金石文(読み)きんせきぶん

精選版 日本国語大辞典 「金石文」の意味・読み・例文・類語

きんせき‐ぶん【金石文】

〘名〙 (「文」は文字の意) 金属、石に鋳出し、あるいは刻まれた古代の文字、文章、記録。広義には金石以外に、中国にみられる甲骨、簡牘(かんどく)、封泥(ふうでい)、土器などに施されている文字をも含める。

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デジタル大辞泉 「金石文」の意味・読み・例文・類語

きんせき‐ぶん【金石文】

金属や石に刻まれた文字や文章。刀剣・甲骨・土器などに刻んだものを含めることもある。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「金石文」の意味・わかりやすい解説

金石文
きんせきぶん

記録の保存や記念のために、文字または文字に準ずる一定の記号を耐久性のある素材に記して、なんらかの意志を伝達しようとする文書。

[武者 章]

西洋の金石文

エジプトメソポタミア、小アジアなどオリエント世界やギリシア、ローマでは、通常、石と金属のほかに粘土板、木材などに文字が刻まれた。ナポレオンのエジプト遠征のとき発見されたロゼッタ石は、エジプトのヒエログリフ(神聖文字)の解読に最初の手掛りを与えたことで知られているが、ギゼーのピラミッド群の内壁やオベリスクパレットスカラベ、あるいは神殿の石柱など硬い石がよく用いられた。ツタンカーメン王の黄金のマスクにみられるヒエログリフは、金属に刻まれた例である。またパピルス紙には筆で書いて巻物として用いた。メソポタミア地方で始まった楔形(くさびがた)文字は、絵文字から発達したものであり、紀元前3000年ごろシュメール人が発明したものと考えられている。この楔形文字は、言語を異にする各種の民族によって採用され、広くオリエント世界に普及した。アッカド王朝が楔形文字を利用してセム語を写して以後、古バビロニア王朝のハムラビ王は楔形文字によってハムラビ法典を残し、アッシリア帝国のアッシュール・バニパルの王宮址(し)からは粘土板に刻まれた楔形文書が大量に発見されている。イギリスのローリンソンが発見したイランにあるベヒスタンの碑文は、楔形文字解読に大きく寄与したことで知られるが、古代ペルシア語、エラム語、バビロニア語の3種の言語によってペルシア王ダリウス1世の事績が刻まれていた。

 1900年、エバンズクレタ島クノッソスを発掘し、王宮の跡や多数の粘土板を発見した。そのなかに、エジプトのヒエログリフに似た絵文字と、分布および年代の異なるA、B2種の線状文字が刻文されていた。近年、ギリシア本土のミケナイティリンスなどからも発見される線状文字Bの解読作業が進み、クレタ・ミケーネ文明の歴史が明らかにされつつある。小アジアのヒッタイト人が残したボアズキョイ文書も楔形文字を使用している。1887年エジプトで発見されたアマルナ文書は、前15~前14世紀のころオリエント諸国からエジプト王へあてた手紙類を内容とするものであるが、380ばかりのうち2通を除いてアッカド語の楔形文字で記されていた。このように楔形文字は古代オリエント世界の多くの民族に利用され、多大な影響を与えたのである。

 アルファベットの起源は、前16世紀ごろ、シナイ半島のセム系民族がエジプトのヒエログリフを元にシナイ文字をつくりだしたのが端緒である。シナイ文字が北方に伝わってフェニキア文字となったといわれている。さらにその便利さから、アラム人、ヘブライ人、そしてギリシア人へと伝わり、今日のヨーロッパ諸語へと受け継がれた。ギリシアやラテン金石文は大部分は石に刻まれたが、銅版、陶器、木材あるいは鉛板も用いられた。その内容は政治、経済、宗教、美術から一般庶民の生活に至るまできわめて多岐に及んでおり、ギリシア・ローマ史研究の主要な史料の一つとなっている。ギリシア陶器にしばしばみられる陶工や絵師の署名からは、ギリシア陶器の編年が知られるようになったし、ラテン金石学のうち古代キリスト教金石学は、初期キリスト教徒の実態を知るうえで大きな役割を担っている。

[武者 章]

東洋の金石文

中国

中国の金石文は、紙の普及する以前に亀甲(きっこう)獣骨、金属、石、封泥(ふうでい)、陶器、瓦磚(がせん)、竹木などに記された文字をさしていう。亀甲獣骨(まれに人頭骨)に刻まれた文字である甲骨文と、金属のうちでも青銅に鋳刻された銘である金文は、殷(いん)・周時代の歴史、社会、文化を探究するうえで重要な同時代史料となっている。1899年に発見された甲骨文は、劉鉄雲(りゅうてつうん)の『鉄雲蔵亀』、羅振玉(らしんぎょく)の『殷虚(いんきょ)書契前編』『同菁華(せいか)』『同後編』『同続編』など史料的に豊富になるとともに、王国維という天才的な研究者が現れ、『史記』殷本紀に記された殷王の系譜がほぼ正しいことが証明された。同時に甲骨文のもつ史料としての価値が認められるようになり、甲骨文解読による殷代史の再構成、すなわち甲骨学の基礎づくりがなされた。1928年から10年間に及ぶ河南(かなん/ホーナン)省安陽(あんよう/アンヤン)県小屯(しょうとん)の殷墟(いんきょ)の科学的発掘調査は、甲骨の層位と時期の関係を明らかにし、発掘に加わっていた董作賓(とうさくひん)が『甲骨文断代研究例』のなかで、五つの時期による甲骨の内容、形式、特質の相違を示して殷代史の研究に一期を画した。今日では新たに小屯で出土した甲骨史料の増加に伴って、董作賓の五期分期に修正が加えられ、さまざまな集団によって構成されていた殷代社会の構造が探究されつつある。

 金属のなかで青銅は吉金(きっきん)とよばれ、それに鋳刻された銘文である金文は、古く宋(そう)代以来、殷・周時代の歴史を考究する史料として重んじられてきた。金文の出現は現在のところ殷代後期以降であり、氏族のシンボルマークである図象銘や父祖の名を十干名(じっかんめい)で記す単純な銘が多く、長いものでも30字程度の銘文が殷末に現れるくらいである。殷王朝を打倒して成立した西周王朝は、殷王朝が保持していた多数の青銅器製作の工人集団を受け継ぎ、青銅器を諸氏族支配の有力な手段として積極的に利用した。西周初期には祭祀(さいし)や征伐に伴う賞賜を記す例が多く、西周王朝の支配の拡大を跡づけることができる。字数のうえでは100字を超える例は少ないが、成王5年の製作と考えられる尊(かそん)銘は、成周への遷都を122字で記録するものである。西周中・後期になると官職叙任の儀礼や賜与、所領争いの調停の記録がにわかに増加する。500字に近い長文の銘をもつ毛公鼎(もうこうてい)銘は、『尚書』文侯之命篇(へん)と類似する文が多く、文献史料の信頼性を高めるとともに、当時の官職叙任の実際を伝える貴重な史料となっている。一方、この時期になると、諸侯が自己の家臣に対して賜与する文章を、王朝の形式を踏んで記録する例も現れる。諸侯のレベルですでに青銅器の製作が可能なほどに勢力を蓄え、経済力をもつ者が増えてきたことを示している。

 春秋時代以降は、銘文のうえではっきりと周王朝と諸侯との関係を記録する例がみられなくなり、青銅器をつくる側の立場を示すようになるばかりでなく、書体のうえでも各地域の持ち味を生かした、さまざまな書体が使用された。青銅製の武器の戈(か)や剣などには絶対年代を知りうるものがあって、年代の標準を示したものとして重要な史料となっている。また銭、鏡にも文字が記されるが、商鞅量(しょうおうりょう)や鉄権の銘文はいずれも秦(しん)の度量衡統一の実態を示す好個の例である。石文では唐代以来知られている春秋期の秦の石鼓文があり、長沙(ちょうさ/チャンシャー)馬王堆(まおうたい)1号漢墓出土の軑侯家丞(たいこうかじょう)は封泥の例である。江西呉城出土の陶文は、新石器時代に属するものであるが、文字に準ずる記号と考えられる。筆写体の文字の出土が近年増えているが、春秋期の晋(しん)国内の紛争処理を誓約した山西侯馬盟書、湖北雲夢睡虎地(うんぼうすいこち)出土の秦律、山東銀雀山(ぎんじゃくざん)出土の『孫子兵法』『孫臏(そんびん)兵法』などがあり、文字にほぼ統一性が保たれていることが知られている。

[武者 章]

朝鮮

朝鮮の金石文としては、戦国時代の燕(えん)の明刀(めいとう)銭や「廿五年上郡」「洛都(らくと)」「郡都」の銘をもつ戈が知られているが、朝鮮半島と直接かかわるものとして、孝文廟銅鍾(こうぶんびょうどうしょう)、夫租長印、楽浪封泥がある。後漢(ごかん)王朝以降の史料に楽浪・帯方郡の領域で発見された磚(せん)(かわら)があげられるが、後漢から魏(ぎ)、晋(しん)、東晋の年号がみえ、中国との関係を密接に示している。高句麗(こうくり)の好太王碑は、原碑の一部偽作説をめぐって話題を提供したが、碑文の現地調査報告が待たれるところである。好太王碑とともに、好太王壺(こう)や延寿銘銀合にみられる銘は、高句麗と新羅(しらぎ)との関係を物語る史料である。新羅の真興王碑や百済(くだら)の武寧王陵の墓誌の記事は、『三国史記』『日本書紀』の記載と合致するところがあり、金石文から文献史料の信憑(しんぴょう)性を高めた好例である。なお、百済独自の年号がみえる建興5年銘仏像光背や砂宅智積(さたくちせき)碑、新羅の南山新城碑、戊戌塢(ぼじゅつう)作碑、永川菁堤(せいてい)碑など、支配の実相を記す碑銘が知られている。

[武者 章]

日本

日本の金石文は、金造品と石造品とがもっとも多く、木製・布製のほか骨角製品にもその例がみられる。もっとも古い金石文として著名なのが福岡県志賀島(しかのしま)出土の金印であり、「漢委奴国王」とたがね彫りされている。この銘は、後漢の光武帝中元2年(57)に授けたとある『後漢書』の記事と一致するが、読み方に異説があり、倭(わ)の奴(な)国王に金印が授けられたとは簡単に考えられまい。このほかに伝来品として、奈良県天理市の東大寺山古墳出土の太刀(たち)に、後漢の「中平」(184~189)の年号がみられ、石上(いそのかみ)神宮所蔵の七支刀(しちしとう)に「四年」「百済」「倭王」の語を含む表裏61字の銘が金象眼(ぞうがん)されているが、当時の国際関係を物語る重要な史料となっている。日本でつくられた最古の金石文は、和歌山県橋本市の隅田八幡(すだはちまん)に伝わる画像鏡の銘である。「癸未(みずのとひつじ)の年、八月日は十(とお)か、大王(おおきみ)の年」で始まる銘文は、一説によると応神(おうじん)天皇の世に比定されており、『日本書紀』の記述と符合すると考えられている。熊本県和水(なごみ)町の江田船山古墳から出土した鉄刀には「治天下」「歯大王」の語が刻まれているところから、反正(はんぜい)天皇のときにつくられたと理解されている。埼玉県行田(ぎょうだ)市埼玉(さきたま)の稲荷山(いなりやま)古墳から出土した鉄剣は、1978年(昭和53)に金象眼銘115字の存在が知られ、大きな話題を提供した。「辛亥(しんがい)年七月中記」「獲加多支(わかたける(ろ))大王」の語などをめぐっていまだに論議をよんでおり、江田船山古墳の大刀銘とともに、重要な同時代史料であり、その史料としての取扱いは十分に慎重を期すべきであろう。

[武者 章]

『加藤一朗著『象形文字入門』(中公新書)』『杉勇著『楔形文字入門』(中公新書)』『矢島文夫著『解説――古代文字への挑戦』(1980・朝日新聞社)』『白川静著『甲骨文の世界』(平凡社・東洋文庫)』『白川静著『金文の世界』(平凡社・東洋文庫)』『宮崎市定著『謎の七支刀』(中公新書)』


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改訂新版 世界大百科事典 「金石文」の意味・わかりやすい解説

金石文 (きんせきぶん)

金属や石材に刻した文字。古来金属や石材の上に文字を刻して長く後世に伝えようとすることは,世界の各地でみられる現象である。

中国では一般的な書写材料である竹や木,帛(はく)や紙とともに,金属や石材が古くから用いられてきた。このうち金属に刻した銘文が金文,石材に刻した銘文が石刻あるいは石刻文,両者を併せて金石文という。金文の中には兵器(戈,戟,矛,剣など)や度量衡(権,量,尺など)や貨幣などの銘文もあるが,主要なものは殷・周時代の彝器(いき)と呼ばれる青銅器の銘文である。彝器とは祖先の霊をまつったり賓客を饗応するときに使用する礼楽器のことで,食器(鼎,敦(たい)など),酒器(爵,尊など),水器(盤など),楽器(鐘(しよう)など)に大別される。このうち楽器の鐘と食器の鼎で彝器を代表させて鐘鼎彝器といい,金文のことを鐘鼎文とか款識(かんし)ともいう。

 殷代の金文は,氏族記号と解される図象文字や十干を付した父祖の名を記すものが多く,全体に字数は少ない。周代の金文は西周期と東周列国期に分けられる。まず西周になると長文のものが多くなり,内容は前期の勲功によって王などから宝貝を賜与された栄誉を記したものから,後期の官職を授け車服を賜与するいわゆる策命形式のものへと移っていく。東周の列国期に入ると彝器の器形や銘文ともに地方色がいちじるしくなるが,概してこの時期の金文は文章が短くなり,字体は装飾化する傾向が現れてくる。また金文は殷以来鋳銘で陰文がほとんどであるが,まれに陽文もあり,さらに戦国末にはたがねによる線刻も行われるようになった。

 石刻には碑,碣(けつ),墓誌,造象,磨崖(まがい)などがあるが,主要なものは碑,碣,墓誌の三つである。碑は本来は廟門に立てて犠牲をつないだり,墓所に立てて棺を縄で墓中につり下ろすときに用いられたものである。これらの碑石がやがて板状になり,台(趺石(ふせき))がつき,文章が刻されて石碑となる。その時期は後漢時代で,立碑が禁止された魏と西晋時代を除き,南北朝から隋・唐にかけて盛んに立てられた。碑には故人の事績を伝える墓碑や神道碑のほか,功績や徳政その他寺廟や学校などの建立や重修のことを記した紀事碑などがある。碣は碑の形をなさない立石を指す。秦の始皇帝が巡幸して各地に立てた刻石のほか,現存する石刻の最古のものとして知られる石鼓も形式の上では碣に入るため,碣の出現は戦国までさかのぼる。墓誌は墓誌銘ともいい,故人の経歴や事績を方形の石に刻して墓中に埋めたものである。墓誌の早い例は後漢時代にみえるが,魏から西晋にかけて墓碑を立てることが禁止されると,小型化して墓中に入れることが流行し,西晋以後とくに盛んになった。

 以上のほか金石文は実に多種多様であるが,いずれも同時代資料としての価値は大きく,とりわけ文献資料の少ない古代史の解明には欠かせない貴重なものである。歴史家が歴史研究の史料として取り上げるほか,文字に即した研究,金石の形状,彫刻や文様などの研究もあり,このような金石を対象とした学問研究をまとめて〈金石学〉と呼んでいる。
執筆者:

日本の金石文は,碑銘,墓誌銘,造塔銘,造像銘(造像記),鐘銘,鏡銘,刀剣銘,経筒銘,およびその他の器物銘に類別される。扁額,印章,木簡,瓦塼銘といった種々の銘識すべてを含めて金石文という場合もあるが,これは便宜的称呼で本来の意味からはずれる。日本の金石文は,中国に比して数が少なく,とくに中国のように大きな石材を用いた例はきわめてまれである。また本格的なものは古代に偏しているが,これは古代において比較的中国の風がよく受容されたためと考えられる。しかし質量ともに限られているものの,金石文は他の史料からうかがえない事実を明らかにしてくれるものであり,書跡としての価値も少なくない。

 主として古代の金石文から例をあげれば,江田船山古墳(熊本県),稲荷山古墳(埼玉県),岡田山1号墳(岡田山古墳,島根県)出土の刀剣銘は,いずれも5~7世紀のもので,大和朝廷の統治状況を知る基本的史料である。造像銘では,法隆寺釈迦像光背銘(623)など,飛鳥時代の造像史だけでなく,聖徳太子の伝記史料として貴重なものといえよう。また飛鳥・白鳳の小金銅仏に刻まれた銘は,各時期の基準作例を定める手がかりとなり,同時に仏教信仰の浸透をうかがわせてくれる。また碑銘では,栃木県の那須国造碑(690)や群馬県の上野三碑(多胡碑(たごひ),山ノ上碑金井沢碑。7世紀末~8世紀初),宮城県の多賀城碑(762)など,当時の地方文化を知る,またとない史料である。墓誌銘には,《古事記》編者の太安麻呂(おおのやすまろ)のものもあり,古代の人物の伝記,官制,漢文学の摂取状況,火葬の普及度など,これによって解明される点は多い。さらに中世以降の金石文は,板碑(いたび),墓碑,梵鐘をはじめとして,地方史・郷土史に有益な史料を提供する。ただ金石文には,その性質上,記念・顕彰の意味が濃く,その信憑性や実年代については,議論のある場合も多い。また偽銘も存在する。したがってたとえその当時のものであっても,史料として用いるには,他の文献史料と同じく,厳密な史料批判が要求される。
金石学 →金文 →墓誌
執筆者:


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百科事典マイペディア 「金石文」の意味・わかりやすい解説

金石文【きんせきぶん】

鏡,仏像,梵鐘,石碑,甲骨,粘土板,陶磁器,木簡など金属・石・土・木などの材質の遺物に彫刻,鋳出された文字をいう。紙・布にかかれた文書史料とは区別する。中国では甲骨文や青銅器の銘が時代に見られ,時代が下ると石碑,墓誌銘などが出現。日本では江田船山古墳出土の大刀の文字が5世紀のもので,奈良時代以降造像記,墓誌,石碑,供養記などが現れる。オリエントではロゼッタ・ストーンビストゥンの磨崖刻文が有名。
→関連項目金石学【とう】石如羅振玉吏読

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「金石文」の意味・わかりやすい解説

金石文
きんせきぶん
epigraph

金,銀,銅,鉄などの金属に刻した銘文 (金文) ,あるいは石材に刻した銘文 (石文) をいう。銘文は金属の場合,金属板,器物,特殊な記念物などに彫刻あるいは鋳出されているものが多く,石材の場合は磨崖,碑石,建造物,器物などに彫られている。内容は記録,法令,伝記,文学など,さまざまであるが,いずれも史料として重要な意味をもっており,その重要度は中世,古代と時代がさかのぼり文献史料が少くなるにつれて増してくる。広狭2つの意味があり,広義では世界中いたるところに残る金属や石材に刻された銘文をさすが,狭義では漢字文化圏に遺存するものをさしている。後者の場合,素材は金石に限らず,甲骨,木,陶にわたることも少くない。中国の金石文の代表的なものには殷代以降の金属の銘文,周末以来の石碑,墓誌,造像銘,磨崖碑などがあり,日本や朝鮮にも同様の金石文が多い。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「金石文」の解説

金石文
きんせきぶん

金属や石に刻入または表出された文字や文章。広く硬質の材に文字の入ったものを総称することがあり,その場合は瓦塼銘(がせんめい)・印章・木簡なども含まれるが,金石文本来の概念からははずれる。中国など他地域と異なり,日本では大規模な金石文の作例は少ないが,中国文化の影響が大きかった古代については,造像記・石碑・刀剣銘など各種の作例が残っており,史料の乏しさを補うものとしてとくに注目される。また梵鐘(ぼんしょう)銘・墓碑・板碑(いたび)などは,広域にわたり多く遺存しており,地方史の史料としても貴重である。ただ金石文には,偽銘,追刻,事実の歪曲など,ただちに史料とはできないものもあり,十分な史料批判が必要とされる。

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旺文社世界史事典 三訂版 「金石文」の解説

金石文
きんせきぶん

中国で,鐘や鼎 (かなえ) の金属器および石の上に刻んだ文章。殷 (いん) 〜周代の青銅器・玉器・陶磁器などの上に刻まれた文字を含む
研究には,北宋の欧陽脩の『集古録跋尾』10巻があり,南宋の時代には引きつづき研究が盛んに行われたが,元〜明代には衰えた。清代には考証学の発達にともなって,顧炎武 (こえんぶ) の『金石文字記』6巻,銭大昕 (せんたいきん) の『潛研堂金石跋尾 (せんけんどうきんせきばつび) 』20巻などが出版された。このほか,羅振玉・王国維・郭沫若 (かくまつじやく) らが研究家として知られる。ヨーロッパでは,碑銘学・印章学として発達。

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旺文社日本史事典 三訂版 「金石文」の解説

金石文
きんせきぶん

金属・岩石・瓦・木材などに記された文字や絵画
古墳から出土する刀剣・墓碑銘などが古く,ほかに鏡のまわりに刻まれた鏡銘,仏像の造像銘などがある。漢字伝来以後の歴史的事実を証明する重要な史料である。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「金石文」の解説

金石文(きんせきぶん)

金文(きんぶん)

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世界大百科事典(旧版)内の金石文の言及

【金石学】より

…金属や石など硬質の素材に刻まれた文,すなわち金石文(碑文)を考察対象とする学問。碑文学ともいう。…

※「金石文」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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