金剛流(読み)コンゴウリュウ

デジタル大辞泉 「金剛流」の意味・読み・例文・類語

こんごう‐りゅう〔コンガウリウ〕【金剛流】

能のシテ方の流派の一。大和猿楽坂戸座の流れで、幕末までは金剛座といった。室町時代坂戸孫太郎氏勝を流祖とする。現在は京都に本拠をもつ。

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精選版 日本国語大辞典 「金剛流」の意味・読み・例文・類語

こんごう‐りゅう コンガウリウ【金剛流】

〘名〙 能楽シテ方の一流派。大和猿楽四座の一つで、坂戸を名のった。足利義満時代、孫太郎氏勝を祖とし、四代後の金剛三郎正明から金剛座を名のった。八世氏正(一五〇七‐七六)は豪快な芸風の持ち主で、同流中興の祖。写実的で豪快な型が特徴。明治期には金剛右京有名。京都に本拠を持つ。金剛。

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改訂新版 世界大百科事典 「金剛流」の意味・わかりやすい解説

金剛流 (こんごうりゅう)

能のシテ方の流派名。坂戸郷と呼ばれた奈良県生駒郡平群(へぐり)町付近を本拠地として法隆寺に奉仕した坂戸座(鎌倉時代から記録所見)が源流らしく,室町初期には春日興福寺に勤仕する大和猿楽四座の一つとなった。1721年(享保6)に幕府へ提出した書上(かきあげ)および家元の系図では,足利義満時代の坂戸孫太郎氏勝(1280-1348)を流祖とし,金剛三郎正明(1449-1529)から金剛姓とするが,確実なことはわからない。世阿弥の芸談《申楽談儀》に〈金剛は,松・竹とて,二人,鎌倉よりのぼりし者也〉とあり,関東から上った役者が坂戸座を継いだらしい。同書は,観阿弥とほぼ同代の金剛座の統率者金剛権守(ごんのかみ)の話を伝え,量感のある芸風と評しており,金剛の座名も金剛権守の芸名に由来するとみられる。室町中期の作者付《自家伝抄》に,《絵馬》《悪源太》《実検実盛》等活劇風の諸曲の作者とする金剛はその後裔であろう。芸風は金春(こんぱる)座とともに〈大和(奈良)がかり〉と称された。室町時代を通じて,必ずしも流勢が盛んとはいえず,10世(12世とも)右京頼勝(1599-1647か48)が幼くして父金剛大夫弥一に死別し(1605),断絶の危機にあったが,豊臣氏の後援で金剛座に加えられていた北(喜多)七大夫が,一時金剛大夫を継ぎ,芸統を守った。江戸時代は四座(観世,金春,宝生,金剛)の一つとして幕府に公認された。

 歴代家元の中では,中興の祖といわれた7世(8世とも)兵衛尉氏正(1507-76)が傑出している。〈鼻金剛〉の異名で呼ばれた大男で,豪快な芸風で,勝気な性格らしく,金春流との勢力争いから騒動を起こしたりした。13世(15世とも)又兵衛長頼(1662-1700)は足早又兵衛といわれるほど早業で名高く,《内外詣(うちともうで)》の作者でもある。維新当時の家元21世右近氏成(のちに唯一。1815-84)は,その子泰一郎(22世兵衛氏善。1849-87)とともに東京・麻布飯倉の舞台を拠点に明治初期の能楽復興に尽力した。23世右京氏慧(うじやす)(1872-1936)は,この流儀の特徴である奇抜な型や早業をよくし,能の故実にも精通,みずから版下を書いて〈金剛流謡本(昭和版)〉を発行するなど異色の存在であった。しかし15歳で父氏善と死別,能舞台の焼失,後継者が早く死亡するなどその生涯は不幸であった。後嗣なく没したため,その遺言で坂戸金剛家は断絶した。しかし,他の四流の家元のとりなしもあって,京都金剛家の当主巌(いわお)(1886-1951)が家元となり,1937年坂戸金剛家とは別の金剛流宗家が生まれた。2世巌(1924-98)は先代巌の三男である。同家は,もと野村姓で,阿波藩に仕え京都に住して禁裏の能を務め,現巌の曾祖父禎之助が後援者の近衛家などの斡旋で金剛姓を許され,分家に準ずる待遇を受けた家柄である。禎之助の子謹之輔は関西の巨星と仰がれた名手で,面・装束の収集にも力を注ぎ,次代の巌も志を継いだので,その所蔵品は質量ともにすぐれたものが多い。

 金剛流の芸風は,金剛権守,鼻金剛,足早又兵衛らの先祖以来,豪快で目ざましい動きに特徴を見せたらしい。現在も,謡の本文に即した型が多く,他流に少ない離れ技のような大胆な型を随所に見せるが,とくに現今は著しくやわらかい芸風化が見られる。地盤は京都を中心に,大阪,広島,東京,米沢などで,1983年現在,能楽協会には約70名の役者が登録されている。なお,他流が謡本を刊行した江戸時代にも刊本をもたず,1882年に至って,いわゆる山岸版(金剛氏成序)が刊行され,84年に外組本も出版された。当時までの伝承曲は200曲,現行曲は202曲である。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「金剛流」の意味・わかりやすい解説

金剛流
こんごうりゅう

能の一流派。シテ方五流の一つ。南北朝ごろ大和猿楽(やまとさるがく)の一座として興福寺に属していた坂戸座(さかとざ)の後の名。坂戸座は奈良県生駒(いこま)郡三郷(さんごう)村坂戸に座があったのでこの名があり、鎌倉時代は法隆寺に属した呪師(じゅし)猿楽の座といわれる。14世紀初めの坂戸氏勝(うじかつ)を流祖というが、明らかでない。氏勝から数えて6世の善岳正明(ぜんがくまさあき)のとき、姓を金剛と改めた。中興の祖は鼻金剛とよばれた8世金剛氏正で、豊臣(とよとみ)秀吉から金剛座800石の朱印を得ている。江戸時代は徳川幕府に仕えた。のち喜多流をおこした喜多七大夫(しちたゆう)が一時金剛大夫を継いだ時期もあり、能面「孫次郎」の創作者と伝えられる右京頼勝(よりかつ)や、「脚疾(あしばや)又兵衛」とあだ名された名手の又兵衛長頼(ながより)らが名高い。明治維新後は、氏成(うじしげ)(唯一)・泰一郎父子が東京・麻布の能舞台を中心に能楽復興の先駆をなしたが、移転、焼失などの不幸が重なった。泰一郎の子、23世金剛右京氏慧(うじやす)は独自の鮮やかな技(わざ)と故実に明るい見識で名声が高かったが、不遇であった。そして遺言により1936年(昭和11)彼の死をもって坂戸金剛家は断絶した。

 しかし他の四流宗家の斡旋(あっせん)もあって、同年中に、弟子家である京都金剛家の金剛巌(いわお)(初世)が、坂戸金剛とは別に金剛宗家をたてた。本来野村姓の禁中出入りの能役者の家柄で、2世巌(初世の三男)の曽祖父(そうそふ)の禎之助(ていのすけ)の代から金剛姓を許されている。流儀の芸風は俗に「舞(まい)金剛」といわれる型の鮮やかさに、京都風の優美さを加えている。写実味が強く、早技(はやわざ)を得意とする。京都の金剛能楽堂(常用されている能舞台ではもっとも古い)を拠点に、宗家父子を中心に豊島(てしま)、種田、今井、広田の各家が活躍し、東京には金剛右京の弟子である故奥野達也(たつや)の後継者たちがいる。機関誌『金剛』をもつ。

[増田正造]

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百科事典マイペディア 「金剛流」の意味・わかりやすい解説

金剛流【こんごうりゅう】

能のシテ方五流の一つ。南北朝の坂戸座の末流。鎌倉時代には法隆寺に属していたという。8世金剛氏正(鼻金剛)を中興の祖とする。坂戸金剛家は23世金剛右京〔1872-1936〕の遺言によって絶えたが,金剛巌が新たに流儀を興した。2世金剛巌〔1924-1998〕ほか,1977年に人間国宝になった豊島弥左衛門〔1899-1978〕らが京都を地盤に活躍。芸風は舞金剛といわれる技の多彩さに,上方風の優美さを加えている。
→関連項目綾鼓喜多流下掛り大和猿楽

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「金剛流」の意味・わかりやすい解説

金剛流
こんごうりゅう

能の流派。シテ方。大和猿楽四座の1つ。大和猿楽坂戸座が起源。鎌倉時代は法隆寺に仕えた呪師 (じゅし) 猿楽の座であったという。流祖を坂戸氏勝とし,6世善岳正明以後,金剛を称す。7世氏正 (1507~76) は鼻金剛といわれた名手で豊臣秀吉に仕えた。喜多流の祖喜多七太夫は一時金剛七太夫を名のったこともある。江戸時代以降は徳川家に仕えた。右京頼勝は能面「孫次郎」の作者といわれ,脚疾 (あしばや) 又兵衛といわれた又兵衛長頼 (1662~1700) らが出ている。明治維新以後,名人といわれた唯一の孫の 23世金剛右京 (1872~1936) で坂戸金剛は断絶したが,未亡人および他の四流宗家の斡旋により,弟子家の京都金剛の金剛巌 (1世,1886~1951) が宗家となる。初世巌の死後は2世巌 (1924~98) が宗家を継いだ。京都に金剛能楽堂を有し,広田・豊島・種田・今井氏らの弟子家を擁し,東京に東京金剛会がある。芸風は舞金剛といわれる型の鮮かさに特徴を有する。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「金剛流」の解説

金剛流
こんごうりゅう

能のシテ方の一流儀。大和猿楽四座の一つ。坂戸座の流れをくむ。流祖は未詳。座名は「申楽(さるがく)談儀」にみえる観阿弥と同代の座の棟梁,金剛権守(ごんのかみ)に由来するか。鼻金剛の異名をもつ戦国期の兵衛尉氏正(ひょうえのじょううじまさ)を中興の祖とする。氏正から4代目の金剛弥一没後の一時期には,金剛座に属していた北七大夫が金剛大夫を継ぐが,七大夫はのち独立し,後世の喜多流の礎をなす。江戸時代には流儀の謡本の版行はなく,1882年(明治15)刊行の山岸本が流儀謡本の最初となる。明治初年に出た氏成は東京麻布飯倉の舞台を中心に能の復興に力を尽くしたが,氏成の孫,右京氏慧(うじやす)の没後は後継者がなく,坂戸金剛は断絶。その後,弟子家でもと野村姓を称し,禎之助以来金剛姓を許されていた京都金剛の金剛巌が家元を継ぐ。

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世界大百科事典(旧版)内の金剛流の言及

【能】より

… 南北朝時代には,諸国の猿楽座の中で大和猿楽近江猿楽が際立つ存在だった。大和猿楽の中心は興福寺支配の4座,すなわち円満井(えんまい),坂戸,外山(とび),結崎(ゆうざき)の座で,これが後に金春(こんぱる)座(金春流),金剛座(金剛流),宝生座(宝生流),観世座(観世流)と呼ばれるようになる。結崎座を率いる観世という名の役者(後の観阿弥)は,技芸抜群のうえくふうに富み,将軍足利義満の愛顧を得て京都に進出し,座勢を大いに伸ばした。…

【大和猿楽】より

…秀吉は宇治猿楽や丹波猿楽の役者を大和猿楽四座にツレ囃子方として所属させたため,それらの諸座は解体の運命をたどり,結果的に大和猿楽のみが命脈を保つこととなったが,江戸幕府も秀吉の政策を継承し,四座の役者に知行・扶持・配当米を与えて保護した。この四座に江戸初期に一流樹立が認められた喜多流を加えた四座一流が幕府保護の猿楽で,それが今日の五流(観世流宝生流金春流金剛流,喜多流)のもととなった。【天野 文雄】。…

※「金剛流」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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