金子直吉(読み)かねこなおきち

日本大百科全書(ニッポニカ) 「金子直吉」の意味・わかりやすい解説

金子直吉
かねこなおきち
(1866―1944)

明治・大正・昭和期の実業家高知県吾川(あがわ)郡名野川村の没落商家に生まれ、一時郷里で丁稚(でっち)奉公をしたのち、21歳のとき神戸の鈴木商店に入店した。当主岩治郎の死後、未亡人よねの下で番頭として経営を担当し、非凡な企業者能力と積極的で大胆な事業拡大戦略とによって、一砂糖引取商にすぎなかった同店を日本有数の総合商社に育て上げると同時に、傘下に最盛時65社といわれる一大企業集団をつくりあげた。とくに、彼の事業拡大への意欲がもっとも成果をあげたのは第一次世界大戦時で、このとき鈴木商店は大胆に鉄材船舶などの諸商品に思惑(おもわく)取引を敢行して、一挙に日本最大の取扱高を示すに至った。著名な「三井三菱(みつびし)と天下を三分する」という宣言を金子が行ったのもこのときであった。しかし、彼のこうした拡大方針は大戦後、不況が長期化するなかで行き詰まり、台湾銀行に過度に依存して事業を維持しようとしたため、1927年(昭和2)の金融恐慌同行破綻(はたん)すると、金融の途を断たれて鈴木商店も破綻し、傘下企業集団は分散を余儀なくされた。その後、金子は鈴木商店の復活を図って再度種々の事業を展開したが、果たせないままに昭和19年病没した。最終的にはその事業経営は蹉跌(さてつ)したが、傘下から神戸製鋼所帝人など、その後の日本経済に大きな位置を占める企業を輩出し、多数の有能な人材を育成したことで、彼の企業者活動は高く評価されている。

[柴 孝夫]

『桂芳男著『総合商社の源流・鈴木商店』(日経新書)』『白石友治著『金子直吉伝』(1950・金子柳田両翁頌徳会)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「金子直吉」の意味・わかりやすい解説

金子直吉
かねこなおきち

[生]慶応2(1866).6.13. 土佐
[没]1944.2.27.
大正期における代表的な創業者的企業家。 1886年神戸の砂糖商鈴木商店の番頭となり,後藤新平ら政治家と結んで台湾の開発を機に鈴木商店を大総合商社に成長させ,一時は三井,三菱と並んで天下を3分する勢いを示した。大正末期の最盛期には 76の会社を経営する多角的総合商社であったが,1927年の金融恐慌期に台湾銀行に対する巨額の負債が返済できず,鈴木商店は倒産。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「金子直吉」の解説

金子直吉 かねこ-なおきち

1866-1944 明治-昭和時代前期の実業家。
慶応2年6月13日生まれ。明治19年鈴木商店にはいる。主人鈴木岩治郎の死後,未亡人よねのもとで番頭となり,樟脳(しょうのう)精製業や製糖業をはじめ,神戸製鋼所の経営にあたるなど事業を拡大。第一次大戦中には三井・三菱に匹敵する商社に発展させたが,昭和2年の金融恐慌で同店は破綻(はたん)した。昭和19年2月27日死去。79歳。土佐(高知県)出身。

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世界大百科事典(旧版)内の金子直吉の言及

【鈴木商店】より

…第2次大戦前に存在した大商社。1874年ごろに鈴木岩治郎が神戸で創業した砂糖商に始まるが,その発展は94年の岩治郎の死後,番頭の金子直吉,柳田富士松によってもたらされた。日本の台湾領有後,鈴木商店は台湾総督府民政長官の後藤新平と結びつき,台湾樟脳専売制施行(1899)に際して樟脳油の一手販売権を獲得し,発展の糸口をつかんだ。…

【帝人[株]】より

…本社大阪市中央区。 鈴木商店の番頭の金子直吉(1866‐1944)は人絹工業の創設を計画し,1915年米沢市に鈴木商店翼下の東レザー(株)の分工場,米沢人造絹糸製造所を発足させた。これが帝人の始まりである。…

※「金子直吉」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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