重森三玲(読み)しげもりみれい

日本大百科全書(ニッポニカ) 「重森三玲」の意味・わかりやすい解説

重森三玲
しげもりみれい
(1896―1975)

造園家、庭園史研究家。岡山県生まれ。日本美術学校卒業後、東洋大学文学部に学ぶ。幼時から絵画いけ花茶道を好み、18歳のとき父元治郎の経済的援助により、真行草の茶室天籟庵(あん)を設計(現在岡山県加賀(かが)郡吉備中央(きびちゅうおう)町の重森三玲記念館の横に移築・保存)。青年期から日本庭園史の研究および茶・華道の研究を行う。設計した庭園および茶室は、社寺、住宅、ホテルなどに約300を数え、代表作に京都・松尾大社庭園がある。主著『日本庭園史図鑑』全28巻、『日本庭園史大系』(共著)全35巻など。

[重森完途]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「重森三玲」の解説

重森三玲 しげもり-みれい

1896-1975 大正-昭和時代の作庭家,生け花研究家。
明治29年8月20日生まれ。全国の著名な庭園を実測調査し,「日本庭園史図鑑」をあらわす。東福寺方丈庭園など百数十の庭園をつくる。前衛生け花を提言し,また創作的茶道を実践した。昭和50年3月12日死去。78歳。岡山県出身。日本美術学校卒。本名は計夫。著作に「日本花道美術全集」「日本茶道史」など。

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世界大百科事典(旧版)内の重森三玲の言及

【いけばな】より

…明治の修養主義から大正の教養主義の時代へと,いけばなの自由花もまた人間の教義としてのいけばなを問い,その確立を志した。この運動のなかから昭和初年にはより先鋭的に芸術としてのいけばな確立をめざしたのは,重森三玲,勅使河原蒼風,中山文甫たちによる〈新興いけばな宣言〉であったが,昭和10年代からの戦争突入によってこの運動も挫折してしまった。戦後の急激ないけばなの近代化は,勅使河原蒼風,中山文甫,小原豊雲たちによって展開され,使用する素材の領域を拡大して鉄や石や鳥の羽根,貝などの無機物までを含めていけばなの造形活動を行った。…

【庭園】より

…昭和に入ってからは,二つの目立った動きがみられる。一つは寺院に多くの枯山水をつくった重森三玲であり,自然主義的な庭園を批判して象徴的な庭園を打ち立てた。いま一つは昭和の初めころ飯田十基が推進した雑木の庭で,そののち小形研三に継がれ,都市の人工化とともに急成長している。…

※「重森三玲」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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