野中至(読み)のなかいたる

日本大百科全書(ニッポニカ) 「野中至」の意味・わかりやすい解説

野中至
のなかいたる
(1867―1955)

気象観測者。日本の高山気象観測の先駆者の一人。福岡の生まれ。初め医学を志したが、日清(にっしん)戦争後の国民士気煥発(かんぱつ)の時期にあたり、医学を捨てて富士山頂で越年気象観測をし、時代の花形になろうと考えた。1895年(明治28)夏、私財をもって夫人千代子(1871―1923)とともに富士山頂に観測所を建て、同年10月から12月まで観測した。しかし病に倒れ、越年することはできなかった。その業績は、落合直文によって実録小説『高嶺(たかね)の雪』(1896)に書かれ、その後も橋本英吉の『富士山頂』(1948)、新田次郎の『芙蓉(ふよう)の人』(1971)に書かれている。

根本順吉

『野中至・野中千代子著、大森久雄編『富士案内/芙蓉日記』(2006・平凡社)』『新田次郎著『芙蓉の人』(文春文庫)』

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朝日日本歴史人物事典 「野中至」の解説

野中至

没年:昭和30.2.28(1955)
生年:慶応3.8.22(1867.9.19)
明治から昭和期の高層気象観測家。筑前国(福岡県)早良郡鳥飼村で黒田藩士野中勝良の長男として生まれる。戸籍名は到。大学予備門在学中に富士山頂越冬気象観測を計画して中退。明治28(1895)年2月16日偵察を兼ねて冬季初登頂を果たす。同年8月山頂に6坪(約20m2)の木造小屋を建て,10月1日から12月22日の下山までの83日間,わが国初の高層気象観測を行った。10月中旬千代子夫人も参加。高山病と栄養失調で歩行不能になった至は,膝に草履をつけ,はい回りながら頑張る。これが牧野伸顕文部大輔の耳に入り,中央気象台の和田雄治技師らの救援隊にかつぎおろされた。下山中,猛吹雪の8合目で人事不省に陥り,危うく命を失うところだった。この大冒険は評判をよび,小説や劇になった。その後も絶えず登山し,コツコツと観測を続けた。気象庁刊『気象百年史』は「篤志観測者」として扱い「測器を貸与し,観測を委嘱した」とあっさり記しているが,その事業は,のちに中央気象台に引き継がれた。現在の富士山頂測候所の生みの親といえよう。著書『富士案内』は辛苦の山頂生活と冬季登頂を生々しく描いている。

(武田文男)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「野中至」の解説

野中至 のなか-いたる

1867-1955 明治-昭和時代前期の気象観測者。
慶応3年8月生まれ。富士山頂越冬気象観測を計画し,明治28年山頂に私設観測所を建設。10月1日入山,あとから参加した妻の千代子とともに観測をつづけたが病にたおれ,12月22日下山した。その事績は落合直文「高嶺の雪」,新田次郎「芙蓉(ふよう)の人」などに作品化された。昭和30年2月28日死去。87歳。筑前(ちくぜん)(福岡県)出身。大学予備門中退。本名は到。

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