日本大百科全書(ニッポニカ) 「量子力学」の意味・わかりやすい解説
量子力学
りょうしりきがく
quantum mechanics
原子、分子や光などの現象を理解するため、ニュートンの運動法則やマクスウェルの電磁法則などの古典論にかわる新しい運動法則がみいだされ、一つの力学の体系となった。これが量子力学である。
量子力学では古典論と比べて運動状態や物理量の扱い方がまったく異なっている。量子力学における運動状態を量子的状態という。その結果、われわれが日常経験して疑いえないと思われてきた考え方の多くが、原子などの領域でそのままでは成り立たないことが明らかになってきた。微視的という用語は、一般に古典力学あるいは量子力学に従って運動する粒子の集団の状態を個々の粒子の状態にまで立ち入って論ずる場合に用いられるが、この場合、原子、分子や素粒子などの現象が量子力学的に進行することを強調して用いることが多い。微視的に対して巨視的という用語は、個々の粒子の運動に立ち入らずこれら莫大(ばくだい)な数の粒子の集団全体の物理的特徴に注目するとき用いる。この場合、粒子集団の運動は古典的となる。また、量子力学的運動を強調して微視的という用語を用いることが多い。これらの事情のため巨視的という用語は古典論的という意味合いをもっている。微視的をミクロスコピック、巨視的をマクロスコピックという。
[田中 一]
量子力学の誕生
量子力学的法則の認識は1900年のプランクの放射公式に始まるといってよい。この法則の意味をアインシュタインが分析し、この公式が光に波動性と粒子性の二つを同時に付与したことになっていることを示すとともに、光のエネルギー量子、すなわち光量子仮説を提唱した。1913年ボーアは、古典力学を用いて得られる水素原子の電子軌道のうち現実に軌道として可能なものを選択する条件すなわち量子条件と、光放出の新しいメカニズムを導入した。
ハイゼンベルクは1925年ボーアの理論を出発点としてこれを新しい力学につくりかえ、ここに量子力学が誕生した。これとは別に1923年ド・ブローイは電子もまた波動性をもつべきことを予見した。これを一般化して1926年シュレーディンガーが任意のポテンシャルの作用を受けた粒子の波動方程式をみいだした。やがてこの方程式がハイゼンベルクの提起した運動方程式と同等であることが示されて、量子力学の基礎が確立した。
その後今日まで、原子の安定性、原子的見方に基づく物質の性質、原子核、素粒子および宇宙線の現象が量子力学に基づいて研究されてきた。一方、電磁場や中間子場などの場を対象とする量子場、すなわち場の量子論が展開されたが、光の放出・吸収など場に関するさまざまな方程式の解に発散が生ずるなどの困難な問題が現れた。このため量子力学を超える次の理論の試みもしばしば提起された。しかしながら、量子力学の適用の限界を端的に示す事実は現在みいだされていない。
[田中 一]
量子力学の骨組み
水素原子内電子(以下、電子という)は中心の陽子からe2/r2(eは単位電荷、rは電子と陽子間の距離)の引力の作用を受け、その結果-e2/rのポテンシャルエネルギーをもつ。運動エネルギーはp2/2m=(px2+py2+pz2)/2m(mは電子の質量、pxなどはxなどの方向の電子の運動量)であるから、その全エネルギーはp2/2m-e2/rとなる。量子力学ではすべての物理量にそれぞれ演算子が対応している。x方向の運動量の演算子は、-iħ(∂/∂x)(ħはプランク定数hの2π分の1)であって、この結果電子のエネルギーの演算子Hは
となる。ある定まったエネルギーをもつ電子の量子的状態はH∅(x,y,z)=E∅(x,y,z)という偏微分方程式の解で表される。これがシュレーディンガーの波動方程式である。関数∅を状態関数または波動関数という。この方程式は電子のエネルギーが一定であるという古典力学の関係
に対応している。
この偏微分方程式を解く場合、状態関数にさまざまな条件を与える。これらの条件は、電子が遠方にまで広がっていないなどの物理的条件に対応するもので、この結果シュレーディンガー方程式の解は常数の位相因子を除いて一義的に決まるが、E<0の解が存在するのはある特定のEの値の場合のみとなる。数学的にいえば、先のシュレーディンガー方程式はエネルギー演算子Hの固有方程式で、関数∅は固有関数、Eは固有値である。∅で表された状態はHの固有状態である。 はこうして求めた水素原子のエネルギー値を示す。
同じように量子力学の角運動量は古典力学の角運動量x=ypz-zpyなどの運動量pxなどを微分演算子-iħ(∂/∂x)などで置き換えて得られる( 参照)。こうして得られた演算子
xなどの2乗の和
2は角運動量という物理量の大きさの2乗の演算子である。したがって水素原子の場合に限らず角運動量の大きさλの2乗とその状態関数∅は固有値方程式
2∅=λ2∅から決まる。∅は特定の角運動量の大きさλをもつ量子的状態を表す。
粒子はつねに定まった角運動量を有しているとは限らない。水素原子の場合、電子は定まったエネルギーをもつとともに定まった角運動量を有している。このことが可能であるのは、エネルギー演算子Hと角運動量の大きさの2乗の演算子との間に交換可能という特別の関係H
=
Hが成り立つからで、この関係を可換という。2個の演算子A、Bが共通の固有関数χすなわちAχ=aχ,Bχ=bχをもつための必要十分な条件はAとBとが可換なことである。
水素原子内の電子は定まった運動量を有する状態すなわち運動量の固有状態ではない。実際、電子の運動量の演算子-iħ(∂/∂x)などは先ほどのエネルギー演算子Hと交換可能ではない。それではこの場合、電子の運動量はどうなっているのであろうか。運動量の固有関数は-iħ(∂/∂x)∅=px'∅などを満たす。ここでpx'はx方向の運動量の固有値である。この微分方程式は容易に解くことができ、固有関数は波長2πħ/px'の平面波∅px'を表す関数となる。ところで、エネルギーEをもつ電子の状態関数を、運動量の固有関数の重ね合わせで表すことができる。重ね合わせの係数すなわち重みをa(p)とすれば
となる。ここでは積分の代わりにΣで表している。このとき電子は運動量pを|a(p)|2の確率で有している。同様に、状態関数(x,y,z)は電子が点(x,y,z)にある状態関数すなわち位置の固有状態の重ね合わせの係数とも考えられるので、電子は点(x,y,z)に|
(x,y,z)|2の確率で存在することになる。
[田中 一]
量子力学の構成
以上の例にみられた量子力学の原理を以下に列挙しておく。
(1)状態関数1・
2を重ね合わせた
=c1
1+c2
2もまた量子的状態を表す状態関数である。
(2)量子的状態はχの物理的性質を
の割合で有している。
(3)物理量は演算子の形をとる。この物理量をオブザーバブルという。オブザーバブルは古典論の物理量の運動量pxなどを-iħ(∂/∂x)などで置き換えて得られる。物理量のとる値はオブザーバブルの固有値のみである。
(4)量子的状態はiħ(∂/∂t)=H
に従って時間的に変化する。ここでHはエネルギー演算子で、この方程式もシュレーディンガー方程式という。
運動量pxが微分演算子とすれば、位置xとの間に交換関係xpx-pxx=iħすなわちxpx∅(x)-pxx∅(x)=iħ∅(x)という関係が成り立つ。位置と運動量は特別な関係にある一組の物理量であって、この物理量を用いてニュートンの運動法則を書き換えると、質量すなわち粒子の属性が現れない。位置xと運動量pxのかわりにそれぞれ-pxとxとを用いても同様のことがいえるので、この両者の関係は共役(きょうやく)であることがわかる。この関係を正準共役という。一般に正準共役の関係にある物理量のオブザーバブルA、Bの間にはAB-BA=iħの関係が成り立つ。
状態関数のかわりに演算子が時間的に変化すると考えてシュレーディンガー方程式を書き換え、まったく同じ確率分布を得るようにすることができる。この場合、演算子を行列として表現することが多い。こうして得られた力学の形式を行列力学という。ハイゼンベルクが1925年にみいだしたのは、正準共役な物理量の間の交換関係の行列表現である。
シュレーディンガー方程式を数学的に解くことが困難なため、変分法、ハートリー‐フォックの方法、WKB法、摂動論などさまざまな近似法が用いられる。WKB法は状態関数をプランク定数のべき級数(整級数)展開で求める方法である。
[田中 一]
量子力学運動の特徴
は、電子が水素原子内でとる位置の確率を示している。注意すべきことは、図Bは、電子が瞬間瞬間特定の位置にあってある有限時間にとる電子の位置の全部を図示したもの、すなわち古典統計的な分布を示したものではないということである。この場合、電子は同時に各位置にそれぞれ異なる確率で存在している。運動量についても同様である( )。
位置と運動量のオブザーバブルは互いに交換可能ではない。したがって、ある特定の位置を有し、かつ同時にある特定の運動量をもつ量子的状態は存在しない。このことは、古典力学の粒子の状態が位置と運動量とを同時に与えることによって定まるのと比べてきわめて対照的である。一般に粒子はある範囲Δxの位置に同時にあり、かつ、ある範囲Δpxの運動量の値を同時にとる。この場合ΔxとΔpxとの間には不確定性関係ΔxΔpx≧ħ/2が成り立つ。位置の固有状態では位置が定まっているのでΔxは0である。したがってΔpxは∞となり運動量はまったく不確定となる。この不確定性関係は正準共役な二つの物理量の間につねに成り立つ。この不確定性関係は正準関係にある物理量の交換関係から導き出されるものであり、この意味で客観的なものであって、主観の関与によって成り立つものではない。この不確定性関係を粒子の実際の位置の測定に即して示したものがハイゼンベルクのγ(ガンマ)線顕微鏡である(
)。また の水素原子の状態の位置と の運動量分布を一つにまとめると、分布が有限な広がりをもつことがわかる。これは不確定性関係を示す。一般に対象の測定観測データから対象の状態をみいだす過程の理論を観測の理論という。量子的状態の場合、測定観測装置が古典論の法則に従いながら対象が量子的状態にあるため、この対応にさまざまな問題が生じる。この問題についてアインシュタインとボーアの間で物理的実在に関する論争が行われた。シュレーディンガーのネコ( )はこの種の問題の一例であって、主観の客観に対する作用として哲学の論争の材料ともなった。
量子的状態では状態関数の重ね合わせが可能であり、古典的状態は正準共役の物理量の値の組で表現しうるものである。したがって、測定観測過程のどの段階でどのような条件のもとにこの移行が行われたかを、量子力学的過程の結果として示すことが観測の理論の内容であるが、現在まだ十分な解決をみていない。先ほどのネコの例(速度で行えることが理論的に示されている。このほか、電子あるいは光量子1個の変化による情報処理が構想されている。これらの分野を量子情報とよんでいるが、量子状態を土台とする技術として今後の展開が期待されている。
)でいえば、放射線を受けて毒瓶が壊れるという客観的過程によってネコの状態は生と死の状態関数の重ね合わせから、いずれか一方に量子力学的に変化したのであって、この変化は主観に基づくものではない。1990年代になって注目されている量子コンピュータは、情報が重ね合わせ可能であるとして情報変換を行うもので、特定の演算においては現在のスーパーコンピュータよりもはるかに大きな演算[田中 一・加藤幾芳]
『天野清著『量子力学史』(1973・中央公論社)』▽『中嶋貞雄著『量子の世界』新版(1975・東京大学出版会)』▽『田中一著『量子の素顔』(1976・大月書店・国民文庫)』▽『町田茂著『基礎量子力学』(1990・丸善)』▽『田中一著『動画付き量子力学』(1991・近代科学社)』▽『原康夫著『岩波基礎物理シリーズ5 量子力学』(1994・岩波書店)』▽『青木亮三著『わかりやすい量子力学』(1994・共立出版)』▽『朝永振一郎著『量子力学2』第2版(1997・みすず書房)』▽『戸田盛和著『量子力学30講』(1999・朝倉書店)』▽『新井朝雄・江沢洋著『量子力学の数学的構造1、2』(1999・朝倉書店)』▽『『朝永振一郎著作集8 量子力学的世界像』(2001・みすず書房)』▽『小出昭一郎・阿部龍蔵監修、江沢洋著『量子力学』全2冊(2002・裳華房)』▽『大高一雄著『基礎量子力学』(2002・丸善)』▽『亀淵迪・表実著『量子力学特論』(2003・朝倉書店)』▽『J・シュウィンガー著、B・G・エングラート編、清水清孝・日向裕訳『シュウィンガー量子力学』(2003・シュプリンガー・フェアラーク東京)』▽『高田健次郎著『わかりやすい量子力学入門――原子の世界の謎を解く』(2003・丸善)』▽『ポール・エードリアン・モリス・ディラック著、朝永振一郎訳『量子力学』(2004・岩波書店)』▽『朝永振一郎著『量子力学と私』(岩波文庫)』
古典力学の物理量と量子力学のオブザーバ…
水素原子のエネルギー準位〔図A〕
水素原子内電子の位置座標分布〔図B〕
水素原子内の運動量の分布〔図C〕
γ線顕微鏡の原理〔図D〕
シュレーディンガーのネコ〔図E〕