金砂城(読み)かなさじょう

日本の城がわかる事典 「金砂城」の解説

かなさじょう【金砂城】

茨城県常陸太田市(旧金砂郷村)にあった山城(やまじろ)。同市市街の約15km北の西金砂山にある。この山には806年(大同1)創建と伝えられる西金砂神社があり、築城年代は明らかではないが、常陸国に入部した佐竹氏がこの山を要害とした。この山は峻険な天然の要害で、太田城(同市)を本拠とした佐竹氏の歴史の中の3度の危機で、佐竹氏が立てこもった、太田城の詰(つめ)の城のような存在である。1180年(治承4)、伊豆蛭ヶ小島に配流されていた源頼朝が挙兵して石橋山の合戦で敗れた後、頼朝は安房(房総半島南部)に渡り、近隣の諸将を糾合して戦いに勝利したが、その際、源氏の流れを汲む佐竹氏は当主の隆義が平氏家人として上洛して不在だったため、頼朝の呼びかけに応じなかった。このため、頼朝は佐竹氏討伐の軍を催した。このとき、留守を預かる佐竹秀義(隆義の嫡男)は本城の防衛は不適と判断し、金砂城に籠城した。頼朝軍は数千の兵で金砂城を攻めたが要害堅固で攻略できず、秀義の叔父の佐竹義季を内応させて同城を落とした。その後、頼朝軍は同城を焼き払い、佐竹氏の領土を没収して部下の論功行賞に充てた。降伏した佐竹氏はその後、頼朝から常陸北部の旧領領有を認められた。南北朝時代の1335年(建武2)には、佐竹貞義多賀城からの上洛の途上の後醍醐天皇方の北畠顕家を迎撃したが敗走し、金砂城に立て籠もっている。また、山入の乱(山入一揆)中の1500年(明応9)、山入氏義の攻撃を受けた佐竹義舜も、同様に金砂城に籠城している。JR水郡線常陸太田駅から車、または常磐自動車道の日立南太田ICから車で約30分。◇金砂山城、西金砂山城とも呼ばれる。

出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報

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