金(中国の王朝)(読み)きん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「金(中国の王朝)」の意味・わかりやすい解説

金(中国の王朝)
きん

中国の王朝(1115~1234)。いわゆる征服王朝の一つ。金王朝を建てた女真(じょしん)族は、女直(じょちょく)ともよばれ、渤海(ぼっかい)国時代には渤海の被支配民として、中国東北地区の松花江牡丹江(ぼたんこう)、黒竜江(アムール川)下流域沿海州(現沿海地方)に分布していたツングース系の民族である。926年、渤海国が遼(りょう)に滅ぼされると、その国の王族や貴族、豪族は遼陽やその南に移され、係遼籍(けいりょうせき)女真、熟(じゅく)女真などとよばれ、遼国の直接支配を受けた。しかし、そのほかの女真人は現住地で生活を営みながら遼の支配を受けた。彼らは生(せい)女真、生女直などとよばれた。金王朝を建設したのは生女直のなかの完顔(ワンヤン)といわれる一部族である。

[河内良弘]

金の建国

遼代における完顔(ワンヤン)部の生活圏は、黒竜江省ハルビン東方を流れる阿什河(アシホ)(金代には按出虎水(アルチュフすい)とよばれた)の流域で、その中心は阿城県付近であった。完顔部の祖先の世系を記した書は『金史』「世紀」で、その冒頭には始祖以来太祖に至るまで11代(8世代)の首長名が記されている。始祖、徳帝、安帝、献、昭祖、景祖、世祖、粛宗(しゅくそう)、穆宗(ぼくそう)、康宗、太祖がそれである。このうち、始祖以下昭祖に至る5代の人々の事績は歴史的事実ではなく空想的で、したがってその実在もあやしいとされている。第6代景祖の事績も歴史的事実とするには疑わしい点もあるが、このころから完顔部は有力な勢力になり始めたのであろう。そして第7代世祖劾里鉢(がいりはつ)、第8代粛宗頗剌淑(はらしゅく)の時代に、完顔部の勢力は松花江流域および牡丹江上流地方にまで拡大した。第9代穆宗盈歌(えいか)は豆満(とまん)(図們)江上流域に親征し、綏芬(すいふん)河、興凱(こうがい)湖地方にも遠征軍を送ったので、完顔部の支配圏は東北地区の東部全域に及んだ。このため遼は盈歌に生女直節度使の職を与えている。第10代康宗烏雅束(うがそく)は節度使の職を継いで完顔部の首長となり、朝鮮東北の咸興(かんこう)平野にまで勢力を伸ばし、その支配する地域は渤海国のそれに匹敵するほどになった。1113年、烏雅束が亡くなると、弟の阿骨打(アクダ)が都勃極烈(トボギレ)の地位につき首長となり、遼から節度使に任ぜられた。遼代には優勢でもなかった完顔部が大勢力にのし上がったのは砂金のためであろう。按出虎水とは女真語で黄金の川の意で、この川でとれる砂金は馬、真珠、貂(てん)皮などとともに、宋(そう)、遼、ウイグルと交易され、軍需物資の調達に役だったと察せられる。

 このころ遼では聖宗、興宗、道宗3代の黄金時代の後を受けた天祚(てんそ)帝の時代で、天祚帝は華美な中国の文物を愛し豪奢(ごうしゃ)な生活を送った。その奢侈(しゃし)を支えるため女真人への搾取も強化され、貢納督促のために派遣された遼の官吏の誅求(ちゅうきゅう)にも目に余るものがあったので、女真人は反感を募らせ民族主義的自覚に目覚め、対遼戦を決意した。

 阿骨打は1114年、遼の前線基地、寧江州を攻めて大勝し、開原、農安地方の熟女真や遼東地方の渤海人を招撫(しょうぶ)し、15年、皇帝の位につき、国を大金と号し、収国と年号をたてた。

[河内良弘]

金の制度

金の中央政府の行政組織は、政権発足以来幾度か改廃されたが、1121年以後、国政は諳班(アンバン)(大なる意)、国論忽魯(グルンフル)(総理)、国論阿買(アマイ)(第一)、国論昃(しょく)(第二)、国論移賚(イライ)(第三)および迭(テツ)(副)の6人の勃極烈(ボギレ)によって運営された。勃極烈制は、諮問、行政、司法などの機能を備えた金国最高の政務執行機関である。このうち国論忽魯勃極烈の撒改(さんかい)は、阿骨打とは国家を二分し、その一半を担うほどの豪族であり、国政は諸勃極烈全員の合議によって決する慣行が支配的であったから、皇帝も独裁的権力を振るうことはできなかった。建国前の女真各部の首長は、平時には孛菫(ボキン)、戦時には猛安(もうあん)(千戸長)あるいは謀克(ぼうこく)(里長)とよばれた。阿骨打はこの女真村落の古い軍事組織を再編成し、新しい時代の行政組織の単位として採用し、300戸を1謀克とし、10謀克軍で1猛安軍を組織した。猛安・謀克制は女真人のみならず、新しく治下に入った遼の住民に対しても実施された。猛安・謀克の上位の地方行政機関としては10の路が置かれ、都統、軍帥、世襲万戸などが統治した。

 太祖阿骨打は1123年没し、弟の呉乞買(ごこつばい)が即位して太宗となった。これより先、西夏と連絡していた遼の天祚帝は、25年金軍に捕らえられ遼国は滅亡した。同年、太祖の子宗望は河北方面から、撒改の子の宗翰(そうかん)は山西方面から宋に侵入し、1126年宋都開封を陥落させ、27年宋の皇帝徽宗(きそう)、欽宗(きんそう)や、皇族、官僚らは金の本土に連れ去られた。この事件を靖康の変という。新しく金国に帰属した華北を統治するため、1126年、尚書(しょうしょ)、門下(もんか)、中書(ちゅうしょ)の三省が設けられ、三省の運営に燕京(えんけい)(北京(ペキン))出身の漢人官僚が採用され、科挙も実施された。このように太宗時代には、女真人統治には勃極烈制度、漢人統治には三省制度というように二重の制度が共存したが、しかし金国は華北統治のため、初め楚(そ)国、そののち斉(せい)国という傀儡(かいらい)国を建てたので、二重体制は永続しなかった。金の左副元帥宗翰(そうかん)は華北の占領地のうち、河南、山東以南の地に斉国という国をつくり、もと済南府知事の劉予(りゅうよ)という者を皇帝とし、開封を都とした。しかし35年太宗が没し煕宗(きそう)が即位すると、宗翰は外地での行政権を剥奪(はくだつ)されて没落、37年死亡し、支持者を失った劉予も皇帝の座を降ろされ、斉国は廃止された。

[河内良弘]

中国的専制国家へ

煕宗の時代、金では強硬派が政権をとり、宋との間に戦いが起きた。宋の岳飛(がくひ)らはよく戦ったが、1142年、金を君、宋を臣とし、淮水(わいすい)と大散関を結ぶ線を国境として和議が結ばれた。このため金は淮水以北を直接統治することとなり、多数の女真人がその地に移住させられた。煕宗の時代には諸制度が中国式に改められた。官制では勃極烈制が廃止され、これにかわり尚書、門下、中書の三省が最高の政務執行機関として登場した。そしてこの三省を統領する役職として領三省事があった。領三省事にはそれまで勃極烈であった人が任命されている。煕宗の時代は女真の旧慣は払拭(ふっしょく)されておらず、金国が中国的専制国家に成長する過渡期であった。

 煕宗は治世の中ごろから精神に障害をきたし、人望を失っていた。海陵王は1149年煕宗を殺して帝位を奪った。そして宗室や重臣を殺し、門下省、中書省を廃止し、政務執行機関を尚書省のみとした。また地方行政組織も改変し、中央の官僚を節度使とし、路に派遣して長官とし、中央集権的専制国家を完成させた。また首都を上京会寧から燕京に移し、中都とした。海陵王は南宋を滅ぼして中国を統一しようとし、61年南征軍をおこしたが、南征の途中で世宗のクーデターが起き、不満をもつ部下に殺され、世宗の治世となった。

 世宗は渤海の貴族や豪族の支持を受け、遼陽で即位し、1162年燕京に遷都し、契丹(きったん)の反乱を鎮定し、宋と和議を結んだ。世宗は女真の伝統文化の維持に努め、64年女真文字により漢籍を翻訳し、71年女真進士科を設け、女真語により試験をして女真進士を登用し、京師や地方に女真語による学校を設けた。また華北に移住した猛安・謀克戸が貧窮していたので、80年土地調査を行い、女真人に土地を再分配したが一時的効果しかなかった。

 世宗の後を継いだ章宗は金の皇帝中随一の文化人で、豪奢(ごうしゃ)な生活にふけった。官庁の経費も膨張し、そのうえモンゴル系遊牧民の侵入を防ぐため界壕(かいごう)を築くなど、内外の莫大(ばくだい)な出費のため財政が窮迫した。こうした金の国情に乗じ宋は金に出兵したが、宋も財政難から戦闘が継続できなくなり、1207年和議が結ばれた。

 1211年以後チンギス・ハンは金国に進撃し、中都(北京)を占領し、河北・山東地方を攻略した。金は河北を放棄し、兵を河南に移動させた。金は17年宋と戦(いくさ)を始め、またチンギス・ハンの没後、ハン位を継いだオゴタイは32年開封を囲んだ。金の哀宗は帰徳へ逃げ、ついで蔡(さい)州へ逃げたが、この地でモンゴルと宋の連合軍に攻められ、34年哀宗が自殺し、金国は9代120年で滅びた。

[河内良弘]

『外山軍治著『金朝史研究』(1979・同朋舎)』『三上次男著『金史研究』全3冊(1970~73・中央公論美術出版)』『河内良弘著「金王朝の成立とその国家構造」(『岩波講座 世界歴史9 中世3』所収・1970・岩波書店)』


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