野尻庄・野尻保(読み)のじりのしよう・のじりほ

日本歴史地名大系 「野尻庄・野尻保」の解説

野尻庄・野尻保
のじりのしよう・のじりほ

小矢部おやべ川に注ぐ旧庄川の分流野尻川流域に比定され、現福野町野尻を遺称地とする。野尻は石黒党武家とみられる野尻氏の名字の地とされ、南北朝期に野尻庄として登場し、室町後期に野尻保とみえる。「源平盛衰記」巻二九(平家礪並志雄二手事)に、寿永二年(一一八三)五月越中入りした木曾義仲方に従った越中勢として礪波郡の野尻・河上石黒新川にいかわ郡の宮崎の各氏らがあげられている。承久の乱では野尻氏・河上氏・石黒氏は京都方にくみした(承久記)。そのため乱後に所職は召上げられ、その跡は北陸道将軍北条朝時方として従軍したとみられる相模国御家人波多野時光に恩賞として給されたようで、秀郷流系図(続群書類従)の松田氏の項によれば、時光は野尻氏を称している。またその兄弟宣時は河尻氏、宣時と宮道式泰の娘との間に生れた式宣は天田氏を称し、さらに宣時の娘は加賀の富樫介泰村に嫁いでおり、波多野一族は礪波郡一帯に入部している。

時光の子重通は六波羅探題の評定衆頭人となっており、時宗の浄阿真観を招いて延慶二年(一三〇九)に京都四条道場金蓮こんれん(現京都市中京区)を創建しているが、それ以前に浄阿は野尻に来錫し、地頭波多野重通との関係が結ばれたようである(「浄阿上人縁起」水戸彰考館蔵)。一方、野尻には日蓮衆徒も入り込んでおり、浄阿の布教活動を妨害したという。なお時衆過去帳(清浄光寺蔵)には、応永四年(一三九七)とみられる六月六日に往生した泰阿弥陀仏に「野尻慈父」と注記されるなど、野尻の名が散見する。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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