金沢文庫(かねさわぶんこ)(読み)かねさわぶんこ

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

金沢文庫(かねさわぶんこ)
かねさわぶんこ

鎌倉中期、北条実時(ほうじょうさねとき)(金沢実時)によって創設された文庫。従来「かなざわ」といわれてきたが、正しくは「かねさわ」である。武蔵国(むさしのくに)久良岐(くらき)郡六浦庄(むつらしょう)金沢郷(かねさわごう)(横浜市金沢(かなざわ)区金沢町)の居館内に設けられた。創設時期は明確でないが、いちおう、実時が病を得て鎌倉の邸宅より金沢の居館に引きこもった1275年(建治1)ころとされている。居館は現在の称名寺(しょうみょうじ)を含み、東北西の三方を山に囲まれた、瀬戸(せと)の入り海を見下ろす南面する台地に築かれた。ここが史実に現れてくる「六浦別業(むつらのべつごう)」の地であろう。この南面する台地は東谷と西谷とに分かれ、東谷に称名寺の前身である持仏堂(じぶつどう)が建立され、西谷に金沢氏の住居などが構えられた。文庫は居館の後ろ山際に、独立の家屋として建てられたと推定されている。後世、この西谷のあたりは御所ヶ谷(ごしょがやつ)とよばれ、とくに文庫の設けられたと思われる北東隅の小さな谷は、文庫ヶ谷(ぶんこがやつ)と称されてきた。ここからは鎌倉期の三鱗(みつうろこ)の文様のある古瓦(ふるがわら)が出土している。実時は執権義時(よしとき)の孫で、引付衆(ひきつけしゅう)、評定衆(ひょうじょうしゅう)など鎌倉幕府要職を歴任したが、政道学問に関心が深く、早くから儒家清原教隆(きよはらののりたか)に師事した。その学んだ和漢の書は、『群書治要(ぐんしょちよう)』『春秋経伝集解(しゅんじゅうけいでんしっかい)』『令義解(りょうのぎげ)』『源氏物語』などをはじめとして、政治、法制、農制、軍学、文学の広範囲の分野に及んだ。晩年これらの書物が鎌倉の邸宅から金沢の居館に移され、金沢文庫の基(もとい)が築かれた。文庫はその後、顕時(あきとき)、貞顕(さだあき)、貞将(さだまさ)と引き継がれたが、なかでも第15代執権となった貞顕の時代がもっともよく充実した。いま、当時の蔵書数を明らかにすることはむずかしいが、蔵書が千字文(せんじもん)によって分類されていたことからすると、相当の量に上ったことは疑いない。蔵書は北条氏一門、あるいは称名寺の学僧たちに利用されたが、その利用については厳しいものがあり、普通いわれているような公開図書館的な施設ではなかった。あくまでも金沢氏個人の文庫として考えたほうが妥当であろう。

 1333年(元弘3・正慶2)鎌倉幕府の崩壊にあい、金沢氏は北条高時(たかとき)とともに滅んだ。以後、金沢文庫は氏寺(うじでら)称名寺によって管理されたが、寺側も大檀那(だいだんな)を失った関係上しだいに衰微し、文庫の蔵書はその時々の権力者によって持ち出された。なかでも徳川家康移出は多量に上り、現在その文庫本は宮内庁書陵部国立公文書館などに分蔵されている。現在の神奈川県立金沢文庫は1930年(昭和5)、県の昭和御大典記念事業の一環として、実業家大橋新太郎の寄付金を受けて図書館として復興され、称名寺ならびに金沢文庫に伝来された多数の文化財(鎌倉時代の古書、古文書、美術工芸品)が保管されることとなった。1955年(昭和30)からは博物館として運営され、中世歴史博物館として異彩を放っている。

[前田元重]

『関靖著『金沢文庫の研究』(1951・講談社)』『結城陸郎著『金沢文庫と足利学校』(1959・至文堂・日本歴史新書)』

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