郭守敬(読み)かくしゅけい

精選版 日本国語大辞典 「郭守敬」の意味・読み・例文・類語

かく‐しゅけい クヮク‥【郭守敬】

中国、元代の科学者。字(あざな)は若思。世祖フビライに仕え、水利土木事業功績を上げる。のち、従来の「大明暦」にかわる、中国暦法史上画期的な新暦授時暦」を作製した。(一二三一‐一三一六

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デジタル大辞泉 「郭守敬」の意味・読み・例文・類語

かく‐しゅけい〔クワク‐〕【郭守敬】

[1231~1316]中国、科学者。順徳邢台(河北省)の人。あざなは若思。算術・水利に精通し、各地の水利事業に従事。天文観測器を考案・製作して観測を行い、新暦の編纂に加わり、授時暦を完成させた。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「郭守敬」の意味・わかりやすい解説

郭守敬
かくしゅけい
(1231―1316)

中国、元代に活躍した天文学者、儀器製作者、水利家。順徳邢台(けいだい)(現、河北(かほく/ホーペイ)省邢台県)に生まれ、祖父の郭栄(生没年不詳)から水利技術、天文学、数学の手ほどきを受け、蒙古(もうこ)帝国(1271年より国号を元とする)の世祖フビライ・ハンの謀臣で郭栄と親しかった劉秉中(りゅうへいちゅう)(1216―1274)の門下に入って、張文謙(1216ごろ~1283ごろ)や王恂(おうじゅん)(1235―1281)らと知り合った。1262年より世祖に仕え、治水事業に携わって功績をあげ、黄河の源流の調査や、大都(現、北京(ペキン))―開封(かいほう)間に沿った海抜高度の初の測定も行った。

 1276年、元が宋(そう)を滅ぼすと、張文謙の統轄の下で改暦事業が始まり、王恂の推挙でこれに加わった。新設の太史院では王恂が太史令、郭守敬は同知太史院事となって事にあたり、簡儀、高表などの観測器の開発・製作と、冬至の日時の確定、各地の緯度の測定、星の位置観測などの実際観測を担当した。新暦は1280年に編纂(へんさん)が終わり授時暦(じゅじれき)と命名され、翌1281年から頒行されたが、なお暦表などが未完成のまま1282年に王恂が死去したため、太史令を継いで定稿を完成した。授時暦は王恂による創意ある計算法と郭守敬による精密な観測に基づいており、中国でつくられたもっとも優秀な暦とされる。その形式は中国暦学の伝統のうえにたつもので、当時すでに中国に伝わっていたイスラム天文学の直接の影響はないが、彼の製作した観測器にはその影響がみられる。

 晩年は都水監を兼任してふたたび水利事業にも携わり、1293年には大都を通る大運河(白浮堰(はくふえん)と通恵河)を完成させた。

[宮島一彦]

『藪内清著『中国の天文暦法』(1969/増補改訂版・1990・平凡社)』『山田慶児著『授時暦の道 中国中世の科学と国家』(1980・みすず書房)』

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改訂新版 世界大百科事典 「郭守敬」の意味・わかりやすい解説

郭守敬 (かくしゅけい)
Guō Shǒu jìng
生没年:1231-1316

中国,元代の天文学者,数学者,水利技術者。字は若思,順徳(河北省)邢台の出身。早くから天文暦学,水利の学を学び,また世祖フビライの謀臣の劉秉忠(りゆうへいちゆう)に学んで,元朝に仕え,華北の水利事業に参加した。1276年(至元13)改暦の命令が下り,許衡,太史令(国立天文台長)の王恂,楊恭懿(ようきようい)らとともに新暦作成の研究に従った。王恂は理論計算を行い,彼は観測儀器の製作と観測に従事し,天文台を建てた(観星台。河南省洛陽告成鎮)。新暦は80年に完成して授時暦の名が与えられ,翌年からこの暦法体系によって暦が配布された。この編暦における郭守敬の考え方は,〈暦の本は測験にあり,而して測験の器は儀表に先だつものはなし〉という理論と実際の観測を結びつけた点にあった。高さ40尺におよぶ巨大ノーモン(高表)をはじめ,渾天儀(こんてんぎ),簡儀など十数種の観測器械を製作し,27地点での実測によって7種の基本定数を改定し,7種の新法を導入した授時暦は中国暦法史上最高の位置を占める。王恂の死後,彼は太史令となって授時暦の著作をまとめた。都水監を兼任して,大都(北京)と通州を結ぶ運河(白浮渠と通恵河)を完成させ,94年には昭文館大学士兼知太史院事に昇任した。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「郭守敬」の意味・わかりやすい解説

郭守敬
かくしゅけい
Kuo Shou-ching

[生]元,太宗3(1231)
[没]延祐3(1316)
中国,元の科学者。字は若思。劉秉忠 (りゅうへいちゅう) の門に入って学ぶ。水利と器巧に秀で,水利工事を多く行い,至元8 (1271) 年都水監に進む。同 13年以後王恂 (おうじゅん) らとともに改暦事業に従事,特に天文儀器の設計と観測を行い,授時暦を完成。『授時暦経』 (3巻) ,『立成』 (2巻) ,『転神選択』 (2巻) ,『上中下三暦注式』 (12巻) ,『暦議擬しょう』 (3巻) を上進した。なお授時暦は,当時入ってきたイスラム系天文,暦法の影響,刺激のもとに作成されたのである。

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百科事典マイペディア 「郭守敬」の意味・わかりやすい解説

郭守敬【かくしゅけい】

中国,元代の科学者。世祖フビライに仕え,天文学,工学に大きな業績を残す。暦法の改定にも加わり,1280年授時暦を制定。日本の貞享暦はこれを基礎とする。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「郭守敬」の解説

郭守敬(かくしゅけい)
Guo Shoujing

1231~1316

元の科学者。順徳邢台(けいだい)(河北省邢台県)の人。算術,水利に精通し,世祖クビライに仕えて多くの水利工事を行った。のち暦法修定に参加し,1280年授時暦を制定し,太史令となった。

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世界大百科事典(旧版)内の郭守敬の言及

【邢台】より

…1953年県城邢台鎮に市制が施行されたが,県人民政府もここにおかれている。元の郭守敬の墓や北魏の石仏が有名。【河野 通博】。…

【授時暦】より

…中国,元代の郭守敬,王恂,許衡らによって制定された暦法。太陰太陽暦。…

【大運河】より

…ついで92年には第3の通恵河が開かれた。これは郭守敬の設計によるもので,北京から通州(北京市通県)までをいい,通州からは白河によって直沽に達した。ここに3区にわたる運河がつぎつぎに完成し,今日の北京から杭州に至る約1600kmの大運河体系ができ上がったのである。…

【大都】より

… 大都の都市プランはフビライの謀臣劉秉忠(りゆうへいちゆう)(1216‐74)が定め,モンゴル人のエスブハ,西域系の也黒迭児,漢人軍閥張柔らが施工の任にあたった。水利工事に意を用いたのは郭守敬であった。大都は,宮城・皇城・外郭城からなる三重の矩形囲郭で,外郭の全周は60里(実地発掘調査によると,周囲は約28.6kmのやや南北に長い長方形),市街は50坊に区画され,外郭の東南西3面に3門ずつ,北面のみ2門の計11の城門をもつ。…

※「郭守敬」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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