銀雀山漢墓(読み)ぎんじゃくざんかんぼ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「銀雀山漢墓」の意味・わかりやすい解説

銀雀山漢墓
ぎんじゃくざんかんぼ

中国、山東(さんとう/シャントン)省臨沂(りんぎ/リンイー)市の南郊の丘で、1972年に発見された二つの前漢時代前半期の墓。竹簡(ちくかん)(竹の札(ふだ))に書かれた書籍、とくに『孫子(そんし)』が出土したことで有名。2墓とも比較的小さな長方形竪穴(たてあな)式のものであったが、1号墓からは、長さ27.6センチメートルの竹簡4942枚、2号墓からは長さ69センチメートルの竹簡32枚がそれぞれ発見された。1号墓の竹簡はおおむね兵法書であり、これまでの整理により、『孫子兵法』(105枚)、『孫臏(そんびん)兵法』(137枚)、また『晏子春秋(あんししゅんじゅう)』(112枚)、『六韜(りくとう)』(53枚)、『尉繚子(うつりょうし)』(32枚)、『管子』(10枚)、『墨子(ぼくし)』(1枚)などの書物が復原された。2号墓の竹簡は、武帝の元光(げんこう)元年(前134)の暦であるらしい。

 現行本の『孫子』の著者は、春秋時代の孫武(そんぶ)ではなくて、その子孫である戦国期の孫臏(そんびん)とする説がこれまで有力であり、孫武は架空の人物であるとまでされてきた。しかし発見された竹簡本『孫子兵法』がいまの『孫子』に相当し、同時に『孫臏(そんびん)兵法』が現れたことにより、従来の定説は一気に覆された。

 出土した書物のなかに儒家の著作が認められないことは、秦(しん)の始皇帝(しこうてい)の「焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)」に関係があるとされている。また被葬者は、墓中に武器の類がいっさいないことから、武人ではなく兵法学者であったらしい。なお東隣の金雀山(きんじゃくざん)にも同時代の墓があり、色彩豊かな帛画(はくが)(絹布に描かれた絵)が発見されている。

尾形 勇]

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改訂新版 世界大百科事典 「銀雀山漢墓」の意味・わかりやすい解説

銀雀山漢墓 (ぎんじゃくざんかんぼ)
Yín què shān Hàn mù

中国,山東省臨沂県城の南1kmの銀雀山にある漢墓群。1972年調査の1号墓から孫子と孫臏の両兵法書が出土したことで有名。72-73年の調査では計6基の漢墓が発見された。1~4号墓は竪穴木槨墓で,厚板を組み合わせた一槨一棺の棺槨副葬漆器,鏡,鼎・盒・壺の土器のセットなどに楚文化との強い結びつきを示す。3・4号墓が前漢初期,1・2号墓が前漢中葉で共に異穴合葬の夫婦墓である。5・6号墓は棺のみで槨はない。陶器はすべて緑釉陶で,宣帝(在位前74-前49)以後鋳造の五銖銭,四乳四虺鏡の出土などから前漢末とされる。1号墓には4942枚の竹簡があり,孫子,孫臏の両兵法書のほか《六韜》《尉繚子》《管子》《晏子》《墨子》《相狗経》などの先秦文献があり,2号墓の32枚の竹簡は漢武帝元光元年(前134)暦譜である。また,漆器には〈筥市〉の焼印を押したものがある。筥(きよ)は莒で周代の莒国をついだ漢代城陽国莒県(現,山東省莒県)の製品であることを示す。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「銀雀山漢墓」の意味・わかりやすい解説

銀雀山漢墓
ぎんしゃくさんかんぼ
Yin-que-shan Han-mu

中国山東省臨沂県銀雀山で発見された前漢の墓葬群。 1972,73年の2度にわたって山東省博物館臨沂文物組によって調査が行われ,木槨,木棺を有する6基の長方形竪穴墓が発見されている。各墓葬からは鼎,盒,壺,缶,盤などの副葬陶器,耳杯,盤,奩などの漆器,鏡,戈,鏃などの青銅器が副葬品として出土している。1号墓からは 4942枚の竹簡が出土し,いずれも長さ 27.7cm,幅 0.5~0.9cmで,大部分が兵書である。2号墓からは 32枚の竹簡が出土し,長さ 69cm,幅 1cmで,「漢武帝元光元年歴譜」と書かれていた。これらの竹簡には「孫ひん兵法」「孫子兵法」「六韜」「尉繚子」「管子」「墨子」「晏子春秋」などの文字のあるものが含まれていた。

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