重農主義(読み)じゅうのうしゅぎ(英語表記)physiocracy
physiocratie[フランス]

精選版 日本国語大辞典 「重農主義」の意味・読み・例文・類語

じゅうのう‐しゅぎ ヂュウノウ‥【重農主義】

〘名〙 (physiocratie, physiocracy の訳語) 一八世紀中期から後半にかけてフランスケネーチュルゴーらの唱えた農業重視の経済政策。重商主義に反対し、土地を富の源泉とみなして農業生産を重視し、そのための投資の助成、耕作の自由、税制の改革、特に流通の自由と拡大を主張した。商工業に関しては自由放任主義を唱える。農業生産について資本主義生産の本質を明らかにし、社会的総資本の再生産と流通の過程を把握した点で、後世の経済学に影響を与えた。フィジオクラシー。〔や、此は便利だ(1914)〕

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デジタル大辞泉 「重農主義」の意味・読み・例文・類語

じゅうのう‐しゅぎ〔ヂユウノウ‐〕【重農主義】

18世紀後半、フランスのケネーなどの経済学者によって主張された経済思想および経済理論とそれに基づく政策。重商主義に反対し、国家の富の源泉は農業生産だけから生じるとした。フィジオクラシー。

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改訂新版 世界大百科事典 「重農主義」の意味・わかりやすい解説

重農主義 (じゅうのうしゅぎ)
physiocracy
physiocratie[フランス]

18世紀の後半,フランス絶対王政は,特権的独占商人や奢侈品(しやしひん)工業の保護育成を中心とするフランス型重商主義政策(コルベルティスムcolbertisme)や,金融政策を中心とする商業主義(ジョン・ローの体制)によって,経済的にも財政的にも破綻(はたん)に瀕(ひん)し,体制的危機に直面した。その再建策として大農経営の発展を提唱したF.ケネーを創始者とし,その自然法思想や政策的主張や経済学説を祖述し発展させたV.R.ミラボーミラボー侯),P.S.デュポン・ド・ヌムール,メルシエ・ド・ラ・リビエール,A.N.ボードー(ボードー師),G.F.ル・トローヌ,A.R.チュルゴなどを代表者とする一団の経済学者に共通する経済思想・政策的主張・理論体系を一括して示す名称。重農思想の先駆者としてはケネーよりも前に,17世紀から18世紀初めにかけて活躍したP.Le P.ボアギュベール,J.ボーダン,R.カンティヨンなどをあげることができるが,ケネーは単なる農業重視ではなく,資本制的大農経営を重視した点で決定的に異なっている。

 重農主義は本来フィジオクラシーと呼ばれる。この名称はデュポン・ド・ヌムールがケネーの著作集を編集してこれに《Physiocratie》(1767)の名称をつけたからであり,それが一般化したのは,おそらく19世紀中葉にL.F.E.デールが重農学派の主要著作を2巻本に編集し,この名称をつけてから以後である。重農主義者(フィジオクラットphysiocrates)たちは,自分たちをエコノミストéconomistesと呼んでいた。それが重農主義agricultural systemと呼ばれるようになったのは,A.スミスが《国富論》でそう呼んだことによるものと思われる。

フィジオクラシーとは,もともと〈自然の統治〉を意味する語で,重農学派は王権を合法的に制限する合法的専制主義を最良の政体と考え,当時のルイ王朝を是認しながら自然的秩序による開明的社会を実現しようとした。そのため政策的には,とりわけ経済上の自由放任主義と地代に対する単一課税とを提唱した。自由放任主義の提唱は,重商主義的な国家的干渉や独占の排除によってはじめて〈取引される富〉,とくに農産物にはその正常な再生産を可能にする〈良価bon prix〉が保証され,その結果,一面では地主階級の収得する地代が増加し,他面では農業資本の増加による農業生産性の上昇が可能になる,という理解を基礎としていた。また地代に対する単一課税論は,恣意(しい)的な租税負担を廃止して,課税対象を農業でだけ生みだされる剰余価値つまり〈純生産物produit net〉に限定すべきだと主張し,農業資本ひいては社会的総資本の再生産の縮小を回避することを意図したものである。その理論的根拠は,地主の地代収入となる純生産物だけが,再生産にとって直接必要のない自由処分の可能性をもつという理解にあった。これらの政策的主張を前提にし,重農学派とりわけケネーは,資本制的大農経営を基礎とする社会構造を政治算術的方法によって実証的に分析し,それを自然的秩序として描き出そうとした。その経済学体系は,社会の構成を地主階級,生産階級である農業者階級,不生産階級である商工業者階級に三分し,農業だけが剰余価値つまり〈純生産物〉を生みだし,それが地主階級に地代として支払われるという構想のもとに,〈経済表〉(1758)として総括的に示された。

こうした分析は,まず第1にアンシャン・レジーム期のフランスの社会構造を対象に,その経済循環を独自な規則的秩序をもったものとして,全体として把握したものである。これは経済学の歴史上,社会的総資本の再生産と流通とを商品資本の循環として解明するための起点として,不朽の業績をなす〈天才的な着想〉(K.マルクス)であった。第2にそれは,剰余価値を流通部面における〈譲渡に基づく利潤〉に求める重商主義的見解を退け,その創出の場を生産部面に求めたのであって,この点では経済学の研究を流通部面から生産部面へ転換させることになり,資本主義的生産を分析するための基礎を確立したといえる。だがその反面,重農主義者が土地を富の唯一の源泉と考え,〈純生産物〉を〈自然の贈りもの〉と考える見解に固執するかぎりでは,彼らは剰余価値つまり〈純生産物〉を資本と労働との社会的関係からではなく,封建的に土地(自然)との関係から引き出すことになり,したがって剰余の地主への帰属はその封建的な土地所有関係に由来するものと考えた。また,その理解とは違って重農主義者が〈純生産物〉を生産階級の年前払い(資本)との関係でとらえ,実質的には耕作者の剰余とすることによって,土地を富の唯一の源泉とする重農主義的な封建的外観を解消させるとしても,重農学派は,まだ商品の交換価値を労働時間そのものとして把握することができなかった。そのため,結局その剰余を,耕作者が彼らの年々消費する使用価値としての生活手段量の最低限(労賃部分)を超えて土地所有者のために生みだす使用価値の超過分としてとらえることしかできなかった。それゆえ,この超過分つまり〈純生産物〉を地代として収得する地主階級が,年々の再生産の指導権をもつかのような封建的外観は,依然として残ることになった。こうして重農主義の諸学説は,多かれ少なかれ封建的土地所有支配のもとでのブルジョア的生産という,二面的な矛盾した性格をもつものであった。

ケネーの後継者たちは,この点をめぐっての理解が実に多様であった。なかでもミラボーは,その封建的外観に固執し保守的性格を堅持した点で特徴的である。それとは対照的にチュルゴは,ケネーの所説を踏襲しながらも,階級関係や資本の分析の点で,近代的な〈ブルジョア的本質〉の面を推し進めた。彼は政治家(財務総監)としても,土地単一税や自由放任政策を徹底させようとした。しかし,フランス革命前の当時としては急進的でありすぎ,結局A.スミスの《国富論》刊行の1776年に失脚し,同時に重農学派の実際的活動も事実上解体した。重農学派の理論的貢献の多くは,むしろイギリス古典派経済学の伝統的見地のなかで,直接にはA.スミスによって継承され発展させられた。また社会的再生産の総体的関連を示す表式的把握は,後年のK.マルクスの再生産表式論の成立に示唆を与えるものであったことが注目される。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「重農主義」の意味・わかりやすい解説

重農主義
じゅうのうしゅぎ
physiocracy 英語
physiocratie フランス語
Physiokratie ドイツ語

18世紀後半に、フランスのブルボン王朝の侍医であったケネーを中心に、その使徒ミラボー侯爵、メルシェ・ド・ラ・リビエールPaul Pierre Mercier de la Rivière(1720―93)、ル・トローヌGuillaume François Le Trosne(1728―80)、デュポン・ド・ヌムールなどによって展開された経済理論と経済政策をいう。フィジオクラシーということばは「自然の統治」からきたものとされている。重農主義者は、商工業を偏重し農業を捨てて顧みなかったフランスの重商主義に反対し、自然法の哲学観に基づいて、個人的自由の尊重と、農業の生産的性格とを強調した。

 彼らの見解によれば、人間は二つの違った秩序のもとに置かれている。すなわち、神が人間の幸福のために定めた永久不変の「自然的秩序」と、国家の形成に伴ってつくられた「人為的秩序」とがそれである。自然的秩序を規制する法則は「自然法」であり、人為的秩序を維持する法則は「人定法」である。人間は自然法の許す範囲内で自由でなければならない。もし人定法がこの自由を束縛するならば、それは有害な法律である。重商主義のとっている商工業偏重主義と保護干渉主義は、人定法を重んじ、産業の発展を阻む有害な政策である。重農主義者はこれに反対し、産業に干渉するよりもその活動を自由に放任することによって国富は増進するものであると説いた。そして彼らの唱えた「為(な)すにまかせよ、行くにまかせよ」(レッセ・フェール、レッセ・パッセ)という自由放任主義のモットーは、封建制度の束縛を打破しようとする資本家階級の要求と合して、そののち永く世界の資本主義の指導理念となった。

 重農主義者たちはまた、フランス経済の疲弊の原因を探究して、農業の重要性とその救済の必要とを力説した。そのためケネーは、フランスの社会を一つの人体になぞらえて、『経済表』とよばれる一枚の解剖図のなかに、農村と都市とを結ぶ商品と貨幣の循環と、資本の再生産過程を描き出したのである。そのなかでケネーは、農業に従事する人々だけが、その生産に投下した費用を超えて、剰余生産物すなわち純生産物を生むから生産階級であって、都市の商工業者たちは、単に原料を加工したり、商品を交換するにすぎず、なんら剰余生産物をつくりださないから不生産階級であると述べた。

 ケネーの理論的影響を受けたチュルゴーは、ルイ16世のもとで大蔵大臣になり、封建的な職業組合を廃止し、穀物取引を自由にし、農民にかけられた賦役を免除するとともに、土地単税論という、きわめて急進的な財政政策を打ち出した。すなわち、当時のブルボン王朝の財政的破綻(はたん)を救うために、租税を、フランスの耕地の大半を領有している貴族、僧侶(そうりょ)および地主階級の収入だけに賦課せよというのである。なぜなら、彼らは、生産階級である農民の生産した純生産物を全部地代として懐(ふところ)に入れているからである。これに対し、商工業者は不生産階級であって利潤を生まないから、租税は免除するべきものであるとした。チュルゴーの土地単税の主張は、農民や商工業者たちからは歓迎されたが、貴族、僧侶、地主を中心とする保守勢力の反感を買い、大蔵大臣を免ぜられ、この政策を実行に移すことはできなかった。

 農業だけが生産的であって、工業や商業が不生産的であるという重農主義の主張は、彼らの抱いた価値論の欠陥に基づくものであって、その理論は、アダム・スミスによって集大成されたイギリスの古典学派の批判を受けて克服されるに至った。それにもかかわらず、重農主義が、それまでイギリスやフランスを支配していた重商主義の誤りを批判し、是正した功績は大きい。

[越村信三郎]

『久保田明光著『重農学派経済学』(1959・前野書店)』『横山正彦著『重農主義分析』(1958・岩波書店)』

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百科事典マイペディア 「重農主義」の意味・わかりやすい解説

重農主義【じゅうのうしゅぎ】

フィジオクラシーphysiocratieの訳。農業だけが剰余をもたらす富の唯一の源であるとする,18世紀後半のフランスの経済理論と政策。ケネーが創始者。商工業は原料と食料品を農業に仰ぐからその発展は農業の発展にまたねばならぬとし,農業発展の必要を説いた。重商主義と異なり富の源を生産に求め,生産と流通を総体的に明らかにしたが(《経済表》),農業の使用価値増大にだけ着目,工業の価値増殖を無視する誤りに陥った。地代以外への課税は生産を阻害するとする土地単一課税論と商工業の自由放任論はその資本主義的本質を示す。
→関連項目自由放任主義チュルゴボーバン

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「重農主義」の意味・わかりやすい解説

重農主義
じゅうのうしゅぎ
Physiocratie

国家,社会の富の基礎は農業であるとする経済思想で,18世紀後半フランスに興り,F.ケネー,A.テュルゴーをその代表とする。重農主義者は経済危機に瀕したフランスで農業のみが生産的であるとし,農業からの剰余およびそれに対する単一課税によって経済を再建することを主張。農業経済の資本主義化を目指し,重商主義の産業規制や独占を攻撃して,経済的自由放任を主張した。特にケネーは北フランスにおける資本主義的大農経営の展開に注目して資本制生産様式の最初の理論的分析を行い,『経済表』 (1758~67) では社会全体の再生産構造の総括的把握を試みた。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「重農主義」の解説

重農主義(じゅうのうしゅぎ)
physiocracy

ケネーを祖とする経済社会理論。啓蒙思想に共通の自然秩序の信仰を基底とし,先験的な公理からの演繹的推論の方法を,ときには過度にまで用いている。すなわち,私的所有を最高の自然権とし,その系としてのもろもろの自由とともに,その行使を完全に保証することにより最善の調和が実現されると考える。本来フィジオクラシーとは「自然の支配」の意味である。経済的には農業のみが真に生産的であるとし,その生産を高めるために投資の助成,耕作の自由,税制の改革,とりわけ高利潤を維持するための流通の自由とその拡大を主張する。

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旺文社世界史事典 三訂版 「重農主義」の解説

重農主義
じゅうのうしゅぎ
physiocracy

商工業を偏重するフランスの重商主義に反対し,個人の自由と農業生産の重要性を説いた経済学説
18世紀後半,フランスのケネー・テュルゴーらによって代表される。富の源泉を土地におき,農業生産の発達を重視して農民に対する重税を批判した。重商主義の経済統制策に反対して自由放任主義(レッセ−フェール)を主張し,経済問題を流通過程ではなく生産過程においてとらえたのが特徴で,アダム=スミスの経済学説に大きな影響を与えた。ケネーの『経済表』が代表的著作である。

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世界大百科事典(旧版)内の重農主義の言及

【経済学説史】より

…また,自国の産業のために市場を確保する政策と解するならば,現代の貿易摩擦との関連も否定しえない。 重商主義の諸学説は断片的なものであったから,最初の体系的経済理論はフランス重商主義に対する批判であった重農主義であるといえる。重農主義は自然法思想に基づき,自由取引を提唱し,農業を重視した。…

【ケネー】より

…フランスの経済学者。重農主義の創始者。〈経済表〉(1758)の発表により,後世の経済学に大きな影響を与えた。…

【国分寺[町]】より

…香川県中央部,綾歌郡の町。人口2万1520(1995)。北部と南部は丘陵で囲まれ,中央部を本津川が北東流し,沖積低地を形成する。予讃線,国道11号線が中央部を横断する。溜池灌漑による農業中心の町であったが,高松市と坂出市の間に位置するため住宅地化が著しい。農業は米,麦中心から,盆栽,施設園芸,果樹,蔬菜,花卉などの都市近郊農業に移行している。四国八十八ヵ所第80番札所白牛山国分寺は本堂,千手観音立像,銅鐘が重要文化財に指定されており,境内には讃岐国分寺跡(特史)の33個の巨大な礎石が残る。…

【ボアギュベール】より

…同書で,彼は,国富を増大させるためには,まず消費を増加させることによって産業を振興させるべきであると説き,消費の増加を妨げている間接税や恣意的課税方法を改革することを提案した。彼の主張は,J.B.コルベールの重商主義を批判して農業の重視と自由放任を説いた点で,のちの重農主義の先駆となり,フランスにおける古典経済学の出発点となった。彼の経済学上の著作は,《ピエール・ド・ボアギュベール――経済学の誕生》2巻(1966)に収録されている。…

※「重農主義」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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