金剛寺(読み)こんごうじ

精選版 日本国語大辞典 「金剛寺」の意味・読み・例文・類語

こんごう‐じ コンガウ‥【金剛寺】

[一] 大阪府河内長野市天野町にある真言宗御室派の寺。山号は天野山。天平年間(七二九‐七四九)聖武天皇の勅願により行基(ぎょうき)が開山したと伝えられる。鳥羽天皇皇女八条女院の祈願所となってから女人高野といわれ、また、南北朝時代には後村上天皇の行宮(あんぐう)となった。所蔵する延喜式三巻、延喜式神名帳一巻は国宝。
[二] 東京都日野市高幡にある真言宗智山派の別格本山。山号は高幡山。行基が創建し、空海が本堂を再建して自作の不動明王像を安置したと伝えられる。関東三不動の一つ。俗に高幡不動の名で知られる。
[三] 奈良県高市郡明日香村阪田にある浄土宗の寺。坂田寺跡の東南にあり、同寺の流れをひくとされる。

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デジタル大辞泉 「金剛寺」の意味・読み・例文・類語

こんごう‐じ〔コンガウ‐〕【金剛寺】

大阪府河内長野市天野町にある真言宗の寺。山号は天野山。天平年間(729~749)行基の開山と伝える。承安元年(1171)から阿観によって再興。後白河法皇の妹八条女院の祈願所となって以来、女人高野ともよばれる。延喜式ほか、国宝・重文を多数所蔵。
東京都日野市高幡にある真言宗の寺。山号は高幡山。創建は大宝年間(701~704)以前、開山は行基と伝える。俗に高幡不動の名で知られる。仁王門・不動堂は重文。

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日本歴史地名大系 「金剛寺」の解説

金剛寺
こんごうじ

[現在地名]日野市高幡

あさ川下流域南岸の丘陵地、甲州街道から分岐した川崎街道沿いにある真言宗智山派別格本山の寺。高幡山明王みようおう院と号し、本尊不動明王坐像。広く高幡たかはた不動・高幡不動尊として知られている。

開山・開創時期は応永二二年(一四一五)二月の金剛寺不動堂勧進状(金剛寺蔵。以下特記しないものは寺蔵)に大宝(七〇一―七〇四)以前の草創とあるが不詳。本尊不動明王および脇士の二童子像は平安後期の作とされている。再興の祖は紀州根来ねごろ(現和歌山県岩出町)で学んだ儀海と考えられる。儀海は嘉元四年(一三〇六)武蔵国多西たさい由比横川ゆいよこかわ(現八王子市)の慈根寺に止住して布教活動をはじめ、元亨四年(一三二四)には高幡不動堂に止住するようになっていた(「理趣釈口決抄」奥書)。現愛知県名古屋市中区宝生ほうじよう(真福寺)所蔵「理趣釈口決抄」奥書は、同年八月九日「武州得恒郷高幡不動堂」において権律師儀海が書写したものである。宝生院の開山は高幡不動の儀海に学んだ能信で(真福寺烈祖伝)、嘉暦三年(一三二八)三月から七月にかけて不動堂宿坊で「秘蔵宝鑰愚草」など多くの教義書を書写している(「高幡山金剛寺典籍・聖教文書目録」「宝生院経蔵図書目録」)

建武二年(一三三五)台風により堂宇および本尊以下の諸尊像が損壊したため、当寺別当権少僧都儀海は修復事業に奔走し、暦応二年(一三三九)得恒とくつね郷・船木田ふなきた木切沢ききりざわ村などを領していた地頭平(高麗)助綱・大中臣氏女夫妻の助成を得て、康永元年(一三四二)六月に本堂(不動堂)一宇、本尊・二童子像の修復を完成させた(同年六月二八日不動明王坐像光背銘)

金剛寺
こんごうじ

臨済宗寺院で、現富山市水橋小出みずはしこいでにあったと思われる。金剛護国寺ともいう。山号は瑞井山。越中の禅宗寺院として最も早く成立したと考えられる。開山は大休正念とされる(扶桑五山記)。大休は南宋より渡来し、鎌倉建長寺三世・同円覚寺二世となり、鎌倉浄智じようち寺開山となった。諡号は仏源禅師、仏源派の祖で、正応二年(一二八九)一一月三〇日死去。ただし大休は当寺の招請開山と考えられ、実際上の開山は同書が中興開山とする法嗣鉄庵道生(諡号は本源禅師)であろう。鉄庵を招いて金剛寺を開基したのは、国衙領小井手こいで保に拠った在庁官人系の有力豪族小井手氏であろう。鉄庵は京都建仁けんにん寺に進み、第二〇世となって塔頭瑞応ずいおう庵開山となり、元弘元年(一三三一)一月六日瑞応庵で死去している。

瑞応庵末となった金剛寺は、康暦二年(一三八〇)越中守護となった畠山氏の外護を背景として以後建仁寺への出世寺となり、五山文学僧として著名な惟忠通恕らを輩出。

金剛寺
こんごうじ

[現在地名]三ヶ日町三ヶ日

うえやまにある曹洞宗寺院。山号は宝福山、本尊は地蔵菩薩。三河東漸とうぜん(現愛知県小坂井町)末であった(遠江国風土記伝)。寺伝によれば、天平年間(七二九―七四九)に行基の開基とされ、初め真言宗であったが、文和二年(一三五三)に浜名清政(金剛寺殿)が近江三井みい寺から僧を招いて天台宗に改め菩提寺とし、明応二年(一四九三)享隠が曹洞宗に改めたという(宝暦七年「金剛寺由緒覚書」金剛寺旧蔵文書)

金剛寺
こんごうじ

[現在地名]青梅市天ヶ瀬

青梅山無量寿むりようじゆ院と号する。真言宗豊山派。本尊は不動明王。上品蓮台じようぼんれんだい(現京都市北区)の寛空の開山と伝える。本尊不動明王画像(寛文一〇年修理)の軸木に古縁起があり、寺中南西の高堂に平将門所持の弥陀像を安置、無量寿院と称したと記す。同像は平安期の作とされ、現在は本堂に安置される。寺蔵の乾元元年(一三〇二)銘の絹本着色如意輪観世音画像(国指定重要文化財)金沢称名かねさわしようみよう(現横浜市金沢区)祐範所持の本尊と記される。

金剛寺
こんごうじ

[現在地名]八千代町沼森

鬼怒きぬ川旧河道の自然堤防上に所在。参道に松並木があり、奥に二層の鐘楼門が建つ。境内には欅の巨木が茂る。瑠璃光山と号し真言宗豊山派。本尊薬師如来立像、脇侍は日光・月光の両菩薩。金剛寺略縁起によると文安五年(一四四八)の創建で開基は俊賢。江戸初期に朱印地二〇石を安堵された。現本堂は第五世勝診の建築で元和二年(一六一六)完成。鐘楼門は第一六世密問の時、安永七年(一七七八)完成。本堂格天井は第二〇世義天の時、天保一五年(一八四四)完成で梅雪の作。

金剛寺
こんごうじ

[現在地名]豊岡市金剛寺

金剛寺地区を南西流する金剛寺川の谷に所在する。智光院と号し、本尊は大日如来、高野山真言宗。開創年代・開創者は不詳。周辺の正覚寺しようかくじ仁花寺にんがじおくぼうどうだに上権現かみごんげんの小字名は元支院の跡地にかかわるものと伝える。暦応二年(一三三九)一二月二六日足利尊氏は、但馬国の塔婆料所として池内村(比定地未詳)押坂おしさか(現山東町)を常住金剛寺に寄進している(「足利尊氏寄進状」金剛寺文書)

金剛寺
こんごうじ

[現在地名]陸前高田市気仙町

町裏まちうらにある。如意山と号し、真言宗智山派。正式には如意山一乗いちじよう院金剛密寺と称する。本尊は如意輪観音。寺伝によれば、創建は仁和四年(八八八)、開山一世を宥、中興の祖を永澄としている。正徳年間(一七一一―一六)現在地に移され、中興第一世により精舎が営まれたものという。元禄一一年(一六九八)の「気仙郡古記」には仁和二年大江千里の建立と記す。宝暦一一年(一七六一)の「気仙風土草」には仁和年中、大江千里が奥州に下向させられたとき、氷上ひかみ権現に詣でて帰洛を祈り、また宥にも祈祷を依頼した。同四年赦免を受けた際当寺を建立したとみえる。さらに寺跡は高田たかたにあり、のち浜田はまだに移り、戦国期には浜田安房守の祈祷所となり、その後今泉いまいずみに移ったとの伝承を記す。

金剛寺
こんごうじ

[現在地名]三重県尾鷲市北浦町

護国山と号し、曹洞宗。本尊十一面観音。尾鷲神社のすぐ東にある。「北牟婁郡地誌」に「東西五十間三尺、南北四十二間、面積千八百十一坪」とあり、仁王像を安置した山門のある大寺は当地方では珍しい。「続風土記」に「本堂方八間・僧坊七間九間・鐘楼方二間半・表門三間二間、産土神の側にあり、開基詳ならす、慶長元年汲月和尚を中興とす、古くは薬王山光林寺と号しけるに、正徳四年今の護国山金剛寺に改む、寺領も堀内安房守の時まては高四十石ありしに、浅野家の時没収せらる、元和の後今の寺地三石六斗余を免許ありて熊野五ケ寺の一と改めらる、(中略)又木地引とて山中に住居する木地屋木屋きぢやごや負禰木屋おひねごやといふ両木屋の者あり、当寺これを支配す」とある。

金剛寺
こんごうじ

[現在地名]上田市大字住吉

東太郎ひがしたろう山南麓で、戸石といし城跡の西側にある集落。近世には東条ひがしじよう村のうち金剛寺村とよばれた。上州沼田ぬまた(国道一四四号)より長島ながしまで分れた道が、金剛寺の集落を通り、金剛寺峠を越えて、軽井沢かるいさわ村(現小県郡真田町大字傍陽そえひ)から松代まつしろ(現長野市松代町)に通じている。

宝永三年(一七〇六)上田藩に提出した小県郡東条村指出帳(上田藩村明細帳)に「金剛寺村」として、百姓総家数八八軒、人数男二二四人、女一九五人、出家四となっている。

金剛寺
こんごうじ

[現在地名]川上村大字神之谷小字中迫

吉野川右岸、断崖を利用した要害の地にある。妹背山大乗院と称し、高野山真言宗。那迦なか寺とも山上奥之院ともいう。本尊は地蔵菩薩立像で平安後期様式。役行者抛地蔵の伝承をもつ(和州旧跡幽考)。寺伝では役行者の草創とする。更矢記録(小泉家蔵)には「なか寺金剛寺」は承和年間(八三四―八四八)空海が建立したと記される。

金剛寺
こんごうじ

[現在地名]檜山郡江差町字中歌町

中歌町なかうたちようの北部段丘上にある浄土宗寺院。無尽山と号し、本尊阿弥陀如来。近世の九艘川くそうがわ町にあって、明治二一年(一八八八)までは観音堂と称された。宝暦一一年(一七六一)の「御巡見使応答申合書」に観音堂とみえ、光善こうぜん(現松前町)末、江差村豊部内とよべない沢に古く(一一五年前)からあったものを、のち現在地に再興したとある。「福山秘府」によると、元禄二年(一六八九)豊後国来迎らいこう(現大分市)の弟子寂了が建立、同三年光善寺末となったという。「寺院沿革誌」には寛永元年(一六二四)創建とある。「江差町史」によると、寛永元年寂誉了随が豊部内沢に観音堂を創建、正保二年(一六四五)九艘川町の高台の現在地に移転、元禄三年光善寺の末寺となったという。

金剛寺
こんごうじ

[現在地名]東山区金園町

寺門・本堂ともに北面して八坂やさか道に向かう。通称八坂庚申堂。大黒山延命院と号し、天台宗。本尊青面金剛童子。「京都府地誌」に「天台宗延暦寺末、創立年月不詳、開基聖徳太子と云」とみえる。「菟芸泥赴(貞享元年刊)には「庚申堂 七観音の南、法観寺の西、摂津天王寺の庚申堂を移せりとぞ。青面金剛といへり」とある。

金剛寺
こんごうじ

[現在地名]秦野市東田原

菜の花なのはな台の南麓にある。大聖山と号し、臨済宗建長寺派。本尊釈迦如来。寺伝によると、承久元年(一二一九)源実朝が討たれたとき三浦氏の一族武常晴が実朝の首級を村内に埋葬、臨済宗の僧退耕行勇すなわち普応国師を請じて当寺を草創したという(風土記稿)。現東京都中野区上高田かみたかだの恵日山金剛寺にある「金剛寺殿鎌倉右府将軍実朝公大禅定門」の碑文によると、建長二年(一二五〇)波多野忠綱が実朝の三十三回忌供養のため、相模国波多野はだの田原たわらに一寺を建立、行勇を開山として草創し、後に江戸の下野入道心仏が小日向こびなた金杉かなすぎ(現東京都文京区)に移し、さらに文明年中(一四六九―八七)太田道灌が再中興し、永正六年(一五〇九)曹洞宗に改めたとある。

金剛寺
こんごうじ

[現在地名]東山区五軒町

五軒ごけん町の北側にある。浄土宗、一切経山と号する。本尊は阿弥陀如来。行基が天平年間(七二九―七四九)東岩倉ひがしいわくら(現京都市左京区)一切経谷の地に創立したと伝え、阿弥陀堂ともいう。東岩倉山一帯は応仁の乱の戦場となったため荒廃、嘆いた郷民らが花頂かちよう山の麓に蒋を敷いて本尊を置き、往来の旅人に喜捨を乞い、その浄財を充てて小さな仮堂を建立したという(坊目誌)。仮堂は粟田あわた惣堂とよばれ、本尊の阿弥陀如来は村人の手で守護されてきた。

金剛寺
こんごうじ

[現在地名]日野町大谷

大谷おおたに集落の北部にある。大谷山と号し、臨済宗永源寺派。本尊は聖観音。寺伝では聖徳太子開基と伝えるが、つまびらかではない。南北朝時代、永源えいげん(現滋賀県永源寺町)開山となった寂室元光がしばしば当寺に来遊して詩を詠じている(寂室録)。またこの頃に五山の高僧絶海中津が一時入寺したらしい。「鹿苑日録」明応八年(一四九九)一二月四日条に「命侍真裁状六通、三則、遣于草野代官、其余則、播州端書記、江州佐々木金剛寺、日野金剛寺」とみえる。文亀―大永(一五〇一―二八)頃の兵乱により伽藍はことごとく焼失したが、付近には寺屋敷・金剛寺・地蔵・仏殿ノ松などの小字名が残った(蒲生郡志)

金剛寺
こんごうじ

[現在地名]尾島町岩松 本郷

岩松いわまつ集落の東方、国道三五四号の北側に位置する。延命山地蔵院といい、高野山真言宗。本尊は薬師如来。岩松直国(金剛寺殿)を開基とする。当寺蔵の板碑一〇基のうち大型の二基は、正和四年(一三一五)八月銘の沙弥円仏・比丘尼妙蓮による逆修板碑一対である。妙蓮は岩松氏の祖時兼の孫娘で藤原土用王御前といい、円仏はその夫とみられる。その屋敷「いわまつのひんかしのやしき」は当寺域に比定されている。応永一〇年(一四〇三)九月日付の村田郷地検目録(正木文書)によると、村田むらた(現新田町など)内に「岩松金剛寺分」の給畠二反が設定されていた。

金剛寺
こんごうじ

[現在地名]柳井市大字柳井 上田

白雲山と号し、真言宗御室派。本尊は阿弥陀三尊。境内に山王社・観音堂がある。

「玖珂郡志」によれば、古くは清泰せいたい院と称して天台宗に属し、塔頭一二坊を数えたという。その後退転し中絶したが、寛文四年(一六六四)真言宗仁和にんな(現京都市右京区)末の普慶ふけい寺の末寺として復興。元禄六年(一六九三)横山よこやま(現岩国市)に移り法華宗に改宗したが、その寺跡を清泰院の脇坊金剛こんごう寺が継いだ。

金剛寺
こんごうじ

[現在地名]会津若松市七日町

下大和しもやまと町中ほどの西側にある。宝珠山華蔵院と号し、真言宗室生寺派。本尊大日如来。大治五年(一一三〇)の開基。初めは小田おだ山の麓、現在の恵倫えりん寺の所に創建したが、室町時代末に郭内米代よねだいに移り、天正一七年(一五八九)兵火のためことごとく焼失。文禄年中(一五九二―九六)蒲生氏郷の町割によって、大和町に移った。会津真言宗四ヵ寺の随一として触頭に任じられ、元禄一六年(一七〇三)より寺領二〇石を与えられた。

金剛寺
こんごうじ

[現在地名]綾部市睦寄町 有安

有安ありやすの庄にあり、門前の街道を南下すれば、草壁くさかべを経てほら峠に至る。紫玉山と号し、臨済宗南禅寺派、本尊延命地蔵。

寺伝によれば、春屋妙葩が丹後の雲門うんもん(現舞鶴市)に隠棲した際、京都往還の宿とした由縁によって建立されたという。妙葩の肖像彫刻(市指定文化財)がある。

金剛寺
こんごうじ

[現在地名]志布志町志布志

志布志港に近接する仲町なかまちにある。暉峻山と号し、浄土真宗本願寺派。本尊は阿弥陀如来。明治九年(一八七六)九月五日に信教の自由令が公布され、真宗禁止が解除されると、本願寺は早速開教僧を派遣して布教にあたった。当寺の開基となった兵庫県伊保崎いほざき(現兵庫県高砂市)西秀さいしゆう寺の暉峻普瑞もその一人で、普瑞は同二六日に鹿児島に入り布教にあたった。

金剛寺
こんごうじ

[現在地名]鶯沢町 北郷

二迫にのはさま川左岸にある曹洞宗の寺院。鶯沢山と号し、釈迦如来を本尊とする。「封内風土記」によれば、寛永年間(一六二四―四四)統異の開山という。「鶯沢村安永風土記」によれば、当寺境内に節女塚があり、玉造たまつくり磯田いそだ(現岩出山町)の小林修理の娘鍋子の墓という。極貧だった修理に捨てられた鍋子は遊女となり、評判をとっていた。

金剛寺
こんごうじ

[現在地名]三原市田野浦町 金剛寺谷

田野浦たのうら谷の奥にあり、西樹山(一に南樹山)と号し、真言宗御室派。本尊不動明王。寺伝によると、治承二年(一一七八)三月、平清盛が厳島参詣の帰途、久和喜くわき沖の青木あおき瀬戸で暴風雨に遭い、守本尊不動明王像を海中に投じて無事帰京、その後漁師の網にかかったこの像を久和喜奥の不動屋敷(一説に金剛寺山峰の笠坂堂)へ安置したが、航行の船舶が難破するので占ったところ、安置するにふさわしくない場所だということで当寺に移したという。

金剛寺
こんごうじ

[現在地名]七戸町 城後

通称むかい町の西に位置する。円通山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦如来。寛政年間(一七八九―一八〇一)の「邦内郷村志」に「金剛寺 円通山十二石、同上(曹洞宗)、法光寺末山」とある。寛永七年(一六三〇)の草創で、開山は瑞龍ずいりゆう寺四世即翁明守といわれる(新撰陸奥国誌)

金剛寺
こんごうじ

[現在地名]小川村高府

真言宗。仏性山曼荼羅院金剛寺という。本尊は釈迦三尊像更級さらしな赤田あかだ(現長野市信更町赤田)専照せんしよう寺末である。寺伝では建長年間(一二四九―五六)僧覚心の創建といい、小川左衛門が再興したという(小川村誌)

金剛寺
こんごうじ

[現在地名]亀岡市曾我部町穴太

穴太あなお寺の西、小幡おばた神社の北にある。福寿山と号し、臨済宗天龍寺派、本尊釈迦如来。寺伝によれば正応二年(一二八九)の開創、仏国国師を開山とする。別名応挙おうきよ寺として有名。

画家円山応挙は享保一八年(一七三三)穴太村の円山藤左衛門の次男に生れ、九歳の時金剛寺に入門、画才を見いだされ、京都の狩野派石田幽汀に学び、のち写生画を大成した。

金剛寺
こんごうじ

[現在地名]五條市野原町

吉野川南岸に所在。小松山と号し、高野山真言宗。本尊薬師三尊は室町時代の作。承安三年(一一七三)平重盛が建立したという。天正二年(一五七四)兵火で焼失したが、元禄六年(一六九三)中興盛宥により再建。阿弥陀如来像・阿弥陀来迎図・三宝荒神愛染不動明王図・弘法大師像(鎌倉時代)、釈迦十六善神図・十三仏画(南北朝時代)、三宝荒神愛染不動明王像・愛染明王像・釈迦十六善神像(室町時代)などがあり、獅子座火焔宝珠形舎利容器(室町時代)、紺紙金銀字交書の仏母大孔雀明王経三券、同じく大随求陀羅尼経二巻(鎌倉・室町時代)が県指定文化財。

金剛寺
こんごうじ

[現在地名]笠間市箱田

箱田はこだの中央にある。箱田山地蔵院と号し、真言宗豊山派。本尊は地蔵菩薩。賀海の開基と伝え、承久年間(一二一九―二二)に廃寺となるが、文明九年(一四七七)笠間朝貞が年高二五〇貫を寄進して再建。

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百科事典マイペディア 「金剛寺」の意味・わかりやすい解説

金剛寺【こんごうじ】

大阪府河内長野(かわちながの)市にある真言宗御室(おむろ)派の寺。古くから〈女人高野(にょにんこうや)〉と称する。聖武(しょうむ)天皇勅願,行基(ぎょうき)開創と伝えるが,事実上は永万(えいまん)年間(1165年−1166年)高野山の阿観(あかん)上人の入山にはじまり,1178年に金堂・多宝塔が建立された。寺領が八条女院領であった由縁で,南北朝期大覚寺統(だいかくじとう)の所領となり,1352年楠木正儀(くすのきまさのり)によって光厳(こうごん)院・光明(こうみょう)院・崇光(すこう)院が当寺に移され,また後村上(ごむらかみ)天皇が一時食(じき)堂を行在所とした。《延喜式神名帳》と平安時代の剣は国宝,〈金剛寺文書〉は《大日本古文書》として公刊されている。
→関連項目光明天皇崇光天皇長慶天皇文観

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改訂新版 世界大百科事典 「金剛寺」の意味・わかりやすい解説

金剛寺 (こんごうじ)

大阪府河内長野市にある真言宗御室派の準別格本山。山号は天野山(あまのさん)。寺伝では聖武天皇の勅願,行基の開創と伝える。金剛寺の事実上の開基は,永万年間(1165-66)ごろ高野山から阿観上人が入山したことに始まる。1172年(承安2)弘法大師の絵像を転写してはじめて御影供を修し,78年(治承2)には金堂を建立,同じ年建立された多宝塔を91年(建久2)修理して一山を掌握し,開山としての地位をゆるぎないものとした。また寺領を八条女院暲子内親王に寄進して祈願寺となり,90-92年にかけて国役・諸役の免除,殺生禁断の宣旨・院庁下文を得る。のち98年仁和寺北院の末寺となり,1234年(文暦1)九条道家が寺務職の争いを調停したことから寺領を寄進し九条家の祈禱所となる。八条院領は後に転々して大覚寺統(南朝)の所領となり,そうした由縁もあって1352年(正平7・文和1)光厳院,光明院,崇光院の3上皇が楠木正儀によってここに遷幸させられ,54年には文観僧正の弟子学頭禅恵のあっせんによって,後村上天皇は金剛寺食堂を行在(あんざい)所とする。古くから女人高野と称し,金剛寺文書のほか多くの国宝・重文を所蔵する。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「金剛寺」の意味・わかりやすい解説

金剛寺
こんごうじ

大阪府河内長野(かわちながの)市天野(あまの)町にある真言宗御室(おむろ)派の大本山。山号は天野山。新西国第7番霊場。聖武(しょうむ)天皇の御願(ごがん)により行基の草創。平安末期には一時荒廃したが、高野山(こうやさん)の阿観上人(あかんしょうにん)が後白河(ごしらかわ)法皇の厚い帰依(きえ)と庇護(ひご)によって堂塔を再興。また法皇の妹八条女院(藤原璋子(しょうし))の祈願所となってからは、いっさいの行事を高野山と同様にして、女性が弘法(こうぼう)大師(空海)に縁を結ぶ霊場としたため、爾来(じらい)、女人高野(にょにんこうや)と称されるようになった。南北朝時代には一時、塔頭摩尼院(まにいん)が後村上(ごむらかみ)天皇の行在所となり、天野行宮(あんぐう)、天野殿と称された。その後、歴朝の崇信、武門の帰依も厚く、豊臣(とよとみ)・徳川両家の保護を受け、諸堂の修復・再修がなされた。堂塔は多く、鐘楼、楼門、食堂(じきどう)、金堂、多宝塔、御影堂(みえどう)、観月亭、摩尼院は国の重要文化財である。寺宝には平安時代の剣、『延喜式(えんぎしき)神名帳』、『延喜式』(以上国宝)をはじめ、金堂安置の大日如来(にょらい)・不動明王・降三世(ごうざんぜ)明王の三尊像(伝運慶作)、および日月山水図屏風(びょうぶ)、五秘密曼荼羅(まんだら)、虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)像、尊勝曼荼羅図の仏画や、絵画、工芸、書蹟(しょせき)、古写経、古文書、記録などの国の重要文化財が数多く収蔵され、境内は国の史跡・名勝に指定されている。

[野村全宏]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「金剛寺」の意味・わかりやすい解説

金剛寺
こんごうじ

大阪府河内長野市にある真言宗御室派の寺。正平9=文和3 (1354) 年後村上天皇の行在所となったことから天野行宮として知られ,天野寺,女人高野ともいわれる。聖武天皇の勅願により行基が創建したと伝えられ,永万1 (1165) 年阿観が再興し,承安1 (71) 年後白河法皇により重興。平安時代の古写本『延喜式』のうち巻十二,十四,十六の3巻,『延喜式神名帳』巻九の1巻,阿観のものと伝えられる平安時代の剣を所蔵し,いずれも国宝に指定されている。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「金剛寺」の解説

金剛寺
こんごうじ

大阪府河内長野市天野町にある真言宗の寺。行基の創建。1165年(永万元)阿観(あかん)が霊夢により再興を後白河法皇に奏上し,80年(治承4)源貞弘の土地寄進により経済基盤が安定する。また八条院暲子(しょうし)内親王の祈願所となり,のち大覚寺統と縁を結ぶことになる。鎌倉末期,当寺の禅恵と弘真が後醍醐天皇・護良親王・楠木氏の尊信と保護をうけ,南朝と深く結びつき,後村上・長慶天皇の行宮(あんぐう)ともなる。境内は国史跡。「延喜式神名帳」「延喜式」(一部)は国宝。鎌倉時代の金堂,桃山時代の御影堂などは重文。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

世界大百科事典(旧版)内の金剛寺の言及

【清酒】より

…すなわち,まず蒸米,こうじ,水でつくった酒母に蒸米,こうじ,水の混合物を2度にわけて順次仕込んでもろみ(醪)を増量する二段仕込法が開発された。15世紀ころ名酒の名をうたわれていた天野酒は,現大阪府河内長野市の天野山金剛寺がつくっていた酒であるが,この技術を採用しており,おそらく酸味のおだやかな点が世にもてはやされたものであろう。15世紀末になると,3度にわけて仕込む三段仕込法が奈良興福寺の塔頭(たつちゆう)多聞院で行われ,さらに16世紀後期には同寺で酒の保存性をよくするための加熱殺菌法を行っている。…

※「金剛寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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