金属工芸(読み)きんぞくこうげい

精選版 日本国語大辞典 「金属工芸」の意味・読み・例文・類語

きんぞく‐こうげい【金属工芸】

工芸美術の一分野。金属を素材とし、加工する工芸。溶かして型に入れて成形する鋳造、鎚(つち)で打ち延ばし形造る鍛造(たんぞう)、鏨(たがね)で彫刻する彫金や錺(かざり)などに分かれる。金工。

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改訂新版 世界大百科事典 「金属工芸」の意味・わかりやすい解説

金属工芸 (きんぞくこうげい)

金属を素材として作られた日常品や装飾品,またその加工技術で,一般に金工と呼ばれている。人類が金属の使用を開始した時期は非常に古く,前5000年ころのエジプトですでに金と銅の使用が知られている。金属のうち金,銀,銅,隕鉄は最も早くから人類が採取した自然金属で,はじめは天然の状態のものを打ったり切ったりして使用していたが,やがて冶金技術が発達すると同時に鋳造技術もおこり,銅,錫(すず),鉛,アンチモンなどが鉱石から採取されるようになり,青銅,白銅など銅合金が作られるようになった。青銅はメソポタミアでは前3000年ころ,中国では前2000年ころにすでに行われており,武器,祭器,装身具などが作られた。日本での青銅器使用はおそく弥生時代に始まり,銅剣,銅矛(どうほこ),銅鐸(どうたく),銅戈(どうか),銅釧(どうくしろ)などが鋳造された。鉄の起源は西アジアともアフリカともいわれているが,前4千年紀後半にはエジプト,メソポタミアなどで隕鉄製の鉄器が現れる。隕鉄は少量のニッケルを含み,硬質であるが展性に富んでおり,利器に適した金属材である。前1500年ころ浸炭作用によって鍛鉄(たんてつ)を鋼にかえる技術が発見されて以来,鉄が青銅をしのぐ利器として武器や農工具に利用されるようになった。

 金属工芸に用いられる金属は,はじめは金,銀,銅,錫,鉄など自然金属のみであったが,異なった金属と金属とを組み合わせ,性質の異なった金属を作りだす合金法が発明され,種類が増加した(合金)。金は古代には砂金として採取された。純金は美しい山吹色を呈し,酸に強く,展延性に富み,産出量が少ないこともあって古来諸金属の中では最も貴ばれ,銀とともに貨幣や装身具に用いられた。銀は白色の美麗な光沢を有し,食器などにも用いられる。銅はそのまま工芸材として用いられるばかりでなく,銅合金として広く用いられている。青銅は銅に錫を加えた銅合金で鋳造製品に適し,放置しておくと青銹が出るところから青銅の名がある。白銅は青銅よりも錫分を多く含み,白色を呈し,銅鏡の鋳造に用いられた。近世には銅と亜鉛の合金である真鍮(しんちゆう)が発明され,日本にも16世紀後半に輸入された。黄色を呈しているところから黄銅とも呼ばれて珍重され,やがて日本でも作られるようになった。このほか,日本独特の色金(いろがね)として,黒紫色を呈する赤銅(しやくどう)(銅にわずかに金を加えたもの),紫色を呈する紫金銅(しきんどう)(赤銅より多めに金を加えたもの),黒味銅(くろみどう)(銅に白目(しろめ)を加えたもの),銀灰色を呈する朧銀(ろうぎん)(銅3に対し銀1で四分一(しぶいち)ともいい,少量の金を加える場合もある),青金(あおきん)(金に銀を加えたもの)などがある。銅および銅合金は緑青(ろくしよう)と呼ばれる青緑銹が生ずるので,防銹と美観をかねて表面に金鍍金(ときん)を施し,金銅(こんどう)製品とすることが多い。このほか,近年では日常品の素材としてアルミニウム,ステンレス,ニッケルなど,また装身具材料としてホワイトゴールド,プラチナなどの貴金属が利用されている。

 加工技法は大別して鋳金彫金鍛金に分けられる。鋳金は溶かした金属を鋳型に流し込んで成型する技法であり,彫金,鍛金は金属の塊や板を,鏨(たがね)を用いて彫ったり,切り透かしたり,打ち延ばしたりして,成型・加飾する技法である。鋳金は鋳造,鋳物(いもの)などともいい,古くから蠟型,惣型,砂型などの技術が用いられている。また近年では精密鋳造,遠心力鋳造,電気めっきを応用した電気鋳造など新しい技術が開発されている。鍛金には鍛造,鎚起(ついき),板金などの技術があり,近年では機械化され,へら絞りやプレス加工などが普及している。彫金には毛彫,高肉彫,片切彫,透彫(すかしぼり),象嵌(ぞうがん),魚々子打(ななこうち)などの技法がある。また細かい針金や細かい粒を用いて加飾する細線細工,鍍金技術などがある。これら金工技術は単独で行われることもあるが,二つ以上の技法を組み合わせて成型される場合が少なくない。

新石器時代晩期の遺跡から刀や錐など銅製利器が発見されており,中国で金属とくに銅が利用されはじめたのは前2000年ころと推定されている。前1500年ころ,竜山文化のあとを受けて黄河流域に生まれた殷王朝の前期にはすでに銅器が作られ,後期には絶頂に達し,周代に及んでいる。これら殷周銅器は鋳造技術の優秀さ,形体・文様の特異性で著名である。これらは主として外敵や自然の暴威から子孫を守護してくれる祖先神をまつった,同族の宗廟における祭祀用の道具であり,権威の象徴として重要視された。銅器の種類は多く,戈,斧,刀などの利器,兕觥(じこう),尊(そん),壺,卣(ゆう),罍(らい),瓿(ほう),彝(い)など酒を入れる器,角,爵,觚(こ),觶(し),斝(か)など酒を飲む器,鼎(てい),鬲(れき)など食物を煮る器,簋(き),簠(ほ),豆(とう),敦(たい)などの盛器,盤,匜(い)などの水入れ,勺,匕(ひ)など,さまざまな形姿を示している。また文様も饕餮文(とうてつもん),虺竜文(きりゆうもん),夔鳳文(きほうもん)などが浮彫にされており,宗教的意味をもつと考えられる。これら青銅器を殷人たちは祖先をまつった宗廟の庭に玉器とならべ,酒食を供え,神人交融の場とした。

 周代末期になると儀礼的なものより実生活的なものに移行し,これまでのものと形姿も異なり,文様も羽状文,蟠螭文(ばんちもん),雲気文などが新たに登場する。また獣文は地文化し,さらに無地のものも現れ,器物の表面に金銀を象嵌したり鍍金したりして色調の豊かな金属器が作られるようになる。銅鏡()もすぐれたものが現れる。青銅鏡は青海省の斉家文化期に出現し,殷代にもみられるが,青銅器の衰退する春秋期に獣文鏡,蟠首文鏡などが作られるようになり,戦国時代後半には鏡胎が薄手で,縁は匕縁とし,小さな三稜鈕をもつ鏡式が確立する。前漢時代になると厚手になり,星雲文鏡や清白鏡,日光鏡といった銘帯を主文とする鏡や,方格と規矩形を組み合わせた幾何学文様をあらわした方格規矩鏡,および連弧文を内側にむけ外周にめぐらした内行花文鏡など,立派な鏡が作られた。後漢には神仙物語や風俗をあらわす画像鏡や神獣鏡が現れる。

 その後一時,鏡は衰退するが,隋・唐時代にふたたび盛行し,外縁が八花形,八稜形をした花鏡が生まれ,文様も竜,鳳凰をあらわしたり,故事を主題とする白牙弾琴鏡や月兎鏡など中国本来の文様のほかに,ペルシア文様である狩猟文や葡萄文など,新しい要素を加えたものが現れた。隋・唐時代はまた金銀器も盛んである。西域の影響をうけて胡瓶,脚杯,八曲形盤といった新しい形態のものが現れ,文様も葡萄唐草などがみられる。西安市興化坊出土の華麗な金銀器,日本に舶載され伝世した正倉院の大鹿を打ち出した銀盤や狩猟文銀大壺などは,唐代の代表的なものといえる。

 唐代金銀器の典麗な美に対して,宋代のものは理知的な美といえる。文様よりも形体の美を追求し,簡潔な美しさを示している。しかし元代以後になると高肉彫表現のものが好まれるようになり,この趣は明代以降の複雑で細密な金工品の作風につながってゆく。
青銅器

日本の金属工芸は中国,朝鮮の影響をうけて発達した。北九州を中心とした弥生時代の遺跡から鋳銅製の剣,矛,戈,釧などが出土しており,これらを鋳造した砂岩製の鋳型も出土している。また畿内を中心に,銅剣のほか日本独得の造型をもつ銅鐸が出土している。銅鐸についても近年,姫路市名古山,大阪府東奈良などから石製鋳型が発見され,弥生時代にはかなり広範囲に銅器,青銅器が鋳造されていたことが知られる。古墳時代にはすぐれた鏡や豪華な装身具,武具,馬具などが古墳に副葬され,支配階級の権威を示すとともに,金工技術の発達と多彩さがうかがわれる。なかでも銅鏡は弥生時代以来大陸から舶載され,これらに加えて日本でも仿製鏡が作られた。舶載鏡をそのまま踏み返した三角縁神獣鏡などのほか,当時の鋳造技術の高さを示すものとして,中国の人物画像鏡を模倣した和歌山県隅田八幡宮の画像鏡,線と曲線によって日本独自のデザインを施した直弧文鏡,高床住居や竪穴式住居を鋳出した家屋文鏡,円形鏡の周縁に鈴をつけた鈴鏡などがある。古墳時代中期からは金,銀,金銅による冠,耳飾,帯金具などが発達し,細線細工,毛彫,透彫といった技術も多彩に駆使された。とくに象嵌技術や鍍金技術にみるべきものがあり,太刀や馬具のなかには竜文や忍冬文(にんどうもん)を透彫して金鍍金したもの,環頭柄頭(かんとうつかがしら),馬具の杏葉や鏡板などに銀象嵌を施したものが多い。なかでも埼玉県稲荷山古墳,島根県岡田山古墳出土の太刀にみられる金象嵌銘,熊本県江田船山古墳出土の太刀の銀象嵌銘は著名である。鉄器も弥生時代以降日本で生産されたが,古墳時代に入って甲冑や刀剣,馬具が盛んに作られた。とくに短甲は鉄板を打ち出して曲面を作り,これらを何枚も組み合わせ,鋲留めまたは革綴じしたもので,進んだ鍛造技術を示している。

飛鳥時代は百済から仏教が渡来するとともに工人も来朝し,造寺,造仏が盛んに行われた。新羅,高句麗,中国からも新技術が導入され,金工は飛躍的に発達した。飛鳥寺の丈六仏像,法隆寺の釈迦三尊像は鞍作止利の製作になり,蠟型によって鋳造し,金鍍金を施している。〈四十八体仏〉と呼ばれる法隆寺伝来の小金銅仏(東京国立博物館)も同じ技法といえる。一方,鍛金技法の一つである押出(おしだし)技法が,白鳳から奈良時代にかけて流行した。法隆寺《玉虫厨子》扉背面の千仏銅板や阿弥陀三尊および比丘形像などは,刻印するように銅板の裏から仏像形で打っており,また法隆寺,唐招提寺などに伝わる大型の押出仏は,半肉彫の鋳造製原型に薄い銅板をのせ,上からたたいて浮彫風に肉付けしている。彫金技法でこの時代を代表するのは,法隆寺に伝世した金銅灌頂幡である。天蓋の下に長さ5mに及ぶ長幡を下げたもので,仏,菩薩,奏楽飛天,忍冬唐草文を透彫した銅板を組み合わせて構成されている。

 奈良時代,日本の金工技術は一つの頂点を迎えた。東大寺大仏は数度の大火で当初のおもかげを失っているが,蓮弁台座は創建当時のもので,蓮弁に施された毛彫は蓮華蔵世界を表現し,壮大な趣をよく伝えている。大仏殿前の鋳造八角灯籠も創建当初のもので,斜格子文透の上に音声(おんじよう)菩薩を半肉に鋳出した火袋をもつ華麗なものである。同じく東大寺の法華堂(二月堂)不空羂索観音が頂く銀製宝冠は,銀板に唐草文を透彫し玉類などで飾った美麗なもので,これらは当代金工の高い水準を示している。正倉院もまた金工の宝庫であり,鏡,錫杖,柄香炉,銀壺などの鋳造品,薫炉,盤などの鍛造品と多種多彩の金工遺品を伝えている。奈良時代にはこのほか,日本ではじめて和同開珎などの貨幣が鋳造された。これらは惣型鋳造によるもので,このうちの開基勝宝は金貨幣である。

平安初期に,空海ら入唐僧によって中国から密教法具が請来され,密教の隆盛とともに形式が確立し,これ以後盛んに製作された。梵鐘は奈良時代から引き続き鋳造され,神護寺,平等院,栄山寺(奈良)などに銘文,文様にすぐれたものがある。しかし中期からはしだいに中国の影響が薄れ,金工も和様化する。平等院鳳凰堂屋上の金銅製鳳凰は,円熟しきった平安後期の鋳金工芸をよく示し,中尊寺金色院の堂内荘厳(しようごん)や華鬘(けまん)は,同じく彫金技術を代表する。鏡も唐式鏡をしだいに離れて和鏡に変化し,薄手の鏡胎に松,梅,薄,蘆,水草,菊,鴛鴦,鶴,雀といった親しみやすい花鳥の題材を薄肉に表現した,抒情的なものが主となった。山形県羽黒山の鏡池から出土した600面に及ぶ羽黒鏡は,その代表作といえる。また平安末期から鎌倉,室町にかけて,鏡の表面に仏像や神像を毛彫や墨画であらわした御正体(みしようたい)(鏡像)を礼拝することが盛行した。また末法思想の流行により,経塚への埋経が盛んとなり,経箱,経筒の類が作られた。延暦寺の宝相華文経箱は宝相華文を全体に毛彫し,金銀鍍金を施したものである。

鎌倉時代には,引き続き鏡像や和鏡が作られたが,舎利塔製作も盛行し,西大寺の金銅透彫舎利塔,長福寺(奈良)の金銅能作生塔(のうさしようとう)など,いずれも精巧な金工技術を示している。しかしこの時代は武具甲冑の飾金具の彫金技術にもみるべきものがある。装剣金具では丹生都比売神社(和歌山)の兵庫鎖太刀拵,甲冑では春日大社の義経籠手や赤糸威鎧の竹雀に虎文様の金物,梅樹に蝶文様の金物などが著名である。武具に限らず金工は前代に比べて重厚な趣があり,鏡は厚手となって鏡背文様は写実的となり,仏具でも磬(けい)や梵鐘,鰐口なども重厚な感じのものが好まれた。室町時代には太刀にかわって打刀(うちがたな)の製作が盛んとなったが(日本刀),それにともなって鐔(つば),目貫(めぬき),笄(こうがい),小柄(こづか)など刀装にみるべきものが多い。甲冑師が鍛造した鉄鐔は単純明快な意匠を透かし新鮮な感覚がある。なかでも信家,金家などが現れて,鐔の製作に独自の境地を示した。また彫金家後藤祐乗が装剣金工を確立した。一方,茶の湯の流行とともに,茶の湯釜の鋳造も盛んとなった()。福岡県遠賀川河口の芦屋で作られた芦屋釜と,栃木県佐野天明(てんみよう)で作られた天明釜はとくに名高い。芦屋釜はしっとりした鉄の地肌と風雅な鋳出文様に特色があり,天明釜は荒々しい地肌と形姿のおもしろさに特色がある。釜の製作は桃山時代に至って京釜が隆盛し,千利休の指導により浄味,辻与次郎などの名工が,侘茶にふさわしい釜を鋳造した。

桃山時代から江戸時代初期には,釘隠(くぎかくし)や襖の引手など建築金物と,刀剣装具にみるべきものが多い。この時代の装剣金工家として,天正大判を作った後藤家5代徳乗,真鍮地の鐔に金,銀,赤銅(しやくどう)などを象嵌して独自の作風をあらわした埋忠(うめただ)明寿,布目象嵌で細密な技巧を示した林又七らがいる。これに続いて横谷宗珉,土屋安親,奈良利寿(としなが)などの名工が現れた。引手や釘隠には当時流行した七宝流しを用いて,斬新な意匠を施したものが多くみられ,京都の醍醐寺三宝院,桂離宮のものは有名である。ことに桂離宮のものは文字や植物,器物などをかたどって巧妙に意匠されている。江戸時代の金工は,武家の装剣小道具とは別に,庶民の間にもひろく普及し,彫金では煙管(きせる),簪(かんざし),文鎮,水滴,根付(ねつけ),矢立(やたて)などの小彫刻に特色が発揮された。鋳造では蠟型で文人趣味の小物が作られたり,狛犬や仏具なども盛んに作られた。明治に入ると西洋文化が浸透し,楠木正成像,西郷隆盛像などの銅像や,橋梁,建築物の装飾金具などに新境地が開かれ,盛んに鋳造された。一方,従来の装剣金工家は廃刀令で仕事を失うと,喫煙具,装身具などにその技術を向けた。こうしたなかで海外に万国博などを通じて日本の金工が紹介され,その伝統的な独得の技術・意匠は外国人の注目するところとなった。1889年には東京美術学校に金工科が設けられ,90年芸術奨励のため帝室技芸員制度が発足した。以後,昭和初期までに,鈴木長吉(鋳金),加納夏雄(彫金),海野勝珉(彫金),香川勝広(彫金),平田宗幸(鍛金),香取秀真(鋳金)らが帝室技芸員となった。明治後期以降,絵画,彫刻,建築の影響をうける一方,西洋美術の造形表現もとり入れ,また日本の古典美術の研究を行い,金工はしだいに近代化されていった。
工芸
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オリエントで最も早く採取され利用された金属は銅で,主要な加工技法は鍛造と鋳造とであった。エジプトでは前5千年紀のバダーリの遺跡から銅製のビーズ,鎖,ピンなどの小品が出土しているし,一方,エラムのスーサでは,前3000年以前にさかのぼる鏡や斧が発見されている。青銅は前3千年紀の後半,西アジアにあらわれたが,エジプトにも輸入されて第12王朝ころから普及した。青銅は器物や武器のほか,彫像の素材になり,後者の製作は多く蠟型法によった。金は銅についで古く発見され,装身具やその他のものの製作に用いられた。第12王朝時代や新王国時代には金を台として各種の宝石をはめこんだ,精巧にして絢爛(けんらん)たる胸飾などが作られた。第18王朝のツタンカーメン王墳墓の出土品にも,貴金属宝石細工のすぐれた例が数多く見いだされる。西アジアでは,前3千年紀のウルの〈王墓〉から出た金兜(きんと),金碗,装身具などが著しい遺品である。銀製品は金製品よりも一般に遺物が少ないが,前1千年紀ころからは多くなる。鉄はヒッタイトではじめて用いられたともいわれるが,オリエントでの普及は〈海の民〉の侵入(前12世紀)以後のことである。

エーゲ海の島々および沿岸地方に開けたいわゆるエーゲ文明の金工の遺品中,クレタのミノス文明に属するものは,モクロス出土の装身具や〈バフェイオの黄金杯〉などのように,装飾様式が自然主義的傾向を示している。これと反対に,ギリシア本土のミュケナイ文明のものは,シュリーマン発掘の木棺についていた黄金の金具のように,様式化の傾向を示していた。ギリシア・ローマの時代になると,金は主として装身具に用いられ,銀はぜいたくな器物に用いられた。現存する銀器の遺物は多くないが,ブルガリアのニコポル発見の大アンフォラは,古典時代のギリシアの最もすぐれた銀器である。ローマでは前1世紀ころになると,貴族が銀器の収集などを行った。ドイツのヒルデスハイムやイタリアのボスコレアーレからは個人の銀器の収集が,またフランスのベルネーからは神殿の奉納物であった銀器の一群が,それぞれ出土している。青銅は百般の道具や器類の製作にあてられたが,そのうち芸術的な意匠をこらしたものには,壺,鏡(柄鏡,台鏡,蓋鏡の3種がある),化粧箱などで,これらには線刻文や彫塑的な装飾が施されていた。

金工を含めてササン朝時代のペルシア工芸は,古いオリエントの伝統をうけついで発達した。金工品として特色のあるものは銀の水瓶や皿で,人物,動物,狩猟の場面などのモティーフを浮彫であしらったものである。イスラム時代(7世紀前半以降)にはいっても,ペルシアや西トルキスタン地方ではササン朝の様式に近い金銀の水瓶や皿などが,引き続き製作されていた。しかしイスラムの金工は,青銅,黄銅,鉄をも材料とし,鋳造,打出し,型打ち,条彫,象嵌,腐食などの技法で加工し,エマイユ・クロアゾンネの技術も用いている(七宝)。青銅は動物形手水器,各種の香炉,鏡,ノッカーなどに作られている。黄銅は器物の材料となり,表面にアラベスク,文字銘,花,人物や動物を細かくきざみ,細部に銀や銅を象嵌して効果を高めている。象嵌のある黄銅細工はまず12~13世紀にペルシアで発達したが,13世紀のモースル,14世紀のカイロが製作の最大の中心地であった。

中世

5~6世紀の間に展開した初期キリスト教芸術に属する金工品のすぐれた例には,〈アンティオキアの聖杯〉がある。ビザンティンの金工のうち,銀器には,祭碟(さいせつ),聖餐杯その他,宗教関係のものが多い。その形式は古くローマ時代に作られたか,あるいは西ローマ帝国からビザンティン帝国へ贈物とされた非宗教的用途の銀器から発している。容器以外には,三連牌の形式をなす念持聖像,金や銀を材料とする十字架,聖遺物箱,装丁板などがあった。台にも仕切り(クロアゾン)にも金を使ったエマイユ・クロアゾンネも多く作られた。中世初期の西ヨーロッパの金工品には,アール・バルバールart barbare(野蛮芸術)と通称されている,仕切りの中にザクロ石やガラス玉を板にしてはめこんだ留針などがあるが,この種の技法はゲルマン人の移動にともない,南ロシア辺からもたらされたものという。同じような技法による金工品は,北フランスのフランク族の豪族の墳墓や,ドナウ川沿岸などからも出土している。

 カロリング朝時代(8世紀後半~10世紀)は,当時ヨーロッパに栄えた芸術を総合し,古代の伝統を復興した時代であった。新旧二つの〈リンダウLindauの福音書装丁板〉などは,そのよい例である。その古いほうのものは,アイルランドで特別に発達したケルト人の金工との密接な関係があったことがわかる。新しいほうのものは,高い台にのせた丸玉をちりばめ,また金の粒線細工を施してあるが,このような技法はそのころ広く行われていた。オットー朝時代(10世紀後半~11世紀前半)のドイツの金工はトリール,エッセン,ヒルデスハイムなどに発達した。中でもヒルデスハイムでは,青銅および銀を材料とする大小の鋳造が行われた。

 ロマネスク時代にはいると青銅品の鋳造が盛んになり,エマイユはクロアゾンネにかわってシャンルベ(地すき)になり,製作の中心地には,従来のライン川沿岸地方や北ドイツに,ムーズ川の沿岸地方が加わった。ニコラ・ド・ベルダンは当時の最も有名な金工家で,ケルンの〈三王聖遺物厨子〉は彼あるいは彼の流派の作である。フランスでは北部地方に金工が発達し,中部のリモージュはエマイユの製作で有名であった。このころ作られた聖遺物箱に,急傾斜の屋根をいただいた箱形または教会堂形のものがあったが,ゴシック時代にはいって,教会堂の建築がめざましい発展をとげると,たとえばベルギーのニベルの聖ゲルトルートの聖遺物箱のように,小尖塔や天蓋のある大型で優美複雑な形式のものが行われ,また聖母子その他の聖像をつけることが多くなった。また主要材料が銅から銀に移ると,エマイユは銀にかけて効果のあがるトランスリュシード(半透明)の技法が選ばれた。青銅品の鋳造は引き続いてドイツに盛んであったが,新たにネーデルラントにもこの技術がおこり,フランスのディナンには教会用雑器とともに家庭用雑器が作られ,〈ディナン物dinanderie〉の名称も生まれた。

ルネサンス時代には,古典復興の思潮にのって工芸品にも古代芸術の理想や形式がとり入れられた。一方,当時の個性尊重の精神は,工人各個の才能を十分に伸ばす基盤になった。この時代のイタリアで最も好まれた金属材料は青銅で,ギベルティの手に成るフィレンツェの洗礼堂の扉のような彫刻的作品を除いても,なお数々の種類の教会用具,ノッカー,燭台,小箱,その他の日用雑器が青銅で作られた。メダルも青銅による魅惑的な小芸術品であったが,ピサネロがその名手であった。16世紀にはチェリーニのような大家が出て,フランソア1世のために彼が作った黄金製食卓用塩入れは有名である。このころから,装身具などはしだいに職人の手にまかされるようになった。ドイツではルネサンス思潮の浸透がおくれ,デューラーの描いた高脚杯の下図などもまだゴシック風をとどめている。17世紀にはルネサンス芸術の発展である大柄で豪華なバロック芸術が栄えたが,18世紀にはより軽快で奇想をこらしたロココ様式がおこり,ついでこの世紀の後半には古典趣味が台頭した。17世紀半ばころフランスには王立美術アカデミーが設立されて,それ以後現代まで,フランス芸術がヨーロッパで優位を占める基礎が確立した。このころのフランスの金銀細工師で盛名をはせていたものは多数にのぼるが,外国の貴族のために製作された品を除いて現存する彼らの作品の少ないのは,戦争に苦しんだルイ王朝政府の度重なる金銀溶融令のためである。しかし,めっき青銅製の,家具につけられた装飾金具や,燭台,壁面燭台,時計,薪架などで,メソニエやカフィエリ父子(ジャックとフィリップ)自身の作,あるいは流派の作といわれるものがかなり残っている。

 18世紀末における新古典様式の鋳物師にはグーティエールがいた。18世紀の最末期から1830年ころまで,フランスでは古代ローマの芸術にヒントを得たいかつく華やかなアンピール(帝国)様式が支配したが,トミールPierre-Philippe Thomire(1751-1843)やオディオJean-Baptiste-Claude Odiot(1763-1850)らが家具の装飾金具や単独の金工品を製作して名声を得た。1830年ころから60年ころまでは,一口にいって,王朝時代またはそれ以前の様式の工芸品を機械を使用して粗悪に製作していた時代で,金工品にも見るべきものはなかった。しかしその後20世紀初めに,ウィリアム・モリスが口火を切ったいくつかの工芸運動があってから,生産手段および造形手段としての機械の価値が確認された。一方,工芸品の用途・機能尊重の念も高まり,金工品を含めて多くの工芸品は,いわゆる生産工芸品として製作され,その形体は簡明直截になり手工品とは別個の美をもったものとして享受されるようになった。現在,ドイツ,北欧諸国,アメリカ,その他の国々に,生産工芸品として見て興味の深い金工品が多く作られている。これにともなって,たとえば中世から行われてきた鍛鉄細工のような,工人の特殊な技能を必要とする金工品を除いては,一般に手工芸的金工品は著しい衰微を示した。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「金属工芸」の意味・わかりやすい解説

金属工芸
きんぞくこうげい

金属をおもな素材として加工した工芸品、およびそれをつくる技術。金工、金属細工ともいう。金の鉱石から金をとる冶金(やきん)術が古代エジプト、メソポタミア、インド、中国といった古代文明が発達した地域に発生するのは紀元前4000年ごろからで、諸金属のうち金、銀、銅がもっとも早く工芸品として用いられたが、これは天然の状態でも採取加工が可能であったからである。とくに金は、つねに輝きを保ち、また加工しやすいこともあって、古来もっとも貴重な素材とされた。加工には金属を切ったりたたいたり溶かしたりした。この溶かす段階で銅と錫(すず)の合金、青銅(せいどう)が現れた。これが鋳造の始まりで、いわゆる青銅器時代といわれる文明を形成した。オリエントでは前3000年ごろ、中国では前2000年ごろと考えられる。ギリシア・ローマ時代にはこの銅と青銅の文化がゆっくり鉄の時代へ移っていくが、地域によってはこの過程を踏まない所もある。ギリシア・ローマ時代に水銀の製造とそれによる金の抽出が容易になり、銅と亜鉛の合金、真鍮(しんちゅう)が製造されるようになった。中世には新しい鉱山や溶錬場ができ、石炭や水力が冶金に使われ、16世紀にアグリコラの『デ・レ・メタリカ』が出て、金属工芸は近代技術の夜明けを迎える。産業革命は機械技術を進歩させ、鉱石から金属をとる方法も改善されて、金属工芸は大きく変化した。

 金属工芸のおもな材料は、金、銀、銅、錫、鉄のほか、銅合金の青銅、白銅、真鍮などがあり、近年はプラチナ、アルミニウム、ステンレス鋼なども広く用いられている。

[香取忠彦]

金属工芸の技法

その技法から鋳金(ちゅうきん)、鍛金(たんきん)、彫金(ちょうきん)の三つに大別することができる。

[香取忠彦]

鋳金

金属は加熱すると柔らかくなり、定温に達すると溶解する。この性質を利用して、溶けた金属を型の中に流し込んで冷却凝固してから取り出すのが鋳金で、鋳物(いもの)ともいう。銅または銅の合金はもっとも古く、前3000年にはメソポタミアで鋳造が行われていたと思われる。鋳鉄は、鋳造後は熱せられても溶けず柔らかくもならず、ただちに熱を発散する性質があるので、15世紀以後のヨーロッパで、鍋(なべ)や暖炉など広い範囲に使われ、各地に鋳造所ができた。鋳造の鋳型は蝋型(ろうがた)、惣型(そうがた)、砂型(すながた)、込型(こめがた)のほか、最近は電気鋳造、遠心鋳造、ロストワックス法などがある。

(1)蝋型 古代から19世紀まで受け継がれてきた中空鋳造法。心型の表面を、つくろうとする作品と同じ厚さの蜜蝋(みつろう)に松脂(まつやに)を混ぜた蝋で覆う。湯口や湯(溶かした金属を湯という)の逃げ口をつくり、全面を鋳型土(粘土)で塗り固め乾かす。次にこの鋳型全体を熱すると、蝋は溶けて流れ出し、そのあとにできた空間に、溶かした金属を注入する方法で、青銅器や金銅仏の製作に用いられた。

(2)惣型 枠の中に鋳型土を詰め、これを型押しや型挽(ひ)きによって凹形の鋳型をつくり、この中子(なかご)をあわせて鋳型とし、溶けた金属の当たる面だけ焼いて乾燥させ鋳造する方法で、鏡、釜(かま)、梵鐘(ぼんしょう)などの鋳造に適している。

(3)砂型 鋳造に適した砂で鋳型をつくり、その上に原型を押して鋳造する方法。鋳型を焼かずに鋳造するところから生(なま)型ともいい、銭貨の鋳造などに用いられる。

(4)込型 木彫や石膏(せっこう)などの作品原型を枠の中に置き、鋳物砂をかぶせて、すきまなく突き固め、鋳型全体を反転して原型を引き抜く。そのあとに中子を収め鋳型とする法。現在の美術鋳物はほとんどこの手法による。

(5)遠心鋳造 遠心力を利用して精密な鋳造を行うもので、近年盛んに用いられている。

(6)電気鋳造 電気めっきと原理は同じで、原型に離型剤を塗り、めっきを厚くかぶせてはがすと、原型と逆の雌型ができる。その型に同じ方法を繰り返すことによって原型と同じものをつくる。同じものが何度もできるので、マスプロの複製品には電気鋳造が多い。

(7)ロストワックス法 造形が容易なワックスで原型をつくり、鋳造リングに埋め込み、加熱してワックスを流し出してできた空間に金属を鋳込む法。一度に何個も同じものがつくれるので、装飾品などの量産の製造に向いている。

[香取忠彦]

鍛金

鍛造、打物(うちもの)ともいう。金属の展延性、収縮性を利用して、加熱し柔らかくなった金属を当て金に当て、金槌(かなづち)で打ち、なましを繰り返して1枚の板で成型する。鍛金は前2000年ごろからあり、鍛冶(かじ)屋によって多くの鍛鉄品がつくられてきた。甲冑(かっちゅう)、刀剣、鍵(かぎ)と錠前など、鍛冶屋の専門分化が進み、13世紀のドイツやフランスでは教会や住宅の扉金具や鉄格子に優れたものがある。19世紀に工業化が進むと鍛冶屋の技術も徐々に消滅し、現在では工場の大量生産によるプレス(型押し)、スピニング(へら絞り)がほとんどである。鍛金の技法としては、1枚の金属を表裏から槌で打ち出して立体的な形をつくったり、文様を浮き出たせる打出し技法と、鋳造原型の上に薄い金属板を押し当て、上からたたいて原型の形を転写する押出し技法とがある。

[香取忠彦]

彫金

おもに加飾に用いられる技法で、大小各種の鏨(たがね)で金属面に模様を彫ったり、埋め込み、浮彫りをする技法。文字や線を彫る毛彫り、文様を浮彫り風に表す高肉彫り、切り透かして文様を表す透(すかし)彫りなどがある。

 その他の加飾技法には、象眼(ぞうがん)(鉄や青銅の素地に異なった金属をはめ込んでゆく技法)、鍍金(ときん)(いわゆるめっき加工。漆(うるし)で金箔(きんぱく)を付着させる漆箔(しっぱく)法もこの一種)、七宝(しっぽう)などがある。

[香取忠彦]

歴史

エジプトでは前4000年ごろすでに金と銅でビーズとピンがつくられ、王朝時代には加工技術も発達して、有名なツタンカーメン王の金棺や黄金のマスクのような精巧な作品が生まれた。

 西アジアやアナトリアでも、早くから金、銀、銅が知られ、前三千年紀初めのウルの王墓からは、鍛金、鎚起(ついき)、彫金の技法を生かした金の兜(かぶと)や、鉢、杯、装身具が発掘されている。新石器時代の末ごろから青銅が鋳造に使用されるようになり、メソポタミア、エジプトに加えて、地中海東部地域でも青銅器文化が興った。たとえば、クレタ島では前2100年ごろに多くの青銅器がつくられている。

 イラン地方では、遊牧民族による特色ある金銀器や衣服の留金(とめがね)、青銅の馬具がつくられたが、その鳥獣文や狩猟文はペルシアのササン朝に受け継がれ、後のイスラム、ビザンティン、中世ヨーロッパ、さらに唐代の中国、奈良時代の日本にも影響を及ぼした。

 小アジアのアナトリア地方(トルコ)でも前三千年紀から前二千年紀にわたる青銅器時代に、豊富な金工品を生み出した。トロイとアラジャ・ホユックはアナトリアのこの時代を代表する遺跡である。アラジャ・ホユック出土の雄鹿(おじか)、雄牛像には円形の象眼による模様がみられる。ギリシア、ローマの支配から脱して、オスマン・トルコの時代を迎え、15、16世紀に特異なオスマン美術を生み出した。その幾何学文様や唐草文様などのモチーフはアジアやヨーロッパに伝わった。宝石をちりばめた象眼細工は目を見張るものがあり、トプカプ宮殿の宝石金象眼兜や、スルタン・ムラト3世の『ディーバーン詩集』の表紙などは当時の金工技術の極致といえる。

 一方、ギリシアから金工技術を受け継いだエトルリアでは精巧な金線細工が発達し、銅板の打出しや銀象眼をもつ青銅器にも優れていた。ローマはとくに銀器に優れ、支配下の各地から多くの美しい製品を生んでいる。

 中世から近世にかけて金属工芸は飛躍的な発展を遂げた。中世の初期には、イランや黒海沿岸から西方に移動した遊牧民族などを媒介として、東方の金属工芸が西方に伝えられた。メロビングおよびカロリングの2王朝は、貴石を象眼した貴金属製品や留金などにケルトやローマの伝統を生かし、この傾向はロマネスク、ゴシックの時代に受け継がれてゆく。とくにキリスト教の普及とともに、典礼具として精巧な金属製品がつくられたことが注目される。組織化された職人の集団も生まれてきたが、これには修道院工房が大きな役割を果たし、王冠、ブローチ、留金などの装身具、聖杯、福音書(ふくいんしょ)装丁板、聖遺物容器などの聖器具類がこれらの工房を中心に製作された。14世紀、聖職者の法衣につける留金は、それまでの浮彫りやカメオから銀台に華麗な七宝装飾のものにかわり、貴族階級や富裕な市民にも愛用された。イタリアではフィレンツェ、ローマ、ベネチアを中心に、彫刻の分野とも結び付いて、金工は従来よりさらに広い範囲に発展した。

 16世紀におけるもっとも有名な金細工師はベンベヌート・チェッリーニである。その作品には『フランソア1世の塩入れ』(ウィーン美術史博物館)のほか、動物文のペンダント、宝石やエナメル金彩の彫金などがある。彼は自叙伝のほかに金細工に関する技法書も書いている。

 このころ、それまでの金属素材に加えてピューター(白鉛。錫と鉛の合金)が登場した。ピューターは細い線彫りや透(すかし)細工、打出しなどに適しており、具象や抽象の文様の皿、水差し、燭台(しょくだい)などの家庭用品が盛んにつくられた。17世紀オランダの画家ヤン・ステーンの静物画にもピューターの水差しがしばしば登場する。

 16世紀後半に金細工、宝石細工、七宝(しっぽう)などの技術が総合され、作家たちは強固な職人組合をつくり、彼らの工房はしばしば特定の都市に集中したので、地方的に特色ある金属工芸が発達した。ウェンツェル・ヤムニッツァはニュルンベルクに大工房を設立し、装飾的な容器の製作を得意とし、打出しによる立体感ある高浮彫り細工を完成した。オランダの金工たちは鍛金の技法に長じ、立像などを配した立体的な作品をつくった。パリの工房はバロック、ロココを通じてヨーロッパの金属工芸の主導的役割を果たし、その影響は今日に及んでいる。

 18世紀には銀器が人気を集める。燭台、時計、化粧道具などがつくられたほか、家具の装飾金具として鍍金ブロンズが多用された。また、箱、壺(つぼ)、小瓶などの小物は王侯の贈答品にも使われた。

 19世紀になると、電気めっきや圧搾機の導入で道具類が大量生産されるようになり、金属工芸品は装飾品、工芸品にほとんど限られるようになる。そして20世紀には、前世紀末のアール・ヌーボーの華麗な装飾過多に対する反発から、金属工芸も機能主義的、表現主義的傾向をたどるようになっていった。

[友部 直]

中国

殷周(いんしゅう)時代(前1500ころ)の青銅器遺品によって、当時すでにきわめて精巧な鋳造技術が発達していたことがわかる。生産工具、武器、飲食器、楽器などに大別されるが、いずれも祭祀(さいし)、宴会、儀礼行事に権力者たちの権威の象徴として用いられた。殷代青銅器は動物文が一般的で、祭器的性格の強い異形の飲食器や武具は、牛、羊、虎(とら)、竜など動物や怪獣を誇張したデザインの饕餮(とうてつ)文、虺竜(きりゅう)文などで飾られている。このほか渦巻状の円渦文、雷文などの幾何学文様もある。

 周代末になると、青銅器は儀礼的なものより実生活に即したものが多くなるが、殷代の精巧厳格さは失われ、動物図案も簡略化してくる。戦国・漢代の銅器は繊細さを増し、金銀象眼したり、鍍金して華麗さを誇り、その一方で簡素な日常雑器もつくられている。またこの時代に銀器、鉄器もつくられるようになった。

 戦国・秦(しん)時代の鏡は薄手で、その鏡背に蟠螭(はんち)文(数匹の竜が身をくねらせて絡み合う文様)を平面的に鋳出したものがみられるが、前漢時代になると、幾何学文様に四神を配した方格規矩(きく)四神鏡や連弧文が現れ、後漢(ごかん)には神仙物語や風俗を表した画像鏡や神獣(しんじゅう)鏡がみられる。

 隋(ずい)唐時代は、中国の勢力が広く西域(せいいき)に及んだ時期で、西域文化の影響を受けた胡瓶(こへい)、八曲杯、脚杯といった新形式の金銀器が現れ、文様も葡萄(ぶどう)文などヨーロッパの産物を伝えたものがある。鏡も八花形、八稜(りょう)形で、海獣葡萄鏡や伯牙弾琴(はくがだんきん)鏡などの華麗な様式が生まれた。金銀器も象眼を施したり、装身具のなかには細密な粒金細工もみられる。隋唐の文物はわが国に伝わり、正倉院には銀盤など唐代の粋を示す金属工芸が伝わっている。

 宋(そう)代の金銀器は唐代に比べ理知的な美を求め、元(げん)以後は帯飾りなどに高肉彫りが使われている。こうした傾向は明(みん)代以後の複雑・細密な中国金工の作風に受け継がれている。

[香取忠彦]

朝鮮

楽浪(らくろう)出土の金属器は中国漢代の美術的傾向を示すものとして貴重であるが、朝鮮独自の特色ある遺品としては、慶州付近の古墳出土の古新羅(しらぎ)の副葬品がある。純金製宝冠や耳飾りは、繊細な意匠と技巧で古代朝鮮の民族色を色濃く残している。新羅統一時代の遺品は少ないが、慶州奉徳寺の梵鐘は朝鮮鐘と称される独自の様式を示すものとして注目される。高麗(こうらい)時代にはこの新羅鐘の流れをくむ銅鐘や種々の仏具のほか、中国鏡を模した各種の銅鐘がある。高麗時代の金工の特色は銀象眼で、法隆寺伝来の金山寺香炉ほかいくつかの遺例が日本にも伝わっている。

[香取忠彦]

日本

中国・朝鮮の金工、採鉱、冶金(やきん)技術が日本に渡来したのは弥生(やよい)時代、前300年ごろで、前100年ごろには国内でも鋳造が始まった。しかし中国古代青銅器のような大作はつくられず、形状の単純な刀剣類や装飾品など小型の作品に限られていた。弥生時代の後期になると、北九州を中心に銅剣、銅鉾(どうほこ)がつくられ、これらをつくった砂岩の鋳型も出土しているところから、日本で鋳造が行われたことがわかる。紀元後100年ごろには鋳肌に流水文、人物や動物や家屋などの文様を鋳出した銅鐸(どうたく)が多数つくられた。畿内(きない)を中心に出土地も広範囲に及び、土型による鋳造と考えられていたが、近年石鋳型が発見され、初期の銅鐸は石型によったものと考えられている。

 次の古墳時代になると、金工はきわめて多彩になる。墳墓の副葬品には支配階級の権威を示す宗教用具、装身具、馬具がみられる。銅鏡は中国からの舶載品のほかに、中国鏡を模したものや、日本独自の鏡もつくられた。直線と曲線で構成された直孤文鏡、家屋を文様化した家屋文鏡、鏡の周辺に鈴を取り付けた鈴鏡(れいきょう)は日本独自のものである。装身具には冠、耳飾り、帯金具、釧(くしろ)などがあり、金、銀、金銅の透(すかし)彫り、細線細工、毛彫りなどの彫金技術がみられる。大刀(たち)や馬具のなかには銀象眼を施したものや竜文、遠くギリシアからの伝播(でんぱ)を思わせるパルメット文などを透彫りにしたものがある。甲冑のうち短甲は鉄板で槌出し曲面をつくり、これらの板を何枚もあわせ、鋲留(びょうどめ)または革綴(かわとじ)してあり、当時の進んだ鍛造技術を示している。

 飛鳥(あすか)時代に百済(くだら)から仏教が伝来し、熟練した工人も多数来朝して、造寺・造仏が盛んに行われ、金工技術は飛躍的に発展した。飛鳥寺の丈六仏(606)、法隆寺釈迦(しゃか)三尊(623)は止利(とり)仏師の作であり、いずれも蝋型鋳造で金めっきを施してある。また、法隆寺の玉虫厨子(たまむしずし)の扉背面の千仏銅板には鍛金の押出し技法がみられる。これは白鳳(はくほう)から奈良時代にかけて流行した技法で、刻印のように銅板の裏から仏像の形をした原型で打つか、半肉の原型の上に薄い銅板をのせて上からたたいて浮彫り風に肉づけしたものである。当時の彫金の傑作には東京国立博物館法隆寺宝物館の金銅透彫灌頂幡(かんじょうばん)がある。天蓋(てんがい)の下に銅板を組み合わせた長さ5メートル余の長幡(ちょうばん)を下げ、仏、菩薩(ぼさつ)、天人、パルメット文を透彫りにしてある。

 奈良時代は金工の最盛期であった。聖武(しょうむ)天皇の発願になる東大寺の本尊盧舎那仏坐像(るしゃなぶつざぞう)(754開眼(かいげん)供養)は座高15メートル、重さ250トンの巨大な鋳物仏像で、二度の火災で当初のおもかげを失っているとはいえ、蓮弁(れんべん)に刻まれた蓮華蔵(れんげぞう)世界図は当時の壮大な趣(おもむき)をいまに物語っている。東大寺大仏殿前の八角灯籠(とうろう)は、斜格子地文透(じもんすかし)の火舎(ほや)の扉に音声(おんじょう)菩薩を半肉に鋳出した蝋型鋳物で、量感あふれる金工作品である。東大寺三月堂本尊の不空羂索(ふくうけんじゃく)観音の銀製宝冠は、唐草文を透彫りした銀板に琥珀(こはく)、水晶、玉(ぎょく)を飾った華麗なもので、当時の金工技術の高さを示している。正倉院宝物にも、鏡、錫杖(しゃくじょう)、柄香炉(えごうろ)、銀壺(ぎんこ)などの鋳造品、薫炉(くんろ)、盤(ばん)などの鍛造品と多種多彩な金工品がある。

 元明(げんめい)天皇の和銅(わどう)元年(708)に武蔵(むさし)国秩父(ちちぶ)から銅が献上されたのがきっかけで、和銅開珎(わどうかいちん)とよばれる日本最初の鋳銭がつくられた。金貨の開基勝宝(かいきしょうほう)も知られているが、その後何種かの銭製造ののち発行が停止され、かわって中国銭が多量に輸入されて流通し、本格的な銭貨の鋳造は江戸時代をまつこととなる。

 平安後期は延暦寺(えんりゃくじ)の宝相華(ほうそうげ)毛彫金銅経箱(1031)や中尊寺の金銅華鬘(けまん)(透彫りで宝相華を表し、打出しによる迦陵頻伽(かりょうびんが)を付す)にみられるように、当時の貴族の繊細優美な好みを反映した金工が多い。この時代、鏡は唐式から和鏡に変化した。鏡胎は薄くなり、草花、蝶(ちょう)、鳥などの文様を配している。また鏡の表面に御正体(みしょうたい)といって、仏像、神像を毛彫りで表し、礼拝の対象とした鏡像も流行した。

 仏教の隆盛に伴って梵鐘も奈良時代から多くつくられた。梵鐘は中心部を軸として鋳物砂に接触して原型を回転させ鋳型をつくる。これを引き型法といい、姿の美しい平等院の梵鐘、銘文で名高い神護寺の梵鐘(875)などが知られている。

 仏教界では新しく密教がおこり、最澄(さいちょう)、空海(くうかい)らが入唐(にっとう)して宗義とともに多数の仏具を請来したが、以後それに倣って多くの密教仏具がつくられた。

 鎌倉時代は貴族にかわって武家が台頭した時代で、この時代の金工は武具、甲冑類の飾り金具に集中する。春日(かすが)大社の赤糸威(あかいとおどし)の竹虎(たけとら)文様金物や義経籠手(こて)などに彫金技法がみられる。仏教界では舎利(しゃり)奉安のための舎利塔の製作が盛んに行われ、西大寺の金銅透彫舎利塔、長福寺の金銅能作生(のうさっしょう)塔など金工技術の粋を示している。この時代の金工は重厚な趣(おもむき)をもち、鏡も厚手となり、文様も写実的で仏具も重厚なものが好まれた。

 室町時代には鐔(つば)や目貫(めぬき)、笄(こうがい)、小柄(こづか)など刀装具にみるべきものが多い。彫金家後藤祐乗(ゆうじょう)は後藤家の祖となり、子孫は17代にわたって活躍した。

 鎌倉時代から江戸時代にかけて鉄の精錬に使う炉「たたら」が改良され、良品質の鉄鋼生産が可能になった。こうして青銅製品にかわって鋳鉄製品が多く現れるようになるが、用途の大部分は鍋(なべ)、釜(かま)などの炊飯用品と鋤(すき)や鍬(くわ)などの農耕具であった。しかし、室町期に流行した茶の湯によって、茶の湯釜が鋳造されるようになった。九州福岡県の遠賀(おんが)川河口の芦屋(あしや)釜、栃木県佐野の天明(てんみょう)釜が有名。芦屋釜は地膚(じはだ)表面が滑らかで鋳出文様に風雅な趣があり、天明釜は荒々しい地膚と形のおもしろさに特徴がある。京都でも釜の製作が始まり、名越善正(なごしぜんせい)、西村道仁(どうにん)、辻与次郎(つじよじろう)などの釜師が輩出した。刀剣小道具も発達し、前述の後藤家の各代、刀の鐔では埋忠明寿(うめただみょうじゅ)が透しや象眼を応用した華やかで気品の高い作品を残している。また桃山時代には書院造の広大な邸宅や城郭が造営され、柱金具、引手、釘隠(くぎかくし)など、建築の細部に金工が施された。

 江戸時代には、刀剣は実用を離れた賞玩(しょうがん)品となり、小道具類は装飾的傾向を強めた。金工全般に末梢(まっしょう)的な技巧にとらわれがちで、江戸後期には文人趣味の絵文様を浮彫り、透彫りにした文房具類が蝋型鋳物で精巧につくられた。鏡は16世紀後半に柄鏡(えかがみ)が出現して、以後明治初期まで流行した。

 明治以後は、それまでの各種技法を継承し、西洋の技術も導入されたが、社会的変革に伴う生活様式の推移により大きく変化し、また海外の万国博覧会などにも日本の金工が紹介されるようになった。鋳金家として本間琢斎(たくさい)、鈴木長吉、大島如雲(じょうん)、彫金家として加納夏雄(かのうなつお)、海野勝珉(うんのしょうみん)、香川勝広、鍛金家として平田宗幸らが活躍した。明治から大正、昭和にかけては津田信夫(のぶお)、香取秀真(かとりほつま)、清水南山、北原千鹿(せんろく)らの活躍が目だつ。明治以後しばしば開催された美術工芸展覧会によって作家は大きな刺激を受け、一方、金工の需要が拡大するに伴って技術を発展させたことも見逃せない。

[香取忠彦]

『蔵田蔵・中野政樹著『日本の美術39 金工』(1974・小学館)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「金属工芸」の意味・わかりやすい解説

金属工芸
きんぞくこうげい
metalwork

金属を加工した工芸品,またはその加工技術。金工。素材によって,鉄,銅,貴金属,軽金属による工芸品があり,技法によって鋳金,鍛金,彫金,板金,七宝,細線粒金細工 (フィリグリー ) などによるものがある。古代エジプト,メソポタミアでは貴金属品,鋳金,鍛金の青銅物,ギリシア,ローマでは貴金属品,鋳金,鍛金,象眼による青銅器や金,銀,銅の合金による工芸品,ササン朝ペルシアでは金銀器,イスラム時代には金銀象眼器,キリスト教では教会法具,中世ヨーロッパでは鉄,赤銅,亜鉛,貴金属の諸技法による工芸品が栄えた。またドイツを中心として,中世より近世にかけて特に鍛鉄の装飾や器物が盛行。中国では殷代より鋳銅器が最高度に発達し,周代には金銀象眼も行われた。日本は古くから鋳銅にすぐれた技術をもち,多くの作品を残しているが,鎌倉時代以降には鍛鉄,刀剣装飾,武具の秀作が多くみられ,世界最高の品質と技術に達した。中央アメリカのマヤ帝国では4~5世紀に黄金の工芸品が最盛となり,各種各様の器物が作られた。現代では多くの金属器が工業技術によって製作されているが,一般に量産品については金工品とはいわず,主として手工芸によるものが金属工芸品といわれる。

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百科事典マイペディア 「金属工芸」の意味・わかりやすい解説

金属工芸【きんぞくこうげい】

金属を素材として作られた日常品や装飾品,またはその加工技術。一般に金工と呼ばれる。加工技法は鋳金,彫金,鍛金に大別される。

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世界大百科事典(旧版)内の金属工芸の言及

【イスラム美術】より

…工芸諸分野における一つの共通した特徴は,装飾面全体を種々の装飾モティーフですきまなく覆う,過剰とも思える装飾で,これによって,器物本来の性質,質感,機能性などが著しく損なわれる結果を招いている。イスラム工芸には,金属工芸,陶芸,染織,ガラス工芸,象牙細工,木工芸などの分野があり,とりわけ,金属工芸と陶芸が高度の発達を遂げて,東西両洋の美術に少なからず影響を与えている。
[金属工芸]
 金工においても,ササン朝ペルシア,ビザンティン,コプトなどイスラム以前の伝統が継承された。…

※「金属工芸」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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