里見氏(読み)さとみうじ

改訂新版 世界大百科事典 「里見氏」の意味・わかりやすい解説

里見氏 (さとみうじ)

戦国時代に南房総を領国とした大名。清和源氏新田氏流。新田義重の子義俊が上野国碓氷郡里見郷に住み,里見を称したのに始まる。義俊の9代後の家基が結城合戦で討死し(1441),嫡子義実が逃れて相模国三浦に落ち,三浦氏の援助のもとに安房国白浜に渡り,以後房総里見氏の活動が始まったという。当時の安房国では長狭郡に東条氏,朝夷郡に丸氏,安房郡に神余氏,平群郡に安西氏の4豪族が分立していたが,義実は武略をめぐらせて諸豪を押さえ,1445年(文安2)安房一国を平定したと房総の諸軍記は伝えている。義実の孫義通は1508年(永正5)安房国の総社を現在の館山市に移し鶴ヶ谷八幡を造営しているので,このころまでに里見氏が安房一国を統一したのは確実である。33年(天文2)義通の子義豊は叔父実尭と勢力争いの末これを殺したが,実尭の嫡子義尭は翌年義豊を滅ぼして父の仇を討ち,里見氏の主となった。

 当時関東の諸将に対し伝統的権威を保持していた古河公方家では,公方の足利高基と弟義明とが対立していたが,義明は1517年(永正14)下総小弓城(現,千葉市中央区南生実町)に拠り小弓公方と称した。38年古河公方と結んだ北条氏綱・氏康父子が下総に進撃,国府台(こうのだい)(現,市川市)で義明軍を破り,義明は討死して小弓公方は滅びた。里見氏は義明に加勢をしたが,戦後もよく勢力を温存し,義尭が久留里城,その子義弘が佐貫城に拠り,小弓公方に代わって両総に勢力を延ばし,武蔵太田,越後上杉らの諸氏と連合して北条氏に対抗した。しかし64年(永禄7)再度の国府台戦で義弘は氏康・氏政父子の北条軍に敗れ,南房総に後退を余儀なくされる。90年(天正18)豊臣秀吉小田原攻囲に際し,里見義康(義弘の弟義頼の嫡子)は参陣が遅れて上総を没収され安房1国のみを保有。文禄の役には家康に従って名護屋に出陣し,関ヶ原の戦(1600)では秀忠に従い宇都宮に出陣し鹿島郡に3万石を加増された。しかし義康の子忠義が大久保忠隣事件に連座して1614年(慶長19)改易となり,伯耆倉吉に移され本拠館山城は破却された。22年(元和8)忠義が没し嗣子無く滅亡。曲亭馬琴の《南総里見八犬伝》は,義実に始まる里見氏の事蹟を題材としている。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「里見氏」の意味・わかりやすい解説

里見氏
さとみうじ

房総(ぼうそう)地方の戦国大名。清和源氏(せいわげんじ)。新田義重(にったよししげ)の子義俊(よしとし)が上野国(こうずけのくに)碓氷(うすい)郡里見郷(群馬県碓氷郡)に住して里見氏を称したのに始まると伝えられ、15世紀後半~16世紀初頭に里見義実(よしざね)が安房国(あわのくに)を平定し、本拠を館山(たてやま)に置いたとされている。その後上総(かずさ)や三浦半島にも進出し、戦国大名としての地歩を固めた。義実の曽孫(そうそん)義堯(よしたか)、その子義弘(よしひろ)は、古河公方(こがくぼう)の末裔(まつえい)で小弓御所(おゆみごしょ)と称した足利義明(あしかがよしあき)と結んで後北条(ごほうじょう)氏と対抗したが、1538年(天文7)、1564年(永禄7)の両度、下総(しもうさ)国府台(こうのだい)(千葉県市川市)で後北条氏と戦い、敗れて退いた。以後義康(よしやす)のとき安房国9万2000石を豊臣秀吉(とよとみひでよし)から安堵(あんど)され、関ヶ原の戦い(1600)ののち、徳川家康から常陸(ひたち)国内に3万石を加増された。しかしその子忠義(ただよし)のとき大久保忠隣(おおくぼただちか)が大久保長安(ながやす)の不正事件に関連して罪を得たことにより、これに縁座して伯耆(ほうき)3万石に減封され、嗣子(しし)がなく断絶した。

[伊藤喜良]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「里見氏」の意味・わかりやすい解説

里見氏
さとみうじ

清和源氏新田義重の出。その子義俊が上野国里見郷に住したので,里見氏を称したという。代々鎌倉幕府,さらに室町幕府に仕えたが,室町時代中期,家基のとき,関東管領足利持氏の子春王安王を擁して下総結城に拠った。その子義実のとき,房総の豪族東条,神余,丸,安西諸氏の争いに乗じて安房国を取り,白浜に居城した。その後,安房,上総を平定し,後北条氏と対抗して勢力を伸張した。その後勢力を失い,豊臣秀吉の小田原征伐のとき,義康が参陣に遅延して上総を召上げられ,安房9万 2000石に封じられた。関ヶ原の戦いには東軍に従い,3万石を加えたが,忠義の舅大久保忠隣が推挙した大久保長安の不正事件に,忠隣に縁坐して伯耆倉吉3万石に移封された。忠義に子がなく,元和8 (1622) 年,その死により断絶した。

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百科事典マイペディア 「里見氏」の意味・わかりやすい解説

里見氏【さとみうじ】

清和源氏新田氏の流れ。新田義重の子義俊が上野(こうずけ)国里見郷に住し里見氏を称す。1441年結城合戦の後,義実が安房(あわ)に勢力をおく。戦国時代の義尭(よしたか)・義弘は水軍を率いて小田原北条氏に対抗したが,1564年下総(しもうさ)の国府台(こうのだい)で敗れ衰退。豊臣秀吉に安房9万石を安堵(あんど)されたが,1614年伯耆(ほうき)倉吉3万石に転封,1622年嗣子なく断絶した。→南総里見八犬伝
→関連項目安房国

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旺文社日本史事典 三訂版 「里見氏」の解説

里見氏
さとみし

中世,房総半島を領有した戦国大名
清和源氏新田氏の流。上野 (こうずけ) (群馬県)碓氷郡里見郷に住み里見氏を称す。15世紀中ごろ,義実が安房 (あわ) を平定,のち上総・下総に進出し小田原の後北条氏と対抗し,義弘は1564年下総国府台で北条氏康に敗れ下総を失い,以後衰退。のち豊臣秀吉に降り安房9万石を安堵された。関ケ原の戦いの功により常陸 (ひたち) 3万石を加増。その後,大久保忠隣 (ただちか) の罪に縁坐し伯耆 (ほうき) 国(鳥取県)に転封され,嗣子なく1622年断絶した。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「里見氏」の解説

里見氏
さとみし

中世の武家。清和源氏。新田義重の子義俊が上野国里見(現,群馬県高崎市)を本拠に里見氏を称したのに始まる。義俊の子義成は鎌倉御家人として活躍。室町中期,その子孫義実が安房国を平定して館山を本拠とし,戦国期,義尭(よしたか)・義弘は領国を上総から下総に拡大するため,後北条氏と争った。義弘の甥義康のとき,豊臣秀吉から安房一国の領有を承認されるが,子忠義は大久保忠隣(ただちか)事件に連坐して改易され滅亡。

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世界大百科事典(旧版)内の里見氏の言及

【安房国】より

…南北朝時代末に結城直光,その後に山内上杉憲方が守護となった。 中世末期から近世初期にかけての安房国は,滝沢馬琴の《南総里見八犬伝》で名高い里見氏の根拠地となる。諸軍記類によると,1441年(嘉吉1)関東公方の再興を夢みて結城合戦に敗れた里見家基の子義実が,相模国三浦を経て当国白浜に来て房総里見氏の祖となった。…

【上総国】より

… 室町時代の上総は犬懸上杉氏の本拠となり,上杉禅秀の乱後,1418‐19年(応永25‐26)には氏憲の遺臣榛谷重氏らが平三城(市原市平蔵),坂水城(不明,夷隅郡岬町か)に拠り一揆(上総本一揆)を起こしている。戦国時代に入ると,安房の里見氏が勢力をふるい,義尭(よしたか)のとき上総に進出し,小弓(おゆみ)御所足利義明を支持して1538年(天文7)北条氏綱と下総国府台(こうのだい)(市川市)で戦ったが敗れ,義明は討たれた。このころ義尭は久留里城(君津市久留里),義尭の子義弘は佐貫城(富津市佐貫)にいて南房総を分国とした。…

【国府台】より

…1479年(文明11)江戸城を居城とする太田道灌もここに城を築いて足利成氏と対峙した。関東中世史にとって重要な国府台合戦は,安房国の名族里見氏と,急速に強力になりつつあった小田原北条氏との間で,この地を戦場にした争いをいう。第1次合戦(1538)では北条氏綱が足利義明,里見義尭を破って下総への進出を果たし,第2次合戦(1564)には下総へ進出した里見義弘がいったん国府台を占拠したが,北条氏康・氏政のために敗れ,北条氏の上総進出をもたらす結果となった。…

※「里見氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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