都於郡(読み)とのこおり

日本歴史地名大系 「都於郡」の解説

都於郡
とのこおり

古代の児湯こゆ覩唹とお(和名抄)を継承する中世の地名・所領単位で、古くは都於院・都於郡院ともみえる。現在の西都市都於郡町を遺称地として、境域は周辺の同市荒武あらたけ山田やまだ岩爪いわづめ上三財かみさんざい・下三財などの一帯に比定される。また地域内には荒滝あらたき(荒武名とも、賀世のうち)・山田名・前原まえばる(児湯丸を含む)などの名があった。伊豆国を本貫とする伊東氏(工藤祐経の子祐時を祖とする)は南北朝期に当地に下向して都於郡城を居城とし、以後一帯に勢力を扶植、周辺の土持氏・島津氏などと争いながら戦国大名に成長している。寛治七年(一〇九三)八月二九日の日向国符案(宇佐大鏡)に那珂郡田島たじま庄の四至として「西限郡於院」とみえ、同庄と接していた。建久図田帳では前斎院(後白河皇女式子内親王あるいは高倉皇女範子内親王か)領として「都於院百五十丁」とあり、児湯郡のうちで、預所は鎌倉幕府御家人で蔵人所衆の宇都宮信房、地頭は在国司職や多くの地頭職をもつ土持信綱(宣綱)であった。なお信綱に在国司職を譲った日下部盛平は都於郡地頭・領主であったという(「日下部姓湯浅系図」湯浅正敏家文書など)

元亨三年(一三二三)四月六日「都於郡賀世方荒滝名」の名主に夫饗料として筵付などが免じられている(「某宛行状」荒武文書)。建武二年(一三三五)一月の三条河原・勢多・宇治川の合戦での戦功により、足利尊氏は伊東祐持に都於郡院を、若党の小山田中務丞に都於郡前原名のうち児湯丸八町八ヵ所を与えたという。その後祐持は当地に下向し、城(都於郡城)を構えて居城としたという(日向記)。同四年五月四日、南朝方の伊東祐広(伊東祐光の代官として日向国に下向し、木脇氏の祖となった伊東祐頼の子孫)らを誅伐するため、日向国国大将畠山直顕は日下部盛連に一族を率いて「都於郡向城」に馳せ参ずるよう命じている(「畠山直顕軍勢催促状」郡司文書)。翌六月一八日夜、肥後八代、佐敷さしき(現熊本県芦北町)の南朝方が都於郡岩崎いわさき城に押寄せ合戦となった(建武四年六月一九日「日下部盛連軍忠状」同文書)。七月一八日、直顕は盛連に岩崎城を構えて近隣を警固するように命じているから(「畠山直顕軍勢催促状」同文書)、伊東祐広らの守る都於郡向城は陥落したと思われる。

貞和四年(一三四八)七月、伊東祐持が上洛中に死去すると、当地は伊東祐広の嫡子守永祐氏に押領されたという(日向記)。同六年九月二〇日、足利直冬は後藤光明に由緒の地である都於郡一方半分地頭職などを恩賞に代えて与えている(「足利直冬下文写」後藤家文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「都於郡」の意味・わかりやすい解説

都於郡
とのこおり

宮崎県中部、西都市(さいとし)南部の地区。旧都於郡村。台地上にあり、日向(ひゅうが)を統一した戦国大名伊東氏の本城所在地。都於郡城は別名浮船城(うきふねじょう)とよばれ、佐土原(さどわら)城とともに日向の中心であった。古代郷名覩唹(とお)もこの地で、『日本書紀』景行(けいこう)紀に記される高屋(たかや)の地名もこの地にある。

[横山淳一]

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