金毘羅村(読み)こんぴらむら

日本歴史地名大系 「金毘羅村」の解説

金毘羅村
こんぴらむら

[現在地名]琴平町琴平

琴平山(象頭山)の東麓、金倉かなくら川流域に位置する。地名は金毘羅大権現にちなむ。文政五年(一八二二)の「片岡章範補記」(金刀比羅宮蔵、以下同宮所蔵史料は所蔵先を省略)に「金毘羅山之麓に西山村と云村有之、松尾村と云。西山村之事也」とあり、かつては西山にしやま村・松尾まつお村と称していた。寛永国絵図にも子松こまつ庄に属する西山がみえる。江戸時代は金毘羅大権現の社領の中核地。金倉川の両岸に門前町が発達した。村高は元和四年(一六一八)金光こんこう院内廻七三石余(生駒正俊寄進状)、天保郷帳では金毘羅社中として高七三石余。生駒一正は金毘羅金光院に社領を寄進し、慶長六年(一六〇一)同院に対して新町に来住した他国者に住宅を手配するよう命じている(生駒一正判物)。金光院の勧誘によって慶長一〇年に土佐から片岡家が移住(のちの多聞院)、同一八年に豊田とよた河内こうち(現三豊郡山本町)から山下家(のちの金光院別当里家)、元和二年に寒川さんがわ鶴羽つるわ(現大川郡津田町)から木村家、鵜足うた栗熊くりくま(現綾歌郡綾歌町)から荒川家、寛永五年(一六二八)備前国金川かながわ(現岡山県御津郡御津町)から菅納(菅)家など次々に移住して、山上さんじよう(金光院)山下さんげ(町方・地方)上層部が形成された。

その後も移住者が相次いで、元禄一六年(一七〇三)に岩佐清信が描いた「象頭山祭礼図屏風」にみえるような旅館や商店が立並ぶ門前町となった。なお寛文八年(一六六八)大工棟梁平八、延宝三年(一六七五)瓦師久兵衛、同四年張物師大津屋権兵衛、宝暦一〇年(一七六〇)素麺師かも屋甚右衛門と職人の移住が続き、寛政一〇年(一七九八)阿波国小松島から西之家が移住して酒造業を始めた。慶安元年(一六四八)に金毘羅大権現の参道が改修され参詣客が増加し、他国から金毘羅に移り住む者も多くなった。門前町を含めた社領の人数がしだいに増え、享保六年(一七二一)二千四六五人(男一千三一九・女一千一四六)。寛延三年(一七五〇)二千五二四人、うち出家一八・金光院家来四一三(男二三四・女一七九)・山伏三・座頭一・道心二・尼一。天保五年(一八三四)五千四六六人となっている(社領人数書上帳)。金毘羅の町役所では、移住者の寺送り証文の多少の不備はとがめず、金毘羅の門前町が急速に発展した裏には、こうした脱法手段も講じられていた。

金毘羅の町方と地方の政治は多聞院が責任者で、町役所で行っていた。町役所には、町方重立おもだちとよばれる初期に移住した木村家・荒川家・菅納家・渡辺家・小国家・井上家などの人々によって互選された町年寄が出勤して、宿場方頭取・綿会所元役・融通会所元役・町方筆者役などを指揮した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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