マラソン選手,指導者。本名池部四三。熊本県出身。玉名中学から東京高等師範学校に進み,嘉納治五郎校長に長距離選手としての能力を見いだされる。1912年ストックホルムで開催の第5回オリンピック大会に短距離の三島弥彦(東大)とともに,日本最初のオリンピック選手として参加,マラソンに出場したが,疲労して18kmで倒れ棄権した。これを契機にマラソンに一生を捧げることを決意,下関~東京,東京~青森間などを走破してマラソンの普及に努め,その間,20年(アントワープ)と24年(パリ)のオリンピックに連続出場したが,入賞の悲願は達せられなかった。戦後いち早く同志を集めて〈日本のマラソンを強くする会〉を結成し,47年12月福岡市で〈金栗賞朝日マラソン〉(〈福岡国際マラソン〉の前身)が開催された。
執筆者:川本 信正
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
陸上競技マラソン選手。熊本県玉名郡出身。東京高等師範学校卒業。日本選手がオリンピック大会に初参加した1912年(明治45)第5回ストックホルム大会の参加者2人のうちの1人。このときのマラソンは15キロメートルで棄権したが、1920年(大正9)のアントワープ大会(16位)、1924年のパリ大会(途中棄権)と計3回出場。日本のマラソン史には欠くことのできない人である。この間、下関―東京、樺太(からふと)―東京間などを走破した。熊本県教育委員会委員長、日本陸上競技連盟会長などを歴任。教育、スポーツ界に尽くした功績で、1955年(昭和30)には紫綬褒章(しじゅほうしょう)を授与されている。
[石井恒男 2020年4月17日]
…日本でも1979年に女性だけの東京国際女子マラソンが初めて行われ,以後女子だけの大会も開かれるようになった。 日本最初のマラソンは1911年に行われたストックホルム・オリンピック国内予選会で,のちに日本の〈マラソンの父〉といわれた金栗四三が優勝。以来,日本の人気種目の一つとなり,36年のベルリン・オリンピックでは朝鮮出身の孫基禎が優勝した。…
※「金栗四三」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...
4/12 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
4/12 デジタル大辞泉を更新
4/12 デジタル大辞泉プラスを更新
3/11 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
2/13 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新