情騒然たる世相のうち、1868年(慶応4)神仏分離のことが発令されると、やがて廃仏棄釈(はいぶつきしゃく)となり、鎌倉の中心的存在であった鶴岡八幡宮では供僧(ぐそう)十二院が復飾還俗(げんぞく)して惣神主(そうかんぬし)となり、多宝塔・薬師堂など仏教関係の諸堂社は破却され、仏像・仏具類も取り払われてしまった。

 1889年(明治22)横須賀線が開通し、鎌倉駅が開設された。これにより、寒村だった鎌倉は活気を取り戻し、海水浴場をもつ保養地として発展、あるいは華族・富豪らの別荘地になるとともに、横須賀軍港に勤務する海軍高級将校の居住地となった。また、多くの文学者が来住し、いわゆる「鎌倉文士」の名称が生まれた。第二次世界大戦後は、東京からの近距離と環境に恵まれた場所として、別荘地・保養地から一般的住宅地として急激に開発され、とくに旧鎌倉周辺の歴史的景観が急速に失われ始めた。1966年(昭和41)古都保存法が制定され、鎌倉では朝比奈(あさひな)地区、八幡宮地区、大町・材木座地区、長谷・極楽寺地区、山ノ内地区が「鎌倉市歴史的風土保存区域」に指定され、さらに保存区域のなかで、とくに建長寺、浄智(じょうち)寺、鶴岡八幡宮、瑞泉寺などの13地区は重要な所として「歴史的風土特別保存地区」に指定されている。

[前田元重]

産業

鎌倉の地には、鎌倉時代におこる刀剣造り(日本刀)や刀研(と)ぎ、また鎌倉彫などの伝統工芸がみられる。刀造りは鍛刀で「相州物(そうしゅうもの)」の伝統を継ぐもの。鎌倉彫は国の伝統工芸品の指定を受け、古都鎌倉のメインストリート若宮大路や由比ヶ浜(ゆいがはま)通りなどにいくつもの工房がみられる。鎌倉時代の仏像彫刻や装飾彫刻の技術に、宋(そう)をはじめ中国伝来の技術をあわせたものとされる。木彫と漆芸をあわせたもので、土産(みやげ)品・輸出品として声価が高い。愛好家が増え、近年は素人(しろうと)の稽古(けいこ)事に加えられ、鎌倉彫会館、鎌倉彫資料館も設けられている。こうした伝統工芸に対して、西部の東海道本線に沿う大船地区は近代工業地区として活況を呈している。ここは北の戸塚区(横浜市)から藤沢市にわたる工業地区の一部にあたり、湘南工業地域(しょうなんこうぎょうちいき)の北東端をなしている。大船地区の工業は早く明治中・後期におこっている。当時、横浜の居留外人向けの食料として、ここから北方に広がる相模原(さがみはら)一帯で飼育されていた高座ブタ(こうざぶた)を用いてのハム製造(富岡商会)がおこっていた。また1936年(昭和11)には映画撮影所(松竹大船)ができ、関東の映画産業の拠点となっていた(2000年閉鎖)。しかし本格的な近代工業は、第二次世界大戦後に大船駅付近に始まりついでその南方地区(深沢)に拡張されていった。現在、工場は深沢地区に多く、大船駅付近はショッピングセンター、スーパーマーケット、飲食店など第三次産業色が強い。

[浅香幸雄]

観光・文化

鎌倉への観光客数は年間約2000万人を超える。京都、奈良と並ぶ社寺観光地である。また、由比ヶ浜(ゆいがはま)や材木座海岸、美術館といった観光名所も数多くある。社寺は、鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)のある雪ノ下、二階堂、北鎌倉(山ノ内)をはじめ、長谷(はせ)(大仏その他)の4地区にほぼまとまっている。社寺の創建年代をみると、奈良時代といわれる長谷観音(かんのん)や杉本寺のほかは、鎌倉時代が圧倒的に多い。源氏に関する遺跡・遺物は旧鎌倉の山の手にあり、北条氏のものは山ノ内に多くみられる。これら旧鎌倉地区にあるものは、奈良・京都とともに歴史的風土保存区域となっている。これらの社寺には、境内、建築(社殿・仏殿)、仏像、書画、仏具、什器(じゅうき)などが蔵され、国宝や重要文化財に指定されているものが多い。また、鎌倉の社寺は花の名所である。たとえば建長寺はサクラ、瑞泉寺(ずいせんじ)はスイセンとウメ、カエデ、ボタン、東慶寺はスイセン、ウメ、アジサイ、明月院はアジサイの名所である。鎌倉の社寺には宗教行事のほかに公開される行事も多い。鶴岡八幡宮には、祭礼や民俗行事、歴史行事(流鏑馬(やぶさめ))、文学行事(実朝(さねとも)祭、ぼんぼり祭)など年間十数回にも上る。建長、円覚両寺には初詣(はつもう)で、節分会(せつぶんえ)、宝物の風入れなどのほか、坐禅会も常例となり、長谷寺では年の市(いち)が立つ。また御霊(ごりょう)神社の面掛(めんかけ)行列や鎌倉宮の薪能(たきぎのう)も広く知られる。

 こうした鎌倉観光の目ざす社寺の文化財にも特色がみられる。鶴岡八幡宮所蔵の籬菊螺鈿蒔絵硯箱(まがききくらでんまきえすずりばこ)(国宝)は鎌倉初期の代表作品といわれ、後白河(ごしらかわ)法皇が源頼朝(よりとも)に与えたものを八幡宮に奉納されたとされる。山ノ内にある建長寺は禅宗寺院の伽藍(がらん)配置で構成されたが、これは鎌倉文化創造の先駆けをなしたものであった。のち円覚寺舎利殿(しゃりでん)(国宝)にみられる北宋(ほくそう)風が導入されて唐様(からよう)が構成され、ここに鎌倉で創造の建築文化が出現した。美術としての禅風文化は、建長寺開山の蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)(大覚(だいかく)禅師)墨跡(国宝)にみられ、それで禅家の日常生活の規則と罰則が定められ、そのおもかげは蘭渓道隆像(国宝)にしのばれる。鎌倉文化は関東特有の仏像彫刻にもみられるが、これはさらに武士の絵画風の肖像彫刻へと発展し、その典型が上杉重房(しげふさ)像(明月院・鎌倉国宝館寄託、国指定重要文化財)で、それには武士の独特の姿がみられる。また、鶴岡八幡宮は太刀(たち)、弓、矢、やなぐい(いずれも国宝)などの古神宝類を蔵する。これらは鎌倉武士の創造した鎌倉文化作品である。鎌倉大仏は内外に絶大な親しみをもたれる傑作であるが、これは鎌倉文化の完熟した姿を示しているものといえよう。

 そのほか、鎌倉文学館、鎌倉国宝館、鎌倉芸術館など、文化施設も多い。

[浅香幸雄]

『呉文炳著『鎌倉考』(1959・理想社)』『『鎌倉市史』全6巻(1956~1959・鎌倉市、再版・吉川弘文館)』『沢史生著『鎌倉歴史散歩』(1969・創元社)』『三山進著『鎌倉』(1971・学生社)』『大仏次郎編『素顔の鎌倉』(1971・実業之日本社)』『川副博・川副武胤著『鎌倉――その風土と歴史探訪』(1975・読売新聞社)』『大藤ゆき著『鎌倉の民俗』(1977・かまくら春秋社)』『三浦勝男著『鎌倉の史跡』(1983・かまくら春秋社)』『白井永二編『新装版 鎌倉事典』(1992・東京堂出版)』『那須良輔著『鎌倉の四季』(六興愛蔵文庫)』


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