野中金右衛門(読み)のなか・きんえもん

朝日日本歴史人物事典 「野中金右衛門」の解説

野中金右衛門

没年弘化3.閏5.6(1846.6.29)
生年:明和5(1768)
江戸中・後期,日向国(宮崎県)飫肥藩士。諱は信宜。城下板敷村(日南市)に生まれ,寛政8(1796)年から50年にわたって植木方として指導に当たり,植林の推進,杉苗の品種改良に尽くした。飫肥藩での財政上の植林の始期は元和9(1623)年とされ,次いで宝暦・天明年間(1751~89)の植林があり,寛政1(1789)年には,石那田実右衛門が,天明飢饉の際の藩の救済に報いるとして,5年がかりで10万本の苗木を植えて,藩主に献上している。このような業績に沿って,金右衛門の植林指導も行われた。文政7,8(1824,25)年の藩をあげての一大植林では,8年のものだけでも3カ所,挿杉40万本におよんだ。生年については宝暦11(1761)年説もある。<参考文献>浅野茂夫他『飫肥杉歴史』,塩谷勉他『飫肥林業発達史』

(永井哲雄)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「野中金右衛門」の意味・わかりやすい解説

野中金右衛門
のなかきんえもん
(1767―1846)

日向(ひゅうが)(宮崎県)飫肥(おび)藩士。飫肥藩10代藩主伊東祐鐘(すけあつ)は、1796年(寛政8)以降、藩財政再建のために杉山造林政策を打ち出し、金右衛門は「杉方役」として、杉植栽場「大木場(おおきば)」の開発拡張を積極的に推進した。以後造船用弁甲(べんこう)材として「飫肥杉」の名は大いに高まった。その功により、在職中は300石を加増され、1845年(弘化2)職を辞したあとも隠居扶持(ふち)1石を給された。

[上原兼善]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「野中金右衛門」の解説

野中金右衛門 のなか-きんえもん

1768-1846 江戸時代後期の武士
明和5年生まれ。日向(ひゅうが)(宮崎県)飫肥(おび)藩士。植木方として約半世紀の間,杉の植林と育成につとめ,後年飫肥杉として有名となる基をきずいた。弘化(こうか)3年閏(うるう)5月6日死去。79歳。名は信宜。

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