精選版 日本国語大辞典 「部」の意味・読み・例文・類語
ぶ【部】
べ【部】
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「とも」とも訓(よ)む。倭(やまと)王権による民衆統治のための政治的な組織、集団。『古事記』『日本書紀』をはじめ『正倉院文書』など、奈良時代の諸文献には、「某部」を称するおびただしい数の人名がみられる。これらの人名は、(1)馬飼(うまかい)部・鍛冶(かじ)部・鳥取(とっとり)部など職業名を帯びるもの、(2)蝮(たじひ)部・穴穂(あなほ)部・勾(まがり)部など皇族名・宮(きゅう)号を帯びるもの、(3)大伴(おおとも)部・蘇我(そが)部・物部(もののべ)など豪族の氏名(うじな)を帯びるものなど、大きく3種に分類され、(1)は一定の職掌・技術をもって、朝廷に番上して奉仕したり、製品を貢納する職業部=「品部(ともべ)」、(2)はいわゆる皇室所有民=名代(なしろ)・子代(こしろ)で、皇族にもっぱら奉仕・貢納するもの、(3)は主として中央の有力豪族に奉仕・貢納する豪族所有民=部曲(かきべ)と解して、律令(りつりょう)国家成立以前の一般民衆の大部分が、倭王権によってかかる制度のもとに組織化されていたとみるのが今日の定説である。そして、かかる部の制度を総称して、部民(べみん)制あるいは伴造(とものみやつこ)―部制(べせい)とよんでいるのである。したがって、部の制度は、倭王権による民衆統治のための政治的な組織といえるのである。
[大橋信弥]
部の制度は、5世紀の後半、百済(くだら)の「部司(ぶし)制」(内官としての穀部・肉部・馬部など12部、外官としての司軍部・司徒部・司寇(しこう)部など10部で構成される)の影響を受けて成立したとされるが、「部」字の始用については、6世紀以降とする説や、天智(てんじ)朝の「庚午年籍(こうごねんじゃく)」からとする見解もあり、かならずしも定説化していない。ただ、部の制度が新たに外来の制度として成立したのではなく、それ以前からわが国固有の制度として存在していたトモ(伴)制を再編・拡充して成立したものであることについては、ほぼ通説化しているといえよう。
トモ制のトモとは、文字通り王の「お伴(とも)」=従者の意であって、王権に直属する萌芽(ほうが)的な官僚組織といえるが、周知のように、わが国における国家の発生を示す邪馬台(やまたい)国の段階にあっても、卑奴母離(ひなもり)・弥弥那利(みみなり)などの萌芽的な官名がみえるように、王権の形成・発展に伴って、それを維持・拡充するための、自然発生的な政治組織がしだいに形成されたと考えられる。トモ制もそのようななかで、王権にとって必須(ひっす)の職務を、朝廷に番上して奉仕する内廷的なトモの制度として出発したとみられる。このことについては、かならずしも史料的に証明することはできないが、令制下にあっても、「負名氏(ふみょうし)」として、伝統的な職掌をもって朝廷に奉仕していた、畿内(きない)の中小豪族が該当すると考えられる。殿部(とのべ)として主殿(とのも)寮に関与し、「葛野主殿県主(かずののとのもりのあがたぬし)」とも称せられた、山城(やましろ)の有力豪族、鴨(かも)県主氏などがその代表例といえる。そしてかかるトモ制は、5世紀後半代までには、外廷的なトモにも拡大・再編され、いわゆる大伴連(おおとものむらじ)氏、物部連氏、忌部首(いんべのおびと)氏などの中央の伴造氏が、それぞれの職掌を分担して、各地のトモ(部)を引率し、番上・奉仕する、伴造―部制が成立したと考えられるのである。そして、この段階で百済からの部司制の導入があった可能性については、先に触れたとおりである。
[大橋信弥]
一方、このような伴造―部制の発展は、従来かかる制度の圏外にあった、皇族・有力豪族に私的に所属していたトモなどへも、しだいに波及し、いわゆる名代・子代や民部(部曲)が成立したとみられる。すなわち、かつては地方の有力豪族から、なかば人質的に、舎人(とねり)や膳夫(かしわで)、靫負(ゆげい)、采女(うねめ)として、皇族の宮に出仕していた、いわゆる近侍的トモを名代・子代として再編し、白髪部舎人(しらがべのとねり)や勾靫部(まがりのゆげいべ)のように、宮号+部+舎人・靫負と称するとともに、有力豪族の私的な隷属民、配下についても、いわゆる「品部」とは区別して、豪族名+部を付した民部として確定していったと考えられるのである。そして、この名代・子代や民部の成立時期については、かつて5世紀代に求める見解が有力であったが、近年においては6世紀以降に形成されたと考えられており、名代・子代については、推古(すいこ)朝前後に、后妃のための私部(きさきべ)や、皇子女のための壬生部(みぶべ)に、さらに統合・再編されたと考えられている。このような部の制度の発展の背景としては、倭王権の政治組織が、氏族制的な古い体制から官司制的な体制へ、しだいに転換したことが指摘されている。
以上のように、部の制度は、倭王権の萌芽的な官僚組織としてのトモ制から出発し、その全国的な発展と官司制の整備によって、律令国家成立以前における、民衆統治の中心的な組織となったとみられるのであるが、その場合注意すべきは、このような部の制度の発展が独自になされたのではなく、名代・子代が国造(くにのみやつこ)の民を割いて設定されたといわれ、屯倉(みやけ)の田部が名代・子代の民によって構成されるように、国造制や屯倉制の発展と密接な関連のもとになされたことであろう。
[大橋信弥]
部の制度が倭王権の中枢的な政治組織であったことは、いわゆる公地公民制を基礎とした律令国家の出発を理念的に表現したとみられる「大化改新詔」の第1条に、部の制度の廃止がうたわれていることから、端的に知ることができるが、事実、孝徳(こうとく)朝の諸詔や、天智朝の「甲子(かっし)の宣(せん)」などを経て、部の制度は廃され、国家による直接的な民衆統治の制度として公民制が形成され、その基礎のうえに古代律令国家が成立したのである。そして、天智朝の庚午年籍によって確定された部姓は、律令制的な氏姓としての機能を果たすことになるのである。
[大橋信弥]
『津田左右吉著『日本上代史の研究』(1957・岩波書店)』▽『井上光貞著『日本古代史の諸問題』(1971・思索社)』▽『平野邦雄著『大化前代社会組織の研究』(1969・吉川弘文館)』
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出典 図書館情報学用語辞典 第4版図書館情報学用語辞典 第5版について 情報
大化前代の支配組織。大和政権ないしそれに属する大王(おおきみ)一族や中央豪族の必要とする労力・技能・生産力を徴収する仕組みで,(1)職業部,(2)名代(なしろ)・子代(こしろ),(3)田部(たべ),(4)部曲(かきべ)などの種類があった。(1)は朝廷の必要とする特定の役務における固定的労働力や渡来系の技術による手工業品などを確保するためのもので,律令制下の品部(しなべ)・雑戸(ざっこ)に継承されていく。(2)のうち名代は王宮の経営のために設定されたもので,王宮にちなんだ部名がつけられ,舎人(とねり)・靫負(ゆげい)・膳夫(かしわで)などの伴(とも)が徴発され,部民はその資養物を貢納することになっていた。子代は大王家の子女の養育のために設定されたもので,王族にちなんだ部名がつけられ,壬生部(みぶべ)に相当するものと考えられる。(3)は朝廷の直轄地である屯倉(みやけ)の田の耕作の労力確保のため設定されたもの。(4)は中央豪族の経済基盤を維持するために設定されたもので,豪族の氏名を部名とした。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…百済は王都を泗沘(しひ)(忠清南道扶余)に移すと,三国対立の激化に備えて,王都と地方の政治体制を軍政化した。王都を上・前・中・下・後の五部あるいは中・東・西・南・北の五部に分け,各部をさらに五巷(坊)に区分し,各部を軍政の単位とし,各部に500人の軍隊をおいた。また地方を五方に分け,中方は古沙城(全羅北道古阜),東方は得安城(忠清南道恩津付近),南方は久知下城(全羅南道長城か),西方は刀先城(未詳),北方は熊津城(忠清南道公州)を中心とした地方である。…
…部は〈ベ〉とも〈トモ〉ともよむ。日本では大化改新以前に,朝廷あるいは天皇・后妃・皇子・豪族などに隷属し,労役を提供し,また生産物を貢納した人々の集団をいう。…
※「部」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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