都市(地理学)(読み)とし

日本大百科全書(ニッポニカ) 「都市(地理学)」の意味・わかりやすい解説

都市(地理学)
とし

都市の本質と性格


 人間居住の一様式。村落villageと対照される高密度の街区をなし、周囲の地方に対する中心地である。市町村と並ぶ地方行政組織の市をさす場合もあって、実質的な都市と行政上の市とは、その範囲や性格がかならずしも一致しない。英語ではtownあるいはcityとよぶ。都市は各国において定義がまちまちであり、それは都市発生の理由、法的な規定、社会的・地理的な差異があって、国連の人口統計解説をみても厳密な比較は困難である。本項では都市の本質と性格、都市の歴史についておもに説明し、「都市計画」については別項に譲る。

 都市は「みやこ」と「いち」を意味し、政治の中枢、商業の中心地を示した。古代では主として政治・宗教・軍事の拠点として築かれ、古代ギリシアのポリスpolisは農民の集住(シノイキスモス)によって成立し、海外に植民都市を発展させた。中世以後には商業が都市形成の主役となり、北イタリアの諸都市、ハンザ同盟の諸市は商人が自治権をもって繁栄を遂げた。中世の都市は封侯の居城、宗教上の中心地としても築かれ、城壁、堀によって囲まれていた。これらの前近代都市(プリインダストリアル・シティ)に対して、19世紀以降は工業化の時代を迎え、市街は郊外(城外)に大きく発展し、産業都市(インダストリアル・シティ)が成長をみた。これに続いて、20世紀後半は脱工業、情報化を進め、巨大都市が成長し、大都市圏が形成され、後産業都市(ポストインダストリアル・シティ)の時代に入っている。

 1980年には世界の人口総計は約40億人、そのうち人口2万人以上の市町に住む人々の割合は約35%を超え、1960年の25%に比べて、割合においても総数においても著しく増加した。都市化の傾向は先進国において著しいのみでなく、開発途上国においても、貧困な農村より押し出されて都市に集まり、スラムをつくる場合が多い。第一次世界大戦までは、人口10万人の集合によって大都市(グロス・シュタット)が成立したが、第二次世界大戦後は1000万人を超える超大都市が現れた。ニューヨーク市、メキシコ市、東京、上海(シャンハイ)がそれであり、500万人以上の巨大都市としては、シカゴ、ロサンゼルス、大阪、ソウル、北京(ペキン)、カルカッタ、モスクワ、パリ、ロンドン、リオ・デ・ジャネイロなどが成長している(人口は大都市圏=市の外側を含むメトロポリタン・エリアあるいはコナベーションによる)。

[木内信藏]

都市の本質

都市は人口が密集することによって成立するが、その基礎となるのは、社会経済的活動である。広い耕地・林野のうえに生活をたてる農村の人々は第一次産業に従事しているが、都市の経済活動は主として商工業・公務・サービス業などの第二次、第三次産業に従事している。これらの人々は比較的狭い区域に集まって都市をつくっている。しかし、南イタリアには、人口1~2万が密集して住む都市と見間違える農業集落があり、オランダのポルダーには、農業労働者の住む近代的な集落がつくられているなど、都市と村落の境を分けることはかなりむずかしい。都市としての本質は、人口、経済産業、都市景観、計画および都市の法令などの諸要素からみることが必要である。なかでも結節性(ノダリティ)とよぶ周囲の地方に対する中心的機能が基本である。

 わが国の市となるべき普通地方公共団体の要件としては、人口5万人以上(以前は人口3万人以上)をもち、中心市街地を形成すること、商工業などの都市的業務に従事する者およびその世帯員が全人口の6割以上を占めることなどとしている。多くの市域内には農家や林野・耕地を含んでおり、実質的都市は市域の一部を占めることが多い。西ヨーロッパ諸国やアメリカでは、人口2000人あるいは2500人が集まる地区(ロカリティ)をもって都市の成立条件としている。この違いは、集落の社会的、歴史地理的状態が東西によって異なるからである。アメリカ中西部では広漠とした畑の中に教会とドラッグストア、ガソリンスタンドなどが建つだけで、中心地として都市の最小の条件をもつものがある。

 都市は国土の要(かなめ)としてたち、歴史の過程を通して成長し変化してきたものである。地味(ちみ)のよい広大な平野を後背地(ヒンターランド)として都市が発達する一面には、川の合流点に城塞(じょうさい)として立地し、交通・商業の要地として育った中小都市もある。都市は空間の可能性を活用する努力によって成長する。

 フィルブリックの中心性機能説によれば、どの集落にも普遍的にみられる機能に始まり、少数の集落のみに限定される特殊な機能がある。人口の大小と機能の種類が中心性の大小と対応して階段的に配列される。すなわち、もっとも基底には消費者があり、これにサービスする小売業が集まり、その一段上位に卸売業が発達し、さらに「積換え」「交換」「管理」の業務が順次上位の中心地に現れ、最高位の市は「指導」的機能をもつ。この考えを経済のみに限らず、社会・文化的機能にも拡張して適用すると、小学校、中学校、高等学校、大学の系列が集落の大小と中心性に関係をもって現れ、また地区の診療所から、小病院、総合病院に至る医療サービス圏の大小と専門化の関係にも反映される。

 都市においては、農牧林業、水産あるいは採鉱などの自然を直接利用する生産活動は本質的には行われず、市民が利用する食糧、エネルギーなどは主として他地方から供給される。ラッツェルのいう栄養交通が必要である。広い自然の空間は、緑地、レクリエーションなどのために保持されるが、生産緑地は欠ける。土地利用区分に基づき人口密度を調べると、日本の都市近郊では1平方キロメートル当り人口密度400人が農村と都市の移行地帯であり、1000人以上の密度をもてば市街化が進んだ地帯である。また都市の中央部は1万人以上の密度に達する。

 都市の住民は多くの職業に分かれてその複雑な機能を分担して働くのみでなく、都市と地方間や自都市内部においても移動性が大きく、農村のような共同社会、郷土性、伝統の維持には乏しい。しかし、ロンドンのシティ、東京の神田や浅草などのように、古い伝統や独得な習慣が保存されている例がある。

 都市景観がれんがとモルタルの集合体になったのはロンドンの大火(1666)以後であり、日本では江戸前期のたび重なる大火ののちに瓦葺(かわらぶ)き土蔵造を奨励してからである。今日も日本の町には木造低層の家が多いが、耐震・耐火のためには鉄骨鉄筋コンクリート、スチール構造が必要である。土地利用の集約化、地価の高騰に伴って、建坪(けんぺい)率や容積率が増し、高層化が進む。多数の人口が安全・快適に住まい、多くの業務が能率よく活動し、激しい交通をさばくなどの要求を満たすには、古い市街を改造し、新しい建設が行われる。管理と整備は都市を維持発展させる要件であるが、現実には過密や混乱が広がっている。都市問題は人々の集団の社会的・地域的な摩擦、物質的な設備(道路・住宅・水など)とのアンバランスによっておこり、その解決には農村問題とは異なる技術的・行財政的努力を払うところに、特質をもっている。

 現代の都市化は、昼間人口の都市中央部への吸引と、夜間人口の郊外への分散とからなり、前者には都市再開発、後者にはニュータウン計画を含む新都市建設が行われる。

[木内信藏]

都市の領域

市町村域municipal areaはわが国では1889年(明治22)以来行政区画として定着をみた。人口の増加、市域の拡大、あるいは市町村合併によって、新市が誕生した。最初に市制を施行したのは次の39市で、旧城下町が多く、新しい開港場(*印)も目だつ存在であった。仙台 山形 盛岡 米沢 秋田 弘前(ひろさき) 東京 *横浜 水戸 金沢 *新潟 甲府 富山 福井 高岡 名古屋 静岡 岐阜 大阪 京都 *神戸 姫路 堺(さかい) 和歌山 津 広島 岡山 下関(しものせき) 松江 鳥取 徳島 高知 松山 *長崎 熊本 福岡 鹿児島 久留米(くるめ) 佐賀(北海道の札幌・函館(はこだて)などは初めは区制をとった)
 すでに江戸時代から東京は100万人の人口をもち、大阪・京都も50万人に迫る大都市であった。市数が急増したのは1954、55年(昭和29、30)の合併によってであった。2003年(平成15)4月現在人口50万人を超える市は23市、このうち区制をもち、府県に並ぶもの(政令指定都市)は13市である。大都市の都心区は夜間人口が減少し、とくに大阪市は著しく、周縁住宅区の人口増加が著しい横浜市に第2位を奪われた。

 小さい町村が市となるための最小限の条件を満たすには合併が必要であり、結果として、実質的都市部が市域の一部にすぎず、耕地・林野が広く、人口密度1平方キロメートル当り1000人に満たない市が多くなった。統計上、実質都市を表示するために、1960年以来「人口集中地区」を定め、市街地の人口を表示することとなった。その基準は、隣接した1平方キロメートル密度4000人以上をもつ人口調査区を集めて、合計5000人以上に達する地区である。1960年には、891地区、合計人口4083万人に達し、80年には1320地区、合計人口6993万人であった。

 他方、人口の増加は郊外に著しくなった。市内の地価が高くなり、環境条件が悪く、住みにくくなったためである。これに伴って市外より市内へ日々通勤し流入する人口が増えてきた。また市内にあった事業所、とくに工場が市外に移転する件数も多い。これらのことから、大都市圏として、行政市域の外に及ぶ領域を区画し、市内外を通しての統計を示す必要がある。

 アメリカ合衆国では、次の規定による「標準大都市圏統計地域Standard Metropolitan Statistical Area」(SMSA)を設けて表示している。(1)中心となるべき都市は人口5万人以上であること。(2)郡別統計による労働力人口の75%以上が非農業であること。規定の(3)は(a)人口の50%以上が人口密度1平方マイル当り150人以上の市町村に住むか、(b)非農業者の10%以上が中心市で働くか、あるいは(c)郡の非農業労働者が1万人以上に達するかのいずれかに該当することなどである。

[木内信藏]

都市の分類

都市は、人口の大小、行政上の地位、歴史的性格、産業機能、形態などによって分類される。人口は、産業・行政の集中に関係して性格を変え、人口の規準は100万人、10万人、5万人を境として、100万都市、大都市、中都市、小都市に分類される。首都と地方都市は行政上の地位に基づき、後者は州都・県庁所在地の市と地方行政上の権力をもたない市場町など経済活動の中心、歴史的な町などである。わが国では、東京都(区部)を首都として道府県庁所在市、それ以外の市があり、人口約100万に達した市は政令指定都市として、府県に準ずる地位をもっている。札幌、仙台、さいたま、千葉、川崎、横浜、名古屋、京都、大阪、神戸、広島、北九州、福岡がそれである。

 首都の多くは他の都市とは別な地位を与えられ、アメリカ合衆国の首都ワシントンは州から独立したDC(コロンビア特別区District of Columbia)をつくっている。州庁の多くも州の最大都市にはなく、小都市に所在する。ニューヨーク州都はニューヨーク市の北250キロメートルにあるオルバニー(人口約9万人)にあり、カリフォルニア州の行政の中心はサンフランシスコの北東150キロメートルのサクラメント市(人口約40万人)にある。

[木内信藏]

歴史的分類

発生の時代別にみれば、古代都市、中世都市、近世都市、近代都市に分けられる。永続する都市は、古い市街に隣接して新しい市街が建設され、あるいは改造によって新旧の都市が累層をなしている。ロンドンは古代ローマ都市として始まり、セント・ポール寺院やロンドン塔のある街区が中世を記録し、続いて西に国会などのあるウェストミンスター地区がつくられた。テムズ川を挟んで下流は工場地区のイースト・エンドから、西はケンジントン緑地に至る範囲は東京区部に相当する近代市街である。これは、さらに大ロンドンとして郊外へと成長をみた。

[木内信藏]

文化的分類

文化的特色によってみれば、中国都市、インド都市、イスラム都市、ギリシア都市、ローマ都市、イベリア都市、アメリカ都市などに分類される。これらは発達の核心となった市街の立地、街区の形態、時代を記録する建築物などによって識別される。パリは、ノートル・ダム寺院のあるセーヌ川の中の島・シテ島に発し、南岸のラテン区、北部のモンマルトルなどを含む市街をつくった。いまは撤去された城壁が時代を刻んでいる。凱旋(がいせん)門を中心とするエトアール広場から放射状に延びる並木通りはナポレオン時代に整備された。

[木内信藏]

日本都市の歴史的分類

この分類は、小川琢治(たくじ)によってまとめられたように、古代の条坊制都市(平城京・平安京)のあと、中・近世には、城下町、市場町、宿場町、港町、門前町および鳥居前町などが発達をみた。このほかに、鉱山町、農村の中心となる在町などを区別することができる。日本の古代都市は中国、朝鮮の伝統を引くが、藤田元春(もとはる)によれば、厳密には異なった町割(まちわり)を示している。中世以後の都市は日本独得の発達を示しており、近代となって欧米の型式が学ばれ、混合型の都市となった。

[木内信藏]

機能的分類

都市は住民の活動によって繁栄を遂げ、また市民生活は都市から各種のサービスを受けている。産業活動は都市機能のもっとも重要なものであり、その特色によって、商業都市、工業都市などを分け、細かくは、軽工業都市、重工業都市、港湾都市、観光保養都市、住宅都市などを分類することができる。現在は産業(あるいは労働力)別統計が整備され、機能分類が精密に行われるようになった。しかしまた正しい分類に達するためには次の諸点に注意する必要がある。

 (1)今日の都市は、単に固有の市域に住む夜間人口のみによって支持されるのではなく、昼間流入する人口によってその活動が特色づけられている。昼間の事業所人口によるか、あるいは大都市圏の人口を資料とすることが必要である。(2)都市の産業は、同じ市に住む人々にサービスする部分と、周囲の地方ないしは全国的、国際的にもサービスする部分とがある。後者は基礎的機能とよび、都市を発展させる力となる。アレクサンダーソンは前者すなわち非基礎的部分を産業別人口の5%とみて処理した。別の方法では産業別人口の全国平均を基準としてそれ以上のものを基礎的部分として取り出している。しかし、いずれも完全な方法ではない。小笠原義勝(おがさわらよしかつ)は、産業別の全国平均値をとって、標準型都市を選び出し、平均値を超える産業人口によって特色を判別した。したがって、鉱業人口は比較的小さな数値で鉱業都市としての判定が下され、卸小売業人口は大きな数値をもたないと特色を判定されない。

 アメリカ合衆国においては、C・D・ハリスをはじめ、地理学者が都市の機能分類を発表した。H・J・ネルソンの分類は、都市化地域の統計を用い、9種のサービス(小売り、専門サービス、運輸通信、個人サービス、行政、金融保険不動産、卸売り、および工業)の全サービス人口に対する比をもってそれらの頻度分布図を描き、全国平均値と平均値からの偏差によって判断した。たとえばニューヨーク市は偏差値2を超える金融保険不動産業によって特徴が認められる。またミシガン州のアナーバー(人口約10万人)は、農業地帯の中心市場であり、デトロイトに近い工業都市でもあるが、ネルソン分類は、専門サービス都市として分類しており、大学都市としての特色を評価している。比例数による分類は人口の多い巨大都市の特色を見誤るおそれがある。東京は全国で上位を争う工業都市であるが、工業人口率はかならずしも高くはない。

[木内信藏]

都市の形態

都市の形態は主として人工的につくられ、景観(ランドスケープ)あるいは都市景(タウンスケープ)である。それを構成する要素は、土地、建築、道路、鉄道、港湾、空港、公園緑地および上下水道、電力、ガスあるいは学校、病院等の施設である。これらの立地、形状および利用は都市の活動と市民の環境に大きな関係をもつ。

 土地は、都市の産業、住居等が立地する地形上、交通上の拠点であるとともに、商業活動、工場群、住宅団地等が展開される広がりをもっている。港湾は海外の資源や市場と結び、国内の後背地(ヒンターランド)を開く役割をもち、20世紀初めまでは、横浜、神戸、長崎などの天然の良港が選ばれたが、いまは東京湾、大阪湾岸のように埋立て、浚渫(しゅんせつ)により、また鹿島(かしま)のような掘込み港による臨海工業地帯あるいは臨海緑地帯の造成の時代に移った。ヨーロッパの大都市は、ロンドンのテムズ川、ハンブルクのエルベ川、ロッテルダムのマース・ライン川など大河下流に築港され、内陸と海洋交通の接点として発達を遂げるものが多い。

 道路網は時代によって幅員、密度、形態が変化するが、大略、3種の型式に分類することができる。

 (1)方格状プラン、(2)放射・環状プラン、(3)自然発達形、である。方格状プランは、古代に始まり、中国では長安(現在の西安)、洛陽(らくよう)、北京(ペキン)などの基本形となり、わが国では、古代の平城京(奈良)、平安京(京都)や、近世の大阪、名古屋などの街区を律した。格子形はローマ都市をモデルとして広がり、新世界においてはタウンシップとともにアメリカ都市の碁盤割り(1マイル割り)として普及した。わが国では北海道の都市が方格状プランをとっている。

 ドイツのカールスルーエは、宮殿を中心とする幾何学的な放射・環状路を示している。パリは、多くの放射網の組合せによって「エトアール」(星)として知られ、不規則な放射・環状網としては、東京、アムステルダム、モスクワがある。

 ヨーロッパの都市には、ギリシアのアゴラ、ローマのフォルム以来、都市の核をなす広場が設けられる。中世都市の不規則な旧市街にも教会、市役所が建つ広場があって、泉水が湧(わ)き、週市が立つ広場として市民が集まっている。日本には街路の一部を広げた広小路はあったが、記念碑や銅像が立ち、人々が集まる広場には乏しかった。

 公園緑地および並木道が少ないことが日本の都市の欠点であった。城下町の屋敷や寺社には泉水をもつ庭園が憩いの場を提供しているが、ロンドンのハイドパーク、パリのブローニュ、ウィーンの森などのごとき広大な公共的緑地には乏しい。市民1人当りの公園緑地面積率は大都市においても2平方メートルに満たず、欧米の水準に達していない。これを4平方メートルにまで高めることが当面の目標である。公園には、細かく密に配置される児童公園、近隣公園や大型の一般公園、運動公園がネットワークをつくり、市民の健康を守り、防災、避難に役だつことが期待されている。

[木内信藏]

都市の諸地域とその構造

都市は、昼間、人々によってにぎわう都心商店街、業務街を中心として、周辺には住宅地区、工場街などが配列されて構成されている。その空間的構造は市街の発達による歴史的な累層を示すとともに、土地利用の強度や経済的、社会的な集団化と隔離の原理に従うものである。

 中・近世は、東西いずれの都市においても狭隘(きょうあい)な街区をなし、町は呉服町、大工町、金物町、問屋町、青物町など商工業者の種類によって集団分化していた。近代都市となってこれらは再編成されたが、なお大阪の道修(どしょう)町には薬品会社が集まり、東京の日本橋堀留(ほりどめ)には繊維問屋が多かったなど歴史的な伝統が続き、明治以後は神田の古本屋街、第二次世界大戦後は秋葉原(あきはばら)の電機卸商などとして集団化をみた。ロンドンのリージェント通りには紳士服装品の店が集まり、ニューヨークの五番街は婦人服の流行を支配するなどの名声を保っている。

 中央商業街(CBD)とよばれるものは、その都市を代表する小売商店街(東京の銀座、大阪の心斎(しんさい)橋など)と中央業務街(東京の丸の内、日本橋、大阪の北浜、中之島など)をさしている。後者は銀行、保険、貿易、証券取引所などの会社が集まり、資本主義金融財務の心臓部である。新聞、放送、広告、出版などの事業所も都心部に接して立地している。伝統のある都心街に対して、わが国では鉄道の終端駅を中心に、ターミナル・デパート、飲食店、娯楽店などのサービス業が集まり、新しい中心が成立した。なかでも東京の新宿駅西口は、副都心として計画的に業務および小売サービス業を入れた超高層ビル街をつくった。また自動車時代を迎えて、高速道路のインターチェンジに広い駐車場をもつショッピング・センターがアメリカ都市郊外に立地している。

 工場街は、河川、鉄道など輸送上の便益をもつ市内や都心に近い港湾に立地したが、地価の高騰、公害問題に追われて郊外に移り、広い敷地を得て、オートメーション化やエレクトロニクスなどの新技術の展開期を迎えることとなった。しかし、ニューヨークの婦人既製服業や東京の印刷出版業のように都心地区に立地を保つ業種もある。

 住宅地は都心に隣接して発達し、日本では木造平屋あるいは2階建ての個屋あるいは長屋を連ねたが、欧米では数階建ての集合住宅となることが多い。広い敷地とよい環境をもつ位置に上流の家族が住まう山手住宅地が立地し、下町の商工業地区には中下層の家族が混住する。建物の陋旧(ろうきゅう)化によって、後者がスラム化することも多い。交通機関の発達に伴って、ホワイトカラーの家族は郊外の住宅地に広がった。イギリスの田園都市は、職住の接近と緑に囲まれる生活を実現するハワードの理想を生かして、第二次世界大戦後、ニュータウンの建設が行われたが、都市政策の変化と住民の年齢構成の変化などから計画の変更が行われた。日本のニュータウンは数十万人の規模をもつ大型なものとして計画されている。

 次に都市の各部分がどのような空間的配置を示すか、おもなモデルを示す。

 E・W・バージェスの同心円(コンセントリク)説。シカゴに範例をとったモデルで、都心(ループ)を中心に同心円帯状に次の諸地区が配列される。(1)中央業務地区、(2)退廃化する移行帯、(3)労働者住宅帯、(4)中流住宅帯、(5)郊外の通勤者住宅帯である。

 H・ホイトの扇形(セクター)説。アメリカ68都市の家賃(5階級)別の地区が、都心を中心に放射状に延び、扇形をなすことを実証した。またC・D・ハリスおよびE・L・アルマンによって多核(マルティニュクレアイ)モデルが提出された。いずれも地形的障害が少なく、歴史的拘束をもたないアメリカ都市の場合であって、ヨーロッパおよびアジアの都市においては修正が必要である。G・テーラーは、時間・空間の座標を引き、市街の土地利用の種類をX軸に、市街の発達年次をY軸に描くと、市街の立地選択とその新旧の分布が示されることを説明した。歴史の浅いアメリカ都市においては移民の新旧と人種・民族間の力関係による地区分化が進んでいる。複数民族が集まる中近東および東南アジア、南アフリカなどの諸都市においては、生活程度、宗教、言語、習慣などを異にする人々が異なる街区を形成し、あるいは政策的に隔離(アパルトヘイト)されて、それらがしばしば困難な問題となっている。

[木内信藏]

都市の歴史

西洋


 西洋の歴史のうえには、単一の概念規定によってはとうてい律することができないほどに多種多様でありながら、等しく都市と総称されている無数の集落が現れた。ここではそうした集落が、西洋史のそれぞれの時代に示している特色をできるだけ明瞭(めいりょう)に浮かび上がらせることに記述のねらいを定めることにしたい。

[佐々木克巳]

古代オリエント

古代オリエント3000年の歴史に現れた都市は、現在ではそのほとんどが、考古学的発掘によってのみ原型を復原することのできる、いわゆる廃墟(はいきょ)都市である。エジプトのメンフィス、テーベ、メソポタミアのウル、ラガシュ、キシュ、ニップール、バビロンなどそうした都市は、いずれも城壁をもった中心市とその周囲に広がる農村部とから構成される都市国家の形態をとっており、古代東方専制君主の神権政治的支配の拠点であった。そこには自由な市民の自治団体は存在しない。もっとも、M・ウェーバーによれば、メソポタミア諸都市には農民とは区別された武装能力のある土地所有市民が存在した時期があったが、やがてそれも専制君主の勢力増大につれて消滅したという。この点で例外的なのが、地中海沿岸にフェニキア人のつくった小都市国家シドン、ティルスなどである。これらの都市は後背地が山地であるため航海と商業に専念するようになり、土地所有者を兼ねる商人の都市国家支配が維持されることになった。

[佐々木克巳]

古典古代――地主・戦士の消費者都市

古代ギリシア人がギリシア半島の東部および南部、エーゲ海の島々、小アジアなどにつくった都市国家をポリスとよんでいる。その成立は紀元前8世紀にさかのぼり、最盛期にはその数1000を超えたという。代表的なものとしてはアテナイ、スパルタ、コリントス、テーベなどがあげられる。ギリシア本土のポリスは複数村落の土地所有者が1か所に集まって中心市を建設し(これを集住という)、市民団体を構成することによって成立した。集住の動機としては、フェニキア人都市国家からの影響や、外敵防衛という軍事的必要が推定されている。中心市は原則として城壁を巡らし(スパルタには城壁がない)、丘状の高所に防衛の最後の拠点としてアクロポリスを築き、それぞれ独自のギリシアの神をポリスの守護神として祀(まつ)る神殿をそこにつくった。アクロポリスの麓(ふもと)には市民の広場であるアゴラが設けられ、市場を兼ねた。市民はアゴラで開かれる総会に出席して直接民主政に参与し、公共建築物を利用してスポーツや芸術に才能を発揮することを生活の理想とした。市民の範囲は、初めは大土地所有者に限られていたが、戦術重心の移動につれて拡大され、中小の土地所有者も含むようになった。このことは、ポリス市民の本質が土地所有者にして戦士であることにあった事実を示している。彼らは個別に、あるいは(スパルタのように)市民団体として集団的に、所有する奴隷に、中心市とともにポリスを構成する周辺農村部の耕地を耕作させ、商工業はこれを蔑視(べっし)して在留外人にゆだねた。こうした市民によって構成される都市は経済的には消費者都市であったと規定することができるであろう。農村部を含めた面積は、最大のアテナイで佐賀県くらい、人口は前5世紀前半のアテナイがおよそ12万ないし15万と推定され、市民2万5000ないし3万、その家族をあわせて8万ないし9万、在留外人とその家族9000ないし1万2000、奴隷3万ないし4万という構成であった。

 ギリシアでポリスが分立していたころ、イタリア半島でもポリスに類似した都市国家キーウィタースが多数存在していたと推定される。分立を続けたポリスとの相違は、それらの都市国家のなかで中部イタリアのラティウムに成立したローマが共和政の時代に他の都市国家を次々に征服し、イタリア半島をほぼ統一したことである。ただしこの統一は、大領土国家の形成によって実現されたのではなく、征服した諸都市とそれぞれ内容の異なる条約を個別に結んで、これを同盟市にするという方式で達成されたものであった。ローマは同盟市に内政に関しては自治を認め、またローマ市民権を付与した植民市を多数建設して、同盟市の反乱に備えた。第一次ポエニ戦争(前264~前241)後は新領土を属州制によって支配することになるが、その属州にもカエサル、アウグストゥス以降、既存の都市の昇格(自治市)、あるいは新都市の建設(植民市)によって多数の都市が成立した。とくに中世都市との関連で重要なのは、この時期にライン、ドナウ両川の防衛線に沿って多数のローマ都市が成立したことである。その多くは軍駐屯地や城砦(じょうさい)に隣接して商工業者の集落ができて自治市になったものであるが、植民市も少なくなかった。2世紀の五賢帝の時代は属州都市の全盛期で、デクリオネスとよばれる都市参事会員を中心とする自治制度が確立したが、2世紀末以後ローマ帝国の財政危機の進行と、それに対応するための専制君主政への移行の過程で帝国の強力な干渉が始まり、この自治制度も揺らいでいった。

[佐々木克巳]

中世――商人・手工業者の生産者都市

西洋中世都市が世界史のうえでもっているもっとも本質的な、他に類例をみない特色は、それが商工業に従事する生産者的市民全員の参加する誓約団体を基礎として形成された自治団体であったこと、そしてその市民が一つの特権身分として、都市外の住民とは、経済、社会の面だけではなく、法律のうえでも異質の存在であったことである。もっとも、こうした西洋中世都市の特色が鮮明に認められるのはアルプス以北、とりわけ西北ヨーロッパの諸都市であって、アルプスから南の都市、主としてイタリアの諸都市には古典古代の都市国家の伝統が残存している。南欧型中世都市は、古典古代都市と北欧型中世都市のいわば中間型にあたるとみてよいであろう。

[佐々木克巳]

イタリアの中世都市

ゲルマン人の侵入とイスラム勢力の地中海への進出以後も、イタリアの都市には商業中心地という経済機能が残っていた。9~11世紀に東地中海商業で主役を演ずるベネチアとアマルフィはいずれも6世紀ごろの成立で、ローマ都市の系譜に属するものではないが、この両港に陸揚げされる商品の一部分がアルプス以北へ仲介されていく道筋には、パビアを筆頭に多数のローマ都市がロンバルディア平原に点在していたのである。またカトリック教会の司教は、教会訓令によって都市への居住を義務づけられていたので、アルプスの南北を問わず司教座の存在は都市的定住様式の連続に貢献したのであるが、イタリアでは司教座の数が多く、また貢献の度合いも強かったようである。むろんイタリアの都市が中世都市へ脱皮していくためには、10世紀に司教都市君主制が確立し、11世紀以降商業の復活期に商人層が成長して本格的な自治権を要求することが必要であったが、その過程にも、アルプス以北にはみられないイタリアの特殊性がみられる。

 イタリアではローマ都市に隣接する形で商人の新集落が形成されることがなく、この新集落の商人全員を結集する単一のギルドが発生したこともなかった。そのうえ、上級および下級の貴族が農村の所領を売却して得た資金を投じて商業に乗り出すことが早くから、また一般的にみられると同時に、商人のなかで成功した者が商業利潤をもって土地を購入し、婚姻を通じて貴族化する傾向が早くから強かった。そのため、都市君主に対抗して自治権を獲得する運動の指導者となったのは、貴族化した商人と、商人化した貴族、それに司教に仕えていた法律家などの役人を加えた雑然とした階層であった。コムーネとよばれる自治都市成立の経過も、のちにドイツの都市参事会の形式上のモデルとなったコンソレ制がまず成立し、ついでライバル都市との競争に勝つ必要から、都市内部の平和を達成する目的で誓約団体が結成されるという順序であった。自治権は漸次買い取っていく場合が多かった。またイタリア中世都市は都市国家であり、コムーネの成立は同時にコンタードとよばれる周辺農村(神奈川県ぐらいの広さがある)に対する支配の成立を意味していた。都市法はこのコンタードにも適用されたので、イタリアの場合には都市に固有の都市法というものが存在しなかった。成立したコムーネにはコンタードから多数の領主層が移住してきて都市の政治を複雑にし、激しい党派争いが繰り返されたため、外部からポデスタとよばれるお雇い統治者をよんで、都市の政治をこれに任せることが多かった。

[佐々木克巳]

アルプス以北の中世都市

アルプス以北で中世都市がもっとも早期に、またもっとも力強く成立したのはライン川とセーヌ川の間の地域であった。この地域でも、ローマ都市は司教座の存在を通じて、ゲルマン人の移動からノルマン人の侵入までの混乱期にも集落としての連続性だけはなんとか維持することができたのであるが、市域の縮小、人口の減少、商工業の沈滞、自治制度の喪失は否定すべくもない。このようにローマ都市は過渡期には司教座の所在地であることに主要な存在理由をみいだしていたのであるが、ノルマン人の侵入の際にその石造の城壁の軍事的価値が再認識されてからは、城砦としての機能がこれに加わった。他方、動乱の時期にローマ都市とは無関係に城砦が多数建設されて、新旧2種の城砦が併存することになる。やがてノルマン、マジャール、サラセンといった外民族の侵入が終わって平和が訪れるころから、三圃(さんぽ)農法の普及による農業生産力の増大、それに伴う人口の増加、増加した労働力による開墾の進展といった一連の現象が生じ、それを背景に、フランドルの羊毛工業などを基礎として西北ヨーロッパも商業の復活期に入り、遍歴商人の活躍が目だってくる。遍歴商人はやがて定住の場所を決めて遠隔地商人となったが、その場合、西北ヨーロッパでは新旧2種の城砦の外側にそれに隣接する形で商人独自の集落が成立し、その集落の全商人を統合する単一の商人ギルドの結成がみられた。商人ギルドの結成から都市自治体の成立までのコースは具体的な政治情勢に左右されたから、西北ヨーロッパのなかでも、地域により、さらには都市によって、同一ではない。もっとも激しい形をとったのは司教都市君主制が10世紀に確立したローマ都市で、ギルドに結集した商人は都市君主との衝突も辞さないという姿勢で彼らの権益の維持・拡大を図り、彼らの指導する都市君主への反抗運動を通じて、商人集落の住民(手工業者が増加していた)と城砦の住民全体を構成員とする誓約団体を結成、この団体が都市君主の承認を取り付けることによって自治都市が成立したのである。フランドル諸都市のように俗界都市君主の場合には、都市君主と商人層の対立が尖鋭(せんえい)にならずにすむことが多かったが、しかしその場合にも、商人ギルドの指導的役割、城砦と商人集落の一体化、なんらかの形での誓約団体の結成がみられることに変わりはなかった。

 このように、原則として封建貴族を排除する形で成立した西北ヨーロッパの中世都市では、防備施設としての城壁は単に景観的に都市と農村を峻別(しゅんべつ)するだけではなく、同時にそれが、それぞれの都市に固有の都市法(商人の慣習法が発展したもの)の妥当する領域を示しており、その都市法には農村住民とは対照的な都市住民の自由な法的地位を保障する「都市の空気は自由にする」の原則が含まれていた。各都市には都市法に基づいて裁判をする独自の裁判所があり、大商人を構成員とする都市参事会が政治を担当していた。市民軍を編成して自衛を図り、市庁舎は市民の誇りであった。そして、こうした自治的な行政および軍政に必要な費用を調達するために独自の財政を運営していた。各都市はまた経済政策の主体であって、商工業の中心として市場広場を設け、禁制圏の設定や手工業者ギルドの規制の強化にみられるような閉鎖的な面と、可能な限り広い世界と通商しようとする開放的な面とをあわせもった都市経済を造形している。

 西ヨーロッパの中世都市は14世紀初頭にその数5000を超えたといわれるが、その大半は人口4000~5000人の小都市、あるいはそれ以下の微小都市であって、10万以上の人口を数えたのはベネチア、パリ、パレルモ、5万以上10万までのものはフィレンツェ、ジェノバ、ミラノ、バルセロナ、ケルン、ロンドンなど、2万以上5万までのものはボローニャ、パドバ、ニュルンベルク、ストラスブール、リューベック、ルーアン、ブリュッセルなど、6000以上2万までのものはイープル(イーペル)、ガン(ヘント)、アントウェルペン(アントワープ)、ランス、チューリヒ、フランクフルト、バーゼルなどである。

[佐々木克巳]

近世

16、7世紀にヨーロッパ経済には地すべり的変動が発生し、それに伴って繁栄の中心地である都市にも全面的な交代がおこった。ポルトガルの東インド進出とスペインの新大陸植民は、イタリア諸都市と南ドイツ諸都市が中世を通じて占めていた貿易上の戦略的地位を掘り崩し、これにかわってリスボンが時代の脚光を浴びる。低地地方ではイギリス産原毛を輸入することがむずかしくなったフランドル諸都市が衰え、ヨーロッパの「世界市場」はブリュージュからアントウェルペンへ、さらにアムステルダムへと移っていく。エアスン(ズント)海峡経由の迂回(うかい)航海の達成はリューベック、ハンブルクなどハンザ諸都市の繁栄の基礎を破壊した。総じて経済政策の主体が都市から国民国家ないしは(ドイツの)領邦国家にかわったこの時代に華々しい発展を誇るのは、直接間接に国家権力を背景にもった都市、とくにパリ、ロンドン、ウィーンなどの首都であった。その間、中世都市はおおむね国家権力に自治権を奪われ、沈滞してしまった。

[佐々木克巳]

近代

中世西ヨーロッパでは全人口に対する都市人口の比率は約10%、これより高い比率を示したのは低地地方と北イタリアの約30%だけであった。イングランドとウェールズの人口は、17世紀末のある統計家の推定では約550万、都市人口の比率は約25%であった。ところが1851年の第6回国勢調査の結果では人口約1800万、都市人口の比率は約50%という世界史上おそらく前例をみない高さに達している。こうした都市化現象は18世紀末のイギリスで始まった工業化の結果であったから、もっとも代表的な近代都市の型は工業都市である。イギリス木綿工業の中心地マンチェスターの人口は1750年には2万以下であったのが、1801年に7万5000、1841年に約25万と増加し、1881年には50万を突破した。他方、資本主義経済は国内市場と世界市場の双方に立脚しているため、中央官庁、銀行、各種取引所、商社など国民経済および国際経済の中枢機能を担当する諸機関が集中している首都や港湾都市が近代都市を代表するもう一つの型を示している。急速に発達した近代巨大都市は種々の都市問題を抱え込みながら国家行政のそれへの対応に遅れが目だち、他方、市民の間では自治意識が希薄化してしまった。

[佐々木克巳]

中国
都市の国

中国では、黄河文明の初めから、計画された都市を建設して定住することが行われ、こうして殷(いん)・周約1000年の都市国家時代を経験し、その間に発達した都市の文化や伝統は、続く秦(しん)・漢から清(しん)まで約2000年の官僚制のもとで、郡県ないし州県という都市制度に引き継がれ、内容と広がりを豊かにしつつ清末に及んでいる。M・ウェーバーが「農村の国」のインドに対して、中国を「都市の国」と考えたのは、このような都市定住、都市文化、そして都市化の、世界にもまれな持続性をさしているのである。

 文化の面で都市は、黄河文明の拡散、つまりシナ化の中枢拠点であったばかりでなく、社会経済的、政治的組織の発展からみても、たとえば辺地の拓殖、農村の都市化、全国的政治・経済統合の諸局面において、組織の網の目の結節点として重要な機能を果たした。広大で豊かな大農業地と、発達した河川網に恵まれた中国の大領域は、この都市網によって骨組みを与えられ、一つの均質な文明単位にまとめられたのである。

[斯波義信]

邑――都市の発生

殷・周の青銅期時代、人々の生活と文化の拠点となったのは大小の邑(ゆう)である。邑は交通の要所に立地し、城壁と市街を備え、祭壇や大建築、青銅・陶器・酒の製造所があり、貢納品や貿易品が集散して、王侯、貴族の「収入経済」を支えた。市里(しり)とよぶ市(いち)は集会、祭礼、交換、社交の場であった。大小の邑は祭祀(さいし)と軍事で連盟してブロックをつくり、王がこの連盟の頂点にたった。点と線で結ばれたこの都市国家時代の社会組織の根底は氏族制であったが、春秋戦国時代に鉄器が普及し始め、氏族制は解体して、領土国家による統一を目ざして社会は変動した。伝説で太古に万国、殷初に3000余、周初に1000余、春秋に100余国に変じたといわれる邑ブロックの統合は、点から面への領土的統合を表明している。

[斯波義信]

邑から県へ

無数にあった邑は、秦・漢の官僚制による帝国のもとで県に整理され、紀元2年には1587県があった。人口6000万に対し、1県4万の割合である。当時は広大な社会に比べて中央政府や官僚、軍隊の規模は小さく、商工活動は県どまりであったので、県城(城壁に囲まれているのでこの名がある)が社会の都市化のなかで果たした役割は、一義的には帝国が独占する行政、治安、儀礼、文化の支配とサービスにあり、二義的に地方商工活動の中枢機能であった。政府は県に官庁、軍隊、警察を置き、孔廟(こうびょう)や天地諸神の祭壇、図書館を設けたほか、商工業の独占的統制の手段として、城の一角に市を設立した。市には市庁が置かれ、商店を業種別に並べ、営業時間を限り、商人を市籍に登記し、市租をとり、価格の報告を義務づけた。こうして県城相互および県城とその近郊農村一帯に商業経済網が広がった。六朝(りくちょう)には拓殖された辺地や県境に集村が散布して村市が散発的に登場する一方、道教、仏教の信仰が、都市に寺院、道観を登場させたが、県城が閉鎖的な政治、軍事、商工統制の拠点である事態は、隋(ずい)・唐時代まで続いた。

[斯波義信]

商業革命と都市の変革

唐の最盛期には、長安、洛陽(らくよう)、揚州、広州などの大都会は、国内・海外貿易で栄え、貴族趣味と国際色あふれる文化を誇ったが、唐代なかばから宋(そう)代に商業革命が起こって、大変革が都市に及んだ。両税法の施行に伴って政府の商工統制は弛緩(しかん)し、これまで県城に限って市を公設し、都市商工業を時間、場所で統制する原則は崩れ去り、商工組合が生まれ、都市近郊が市街化し、農村の経済活動の成長を反映して、半都市=鎮(ちん)や村市が無数に発生した。

 この新事態のために、政府の県城を媒介とする地方社会との交渉は2系列に分かれた。一つは、伝統的県―郷(きょう)―村に及ぶ徴税・治安の政治的支配・交渉の系列を温存し、当時確立した科挙制にあわせてタテの一元交渉を貫徹する路線である。県城数は740年に1573、1080年に1135、1730年に1360と、人口増を度外視してほぼ一定しているのは、この政治的配慮を反映している。もう一つの系列は、県―鎮・市―村に及ぶ経済交渉の路線である。宋は多発した鎮や村市を一定数に整理し、専売、内地税の徴収に便にし、一定限度の治安や司法の保証を与えた。このため村民の経済・社会の実生活は村市を媒介として鎮に組織され、鎮は農村の経済・社会活動と、県城レベル以上の国内商業や都市的な文化を上下に連絡する重要な機能を果たした。

 こうした鎮や村市の発達によって、社会の都市化は低辺部分で充実し、その上にたつ県城以上の都市の文化や商工活動も幅と規模を広げた。宋以後、県城に学校が置かれ、書院や私塾が都市を中心に広がり、演劇や小説などの新興の都市文化も鎮や村市に伝わるようになった。新興勢力の地主や商人も県城や鎮に拠点を置いて活動するようになり、やがて明(みん)代以後、農村に手工業や商業作物が普及するようになると、県城、鎮、村市の結び付きは強まった。こうして明・清時代には、地方の県城や鎮に拠(よ)る郷紳(きょうしん)、金融業、大商人らが社会の中間層を形成し、発言力を高めるようになった。

[斯波義信]

中国の都市形態の特徴

さて、中国都市の形態、デザイン、理念は、中国の生態、歴史条件と深くかかわっている。農業社会であるために、陽光の射し込む南北軸、とくに南面が尊重された。また定住にあたって古来、河川流域沿いの低地、扇状地を優先的に選んだので、都市建設に明らかな低地志向があり、西欧にみられる鉱山や温泉に立地する都市は少ない。また、天人相関の立場で、小宇宙を地上の都市に表現するとき、「天円地方」の考えから、南北軸上に東西南北の基本方位を定め、方形、矩形(くけい)の都市デザインが生まれた。低地は豊かである反面、外寇(こう)、内乱、洪水、疫病などの社会不安を招きやすく、中国都市は防衛色が強い。不安は俗界、霊界のそれを含み、北方は兵難や悪鬼の入る鬼門と考えた。都市を城壁で囲み、東西南北に道路を通せば、都市区画は「田」字型となるが、北門はふさぐことが多く、この際街路は「丁」字型となる。初期の伝統形成期に官治の色彩が強かったため、先秦時代に「前朝(ぜんちょう)、後市(こうし)、左祖(さそ)、右社(ゆうしゃ)、左右民廛(みんてん)」という、行政優位の地割の基本がなり、このノルムが秦・漢以後の都市建設にあたり、都市に帝国支配の象徴性を表現する配慮をあわせて、長安、洛陽や多くの都市にみられる画一的な都市プランを生じた。傾斜地に富む江南への発展や、風水説の受容で、後代には変差も多いが、伝統への復原力も強く、北魏(ほくぎ)の洛陽、隋・唐の長安、明(みん)の南京(ナンキン)、北京(ペキン)、清の北京の形態には、古来の理想や伝統が忠実に守られている。唐代の都城プランは東アジア周辺にも影響した。

[斯波義信]

日本


 日本の歴史上には多種多様な都市が生まれた。これらの都市は、その機能や性格に基づき城下町、門前町、港町、宿場町などと呼称されているが、その形成過程からみると、権力側が主体となるものと、民衆側が主体となるものとがある。ここでは、この都市形成の二つのコースの絡み合いを軸として、それぞれの都市が各時代ごとにどのような特質をもって存在していたかを明らかにしていくことにする。

[市村高男]

古代都市――都城と国府

日本古代の都市としてまずあげられるのは、藤原京(ふじわらきょう)、平城京(へいじょうきょう)、後期難波京(なにわきょう)、長岡京(ながおかきょう)、平安京(へいあんきょう)などの都城(とじょう)である。中国の制度を模範とする律令(りつりょう)制的都城の原型は、前期難波京にあるといわれているが、宮城と整然たる条坊街区=京域からなる藤原京の造営は、日本における都城の成立を画するものであった。藤原京よりさらに整備された平城京は都城の典型といわれ、その人口は約20万と推計されている。これらの都城は、律令制の成立に伴って形成されたものであり、それゆえ天皇の居住地、国家的行政機関の所在地であるという性格を第一義的にもつこととなった。たとえば平城京の場合、全人口の約4分の1が官人やその家族など、平城宮という官庁機構の存在を前提として京域に住む人々であり、また京戸=都城内一般住民も政府の事業のもとで労役に従事する者が多く、総じて政府への依存度の高さは顕著であった。もとより、これらの都城の京域には、東西の市(いち)が置かれて商業の中心となっていたが、当時の商業の主要な担い手は下級官人や大寺院に属する者たちであり、その商業自体も政府の行う事業に依存する傾向が強かった。その意味で、都城はいずれも上から設定された政治都市であったといえる。

 一方、各国に置かれた国府(こくふ)は、都城の縮小版とする意見もあるが、最近の研究では、かならずしも条坊街区を伴うものではなく、国衙(こくが)を中核として、国務を分掌する役所や国司(こくし)らの居宅たる館(たち)、国衙の機能を支える徭丁(ようちょう)や工人らの住居・工房などからなる周辺地域、という漠然とした範囲が本来の姿であったといわれている。国府は主要交通路を意識して設営され、付近に津・市などを伴うことが多く、未熟ながらも都市的な場となっていた。

[市村高男]

中世前期の都市――三都と府中

古代の帝都であった平城京、平安京は、10世紀を境に変質し、院政期には中世都市奈良、京都へと発展した。奈良はすでに中世前期に帝都としての性格を失っていたが、東大寺(とうだいじ)、興福寺(こうふくじ)、春日社(かすがしゃ)など大寺社の門前町の複合体として発展し、寺社勢力の拠点となっていた。また京都は、平安京のうち左京に形成された下京(しもぎょう)と、京外に成立した上京(かみぎょう)、さらにその周辺部の祇園社(ぎおんしゃ)・北野社(きたのしゃ)・清水寺(きよみずでら)・東寺(とうじ)などの門前町からなる複合都市に変容していった。京都は古代の中央集権的構造を継承しつつ、荘園公領制(しょうえんこうりょうせい)下の首都、つまり荘園領主である貴族たちの集住地となり、荘園年貢、雑公事(ぞうくじ)などの現物的富を集中させ、全国経済の中枢となっていた。

 これに対して鎌倉は、新たな権門(けんもん)として成長した武家が、鎌倉幕府の全国支配の拠点として形成した都市であり、鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)と若宮大路(わかみやおおじ)を基本とする市中には、幕府や御家人(ごけにん)屋敷群が建ち並び、その周縁部には町屋・寺社を配し、さらに和賀江(わかえ)、六浦(むつら)などの外港も付属させていた。武家の集住地である鎌倉は、彼らの各所領からの年貢物を集中し、また中国などとの交易によって種々の文物がもたらされ、京都に対抗しうる政治・経済・文化の中心地となっていた。

 こうした三都のほかに、各国の中心として発展していたのが府中(ふちゅう)である。府中は10世紀以降古代国府が変質し、院政期に中世都市に転化したもので、在庁官人(ざいちょうかんじん)となった地方有力武士たちの一国結合の場であった。鎌倉幕府から各国に配置された守護(しゅご)は、在庁官人の後を受けて府中に拠(よ)る場合と、新たに守護所を設けて府中とする場合とがあったが、いずれにせよ府中は一国の軍事行政の中心となっていた。府中と守護所とが一致する所では、政庁地区を中心とした官衙、在庁官人居館群、国衙関係寺社群、国衙工房群、周縁部の津・宿・市などからなる複合都市としての発展をみせていたが、新たに守護所を設けて府中とした場合は、守護館や付属官舎、一部の家臣屋敷を中心として、周辺の要地に成立していた津・宿・市などを掌握するにとどまった。府中に準ずる都市としては、一宮(いちのみや)を中心に形成された宮中(みやちゅう)があり、また守護に匹敵するような有力在地領主の拠点も、居館、若干の家臣屋敷のほかに津・宿・市などを伴う都市的な場となっていた。

 権門都市京都、鎌倉の成立とともに、古代の交通体系はこの二大都市を中心に再編され、たとえば鎌倉へ集中する新たな交通網は鎌倉道とよばれた。こうした中世的交通体系は、権門都市・荘園間の年貢・公事運搬ルートを基軸に、権門都市と府中、府中と府中とを結び付け、その間の要地に津・宿・市などの中継都市を成立させた。こうした中継都市は、そのまま独自の発展を遂げる場合と、在地領主の居館や地方寺社と結び付いて館町(やかたまち)や門前町となる場合とがあった。これらは権門都市や府中に比較すればなお微弱な存在であったが、尾道(おのみち)、兵庫、博多(はかた)、十三湊(とさみなと)など府中を凌駕(りょうが)するものもしだいに現れた。

[市村高男]

中世後期の都市――権力と自治の相克

室町幕府の成立によって、京都は武家による全国支配の拠点として各地の武士を集住させ、武家の町という性格を強くした。このころから京都の都市的発展がいっそう進み、道路を媒介とする両側町(りょうがわちょう)が形成され、武家・公家(くげ)勢力の後退する室町末・戦国期には町(ちょう)共同体を基礎とする市政機構も成立、いわゆる「町衆(ちょうしゅう)」の自治都市へ発展する。奈良でも、商工業の発展に支えられ、郷民たちが興福寺と抗しつつしだいに自治都市化を遂げていった。これに対して鎌倉は、鎌倉幕府の滅亡、室町幕府の成立によってその地位を相対的に低下させるが、鎌倉府の設置とともに関東支配の拠点として再生し、足利成氏(あしかがしげうじ)の古河(こが)退去に至るまで、京都に次ぐ政治都市であった。戦国期の鎌倉は、後北条(ごほうじょう)氏の直轄下に置かれて小田原(おだわら)の拠点機能を補いつつ、関東屈指の経済・文化の中心となっていたが、京都・奈良のような商工業者を中心とした自治組織は、権力支配の下にあったために、顕著な発展を遂げなかった。

 こうした三都の変質過程は、同時に既往の地方中小都市の発展と新たな中継都市の族生の過程でもあった。南北朝~室町期以降、守護や国人(こくじん)領主の領域支配の進展は、彼らの拠点にいっそうの政治的・経済的中心機能を要求することになる。それゆえ彼らは既往の都市や族生する中継都市の掌握を目ざして近隣の領主と競合し、あるいは本拠移動を試みつつ新たな城郭都市を形成する。

 この城郭都市は、城郭とその周囲の家臣団屋敷・寺社群、周辺地域の枢要な津・宿・市・関や門前町など1~数個の町場(まちば)から構成されているが、これが初期城下町(戦国城下町)とよばれるもので、領主権力の保護と統制を受けて室町~戦国期に各地に形成される。初期城下町形成の前提には、中世後期の経済発展に伴う中継都市の族生という条件があった。こうした中継都市は、地理的・自然的条件の優位性と民衆の営為に加え、領主権力との接触という政治的条件のもとで急速に発展し、各地における経済的中心集落となった。これに寺社が結合すれば門前町に、また城郭が結合すれば初期城下町となった。戦国期の都市発展は、これらの中継都市がおのおのの固有の機能をもとに拡大するか、または城下町化して権力支配の基地として機能するか、の二つの方向で展開する。前者の方向で発展すれば、商工業者を中心とした共同組織を成長させ、堺(さかい)・博多に代表される自治都市への道を歩むことになる。

 戦国期にはもう一つ特徴的な宗教都市、寺内町(じないまち)が形成される。寺内町には山科(やましな)・石山(いしやま)のように真宗(しんしゅう)オルグが上から設定する場合と、富田林(とんだばやし)・富田(とんだ)のように在地土豪らが主体となって形成する場合とがあり、前者は既成の中継都市の吸収、再編によって成立するもので、一種の城下町的性格を有し、その計画的都市プランは近世城下町の前提となった。これに対して後者は、真宗寺院を核にするとはいえ、一般民衆の交易の中心ともなりうるもので、近世の在町(ざいまち)的な性格をもっていた。

[市村高男]

近世都市――城下町と在町

織田信長による安土山下町(あづちさんげまち)建設は、近世城下町形成の画期となり、以来豊臣(とよとみ)期から幕藩制の成立期にかけて、各地に次々と新たな城下町が建設された。近世城下町は、寺内町の都市建設プランを摂取しつつ、戦国期に進展した城下整備・振興政策を総括し、一挙に創設された新町であり、下からの都市形成の動きや都市自治の発展に対する領主権力側の対応であった。初期城下町が城と町との非一体性を特色とするのに対し、近世城下町は両者を一体化したばかりでなく、石高(こくだか)制、兵農分離の実施によって、年貢米と在地武士・商工業者を城下へ集住させ、侍町(さむらいまち)、町人町(商人町、職人町)、寺社町など、身分・職種による居住地の地域的分離を実現した。城下町の商人・職人は、種々の特権を付与されて領国経済を支配し、大名やその家臣団の支配と生活を維持・再生産する役割を果たした。こうして城下町は、各領国内で卓越した政治・経済・文化の中心として位置づけられた。そして各城下町の中心機能を統括する都市として建設されたのが将軍の居住する城下町江戸であった。

 江戸は、城下町的に改造された京都、寺内町石山の圧服のうえに建設された城下町大坂とともに新たな三都となり、その規模のみならず、政治・経済・文化の中心機能においても一般城下町を圧倒する巨大都市に成長していった。三都のうち江戸は、諸大名が参勤交代する首都=政治都市としての性格を第一義的に有し、また大坂は年貢米・特産物の換金機能などを担う経済都市としての側面を基本的属性としていた。

 一方、各領国内には港町、宿場町、市場町や門前町も多数存在したが、これらの諸都市は戦国期以来直線的に発展してきたのではなく、幕藩制の成立に伴い近世都市として再編されたか、あるいは新たに形成されたものであった。またかつての支城下町が、支城の廃城によって港町、宿場町、市場町などの本来の都市機能を再生したものも少なくない。幕藩領主は港町や一部の宿場町・門前町を町方(まちかた)として認定したが、それ以外は法的には村方と位置づけられて、その交易活動を抑止された。この村方にありながら町として活動している農商工未分離の町場が在町であり、農民の日常的必要物資(非需給物)の供給地として機能した。これに対し、町方とされた港町・宿場町などは、遠隔地交易や交通路維持のために伝馬役(てんまやく)を課されるなど、城下町の経済機能を補完し、領国統治を支える役割を担わせられた。近世初期に新たに形成された中継都市には、こうした領国経済統制の目的のもとに上から設定されたものが多い。

 近世なかば以降、農村経済の発展に伴って在町の本格的な繁栄が始まる。在町は周辺農村からの人口流入によって町域を拡大させていくが、その住民のなかには、地主として農地を所持しながら、特産物生産・流通や質屋・酒屋などの営業を行う商人地主が現れ、周辺農村の零細農民を吸収し、田畑耕作・日雇い稼ぎなどに従事させるようになる。こうして在町は、周辺農村との結合を強化しつつ、当初のように単なる農民の日常的必要物資を補給するだけではなく、特産物の生産・流通の結接点ともなり、商人地主のなかには城下町への進出を試みる者も現れた。これに対して城下町の特権商人たちは、在方(ざいかた)商業を否定または制限しつつ、在町の経済機能を城下町に吸収しようとするが成功せず、結局は領国経済全体の掌握を断念し、城下町限りの経済的発展に力を注ぐようになる。こうした領国経済における城下町の地位の変化は、その内部の構造変化とも対応関係にあった。城下町では、領国内の農村から集まった武家奉公人や零細農民たちがそのまま定着して日雇い稼ぎや行商となる場合が多く、こうした都市下層民の増大は、街道筋や町裏に場末町を形成した。また足軽(あしがる)などの下級武士も日雇い稼ぎなどに従事する事実上の都市下層民となっており、城下町外縁部には彼らの集住する町も成立していた。こうして城下町の整然とした都市プランや職種・身分による地域的分離がしだいに崩れていった。都市下層民の増大など、都市の内部矛盾は三都においてもっとも明確に現れた。

[市村高男]

近代都市の成立

明治維新を境として近世都市は大きく変質を遂げる。それまで幕藩権力の保護下にあった三都、城下町、港町などは、幕藩制の崩壊とともにその特権的地位を失い、しばらくは衰退もしくは停滞期を迎える。とくに城下町は、中下級武士の没落による侍町の荒廃、それに伴う商業の衰微によって都市機能が大きく後退した。これに対して在町は、城下町から完全に自立化して発展を遂げる所も少なくなかった。しかし城下町の場合、地理的・経済的に恵まれた条件の所に立地していたこともあって、明治政府がこれを地方支配の拠点として利用すべく、県庁などの官庁、学校、軍事施設などを設置したため、ふたたび主要都市としてよみがえるものが多かった。さらに明治なかばの市町村制の施行や、産業革命とそれに伴う鉄道を中心とする交通体系の整備のなかで、かつての近世都市の多くは近代都市へと脱皮していった。その間、工業都市として新たに勃興(ぼっこう)するものがある一方で、基幹産業や交通幹線から除外され衰微した所も少なくなかった。つまり近代都市は資本主義の展開のなかで再編されて今日に至ったのである。

[市村高男]

『藤岡謙二郎著『日本の都市――その特質と地域的問題点』(1968・大明堂)』『磯村英一編『都市問題事典』(1969・鹿島出版会)』『木内信藏著『都市地理学原理』(1979・古今書院)』『西村幸夫著『西村幸夫都市論ノート――景観・まちづくり・都市デザイン』(2000・鹿島出版会)』『大久保昌一著『都市論の脱構築』(2002・学芸出版社)』『ウェーバー著、世良晃志郎訳『都市の類型学』(1964・創文社)』『増田四郎著『都市』(1968・筑摩書房)』『ピレンヌ著、佐々木克巳訳『中世都市』(1970・創文社)』『『中世史講座3 中世の都市』(1982・学生社)』『谷岡武雄著『ヨーロッパ 都市の歴史街道』(2000・古今書院)』『A・フルヒュルスト著、森本芳樹他訳『中世都市の形成』(2001・岩波書店)』『斯波義信「中国都市をめぐる研究概況」(『法制史研究 23』所収・1974・創文社)』『高村雅彦著『中国の都市空間を読む』(2000・山川出版社)』『斯波義信著『中国都市史』(2002・東京大学出版会)』『G. William Skinner (ed.)The City in Late Imperial China (1977, Stanford University Press, Stanford)』『小野均著『近世城下町の研究』(1928・至文堂)』『松本豊寿著『城下町の歴史地理学的研究』(1967・吉川弘文館)』『鬼頭清明著『日本古代都市論序説』(1977・法政大学出版局)』『脇田晴子著『日本中世都市論』(1981・東京大学出版会)』『豊田武・原田伴彦・矢守一彦編『講座日本の封建都市 第1巻』(1982・文一総合出版)』『松本四郎著『日本近世都市論』(1983・東京大学出版会)』『辻村明著『地方都市の風格――歴史社会学の試み』(2001・東京創元社)』『阿部和俊著『20世紀の日本の都市地理学』(2003・古今書院)』『橋爪紳也著『モダン都市の誕生――大阪の街・東京の街』(2003・吉川弘文館)』

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