野郎歌舞伎(読み)やろうかぶき

精選版 日本国語大辞典 「野郎歌舞伎」の意味・読み・例文・類語

やろう‐かぶき ヤラウ‥【野郎歌舞伎】

〘名〙 初期歌舞伎芝居の一形態。女歌舞伎若衆歌舞伎風俗を乱すとして禁止された後、若衆姿の前髪を剃った野郎あたまの役者が演じた歌舞伎。
評判記赤烏帽子(1663)後序「万治四年之春、於洛陽彌郎衡(ヤロウカブキ)甚盛之間、京中之貴賤忘其身奢移超過矣」

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デジタル大辞泉 「野郎歌舞伎」の意味・読み・例文・類語

やろう‐かぶき〔ヤラウ‐〕【野郎歌舞伎】

初期歌舞伎の形態の一。承応元年(1652)若衆歌舞伎が禁止されたあと、前髪をそった野郎頭の役者によって演じられた歌舞伎。

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改訂新版 世界大百科事典 「野郎歌舞伎」の意味・わかりやすい解説

野郎歌舞伎 (やろうかぶき)

若衆歌舞伎の禁令以後,前髪を剃って,野郎頭(やろうあたま)となった男たちの歌舞伎,という意味で,1652年(承応1)ころから,いわゆる元禄歌舞伎時代まで二十数年間をふつうに野郎歌舞伎時代と呼ぶ。若衆歌舞伎の少年の前髪を剃り落とされたので,以後は成人男子の役者による,〈物真似狂言尽ものまねきようげんづくし)〉として歌舞伎の再興を願い出て,許可されたと伝えるが,その事情も時期も,江戸と京坂では違いがあるようで,正確なところはまだ明らかにされていない。また,いつまでを野郎歌舞伎時代と称すべきかも,明確にはされていない。男色の対象としての若衆は,この時期も実際は存在していたし,観客の興味の大部分がその方にあったが,この間に歌舞伎が少しずつ技芸へ向けて歩を進めたのは事実である。女方が確立し,その女方を,遊里の太夫に仕立てての傾城買狂言がもてはやされ,その中から大尽役の立役,遣り手や茶屋の女主(あるじ)の花車(かしや)方,茶屋の主人の道化などの役柄が分化してきた。この傾城買狂言は〈島原(狂言)〉と呼ばれて,明暦・万治(1655-61)ころの歌舞伎の代名詞にまでなるが,再三の禁止を受ける。この禁令によって,歌舞伎は,能,狂言や浄瑠璃などから筋立てを借りて,台本の領域を少しずつ広げていくことにもなるのである。また,傾城買い以外の当世風俗をもとり込んで寸劇に仕立て,歌舞伎の現代性が強められていった。この時期に,続狂言と呼ばれる二番,三番続きの狂言も作られ,元禄(1688-1704)の黄金時代への準備が整っていく。女方の鬘(かつら)が工夫され,引幕が考案されたのもこの時期とされるが,正確な年代はまだ明らかにされていない。この時期はまだ,若衆から女方に転じ,年齢とともに花車方に移るといった年齢による役柄の変化が常であったが,やがて玉川千之丞のように,40歳を越しても振袖を着て若女方の役を演じるという,技芸によって役柄を維持する役者も現れ始める。伊藤小太夫,玉村吉弥,滝井山三郎などの若衆,女方の名が高く,遊女評判記の形式にならった野郎評判記が出版されたのもこの時期である。現存する最も古い評判記は,1660年(万治3)版の《野郎虫(やろうむし)》であるが,この時代の評判記は,出勤している座と,抱主の名と野郎の名を記し,容色を評しただけのもので,技芸の評には及んでいない。やがて野郎の姿絵を描いて,現在のブロマイドを兼ねるような形のものも出版されるようになる。

 明暦の大火(1657)以後,江戸の芝居町木挽町と堺町とに定められ,京では69年(寛文9)に村山又兵衛,都万太夫以下6名に芝居の名代としての認可が下りたと伝えられ,興行形態もこの時期にほぼ方向が定められた。73年(延宝1)に江戸で初世市川団十郎が初舞台を踏んだと伝えるが,このころまでを一応野郎歌舞伎時代と考えてよいと思われる。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「野郎歌舞伎」の意味・わかりやすい解説

野郎歌舞伎
やろうかぶき

初期歌舞伎における一時期の名称。1652年(承応1)に、風俗が乱れるとの理由で若衆(わかしゅ)歌舞伎が禁止されるが、役者の前髪を剃(そ)り落として野郎頭にすることと、「物真似(ものまね)狂言尽し」を演ずることを条件として、翌年再開を許された。これ以後、元禄(げんろく)時代(1688~1704)に入る前までを野郎歌舞伎(時代)とよぶ。すなわち、容色を売る若衆の扇情的な舞や踊ではなく、野郎が演ずる物真似芝居だという意味の命名であった。1661~87年(寛文1~貞享4)のころを全盛期とする。この時期は、歌舞伎が本格的な演劇としての道を歩き始める重要なときにあたり、内容は飛躍的な進歩を示した。女方(おんながた)の基礎がつくられたほか、各種の役柄が形成され、「傾城買事(けいせいかいごと)」「やつし事」「荒事(あらごと)」「意見事」というように「事」とよんだ多くの演技パターンがつくりだされ、演技術が著しく進歩した。舞台に大道具を飾り、二番続き、三番続きといった「続き狂言」を上演し、やがて引幕(ひきまく)も使用するようになった。一方、「役者評判記」が出版され、俳優の技芸の批評が行われるようになるなど、あらゆる面で、次なる元禄年間の第一次完成期を準備した時代といってよい。

[服部幸雄]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「野郎歌舞伎」の意味・わかりやすい解説

野郎歌舞伎
やろうかぶき

若衆歌舞伎が禁じられた翌年の承応2 (1653) 年,若衆の前髪を剃り落して野郎頭とし,「物真似狂言尽し」をもっぱらに演じる名目で許された歌舞伎をさす。これ以後,寛文年間 (61~73) 頃までを野郎歌舞伎時代という。容色本位の歌舞中心であった歌舞伎が狂言化し,ようやく演劇としての形を整えてきた時期である。女方が成立し,茶屋遊び (遊里通い) を主とした風俗描写劇や,能,狂言,浄瑠璃などから材を得た芝居を中心に,物まね,弁舌術などが演じられ,元禄歌舞伎の基礎を築いた。小舞,拍子舞などの舞踊脈も豊かになり,引き幕も考案され,続き狂言 (多幕物) も発生した。女方の祖といわれる右近源左衛門や玉川千之丞などが人気があった。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「野郎歌舞伎」の解説

野郎歌舞伎
やろうかぶき

1652年(承応元)若衆歌舞伎が禁止され,翌年,赦免の条件として若衆が前髪を剃り落とした野郎頭で舞台へあがった。それ以降,元禄歌舞伎の時代となる貞享頃までの歌舞伎をいう。特色としては,能狂言の摂取,傾城買(けいせいかい)狂言・衆道(しゅどう)狂言の発達,役柄の分化などがあげられる。俳優は依然として売色の対象であったが,演じられる内容はしだいに容色本位から内容本位に移行せざるをえなくなり,元禄歌舞伎の戯曲的発展を準備した。

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百科事典マイペディア 「野郎歌舞伎」の意味・わかりやすい解説

野郎歌舞伎【やろうかぶき】

歌舞伎の一形態。1652年に若衆歌舞伎が禁止されたのち,若衆の前髪をそった野郎頭の役者を使う条件で許可された歌舞伎。以後,歌舞伎は容色本位から技芸本位に移り,演劇として進歩した。
→関連項目歌舞伎

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旺文社日本史事典 三訂版 「野郎歌舞伎」の解説

野郎歌舞伎
やろうかぶき

江戸前期,若衆歌舞伎から代わった歌舞伎
1652年若衆歌舞伎が禁止されたが,嘆願により,前髪を切った野郎頭(成人の髪型)を条件に翌年許可された。以後元禄(1688〜1704)の隆盛までの約30年間を一般に野郎歌舞伎の時代という。役者の容色中心から演技本位となり,また女形 (おやま) も発生した。

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世界大百科事典(旧版)内の野郎歌舞伎の言及

【歌舞伎】より

… そこで,若衆の象徴である前髪を剃り落として野郎頭になること,扇情的な舞や踊りでなく〈物真似狂言尽〉を演ずることの2条件を受け入れて,53年再開を許された。これ以後を〈野郎歌舞伎〉と称する。野郎歌舞伎時代,歌舞伎は演劇への道を自覚的に歩みはじめる。…

※「野郎歌舞伎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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