郡山城跡(読み)こおりやまじようあと

日本歴史地名大系 「郡山城跡」の解説

郡山城跡
こおりやまじようあと

[現在地名]大和郡山南郡山みなみこおりやま町・北郡山町・代官だいかん町・植槻うえつき町・天理てんり町・城内じようない町・永慶寺えいけいじ町・藤原ふじわら町・朝日あさひ町・城北じようほく町・冠山かんざん町・箕山みのやま町・城南じようなん町・城見しろみ町・しろだい町・九条くじよう

近世の郡山城は筒井氏・豊臣氏・増田氏時代にいちおう完成された。筒井順慶は犬伏いぬふせ岡の先端で平野に臨む要害の地に着目して、天正六、七年(一五七八、九)頃から築城を始めた。この地は、中世の郡山土豪である「中殿・辰巳殿・薬園殿(矢興殿)」の拠っていた三つの館を核とし古くからの薬園やくおん・郡山の集落を含んで城地を計画したものである。とくに「薬園殿」の館を母体に発展したもので、当時の状況は郡山城旧記に「領邑合テ三千石、只今の本丸かき上ケにて住居、二ノ丸に家老を初め、家来百姓入交りて居候よし申伝へ候」とある。天正八年八月、織田信長は畿内の城郭破却を命じ、郡山一城を残し、順慶が修築していた筒井城も含め、破却させられた。「多聞院日記」天正八年一一月九日条には「順慶ニハ郡山ヘ可有入城(中略)国中一円筒井存知ト七日ノ申刻ニ御朱印給云々」とみえ、同年一一月一二日入城した。その後も明智光秀の見回りを受け整備を急いだ。本能寺の変後、同一一年四月天守閣を急造した。順慶の死後、養子の筒井定次は伊賀国替を命ぜられ、豊臣秀長が但馬国出石いずし(現兵庫県)から同一三年九月三日入部した。その後数ヵ年にわたり大修造を加えた。

同一五年三月、紀州根来ねごろ寺の大門を木津きづ川で回送して城門とし、郡山城を大々的に拡張した。春日社の水谷みずや川の大石や、奈良中の家並から五郎太石を出させ、さらに同一七年六月に今まで集められた石では不足であったとみえ、大寺院にまで手を伸ばした。

郡山城跡
こおりやまじようあと

[現在地名]吉田町吉田

毛利氏本拠の城。郡山は吉田の市街に接して北方にそびえる石英斑岩の小丘で、周囲約三・二七キロ、東西一・〇九キロ、南北〇・八七キロ。市街地から望めば高さがほぼ均一し、頂は全体としてテーブル状をなし、部分的にも幾多の平壇がうかがえる。本丸の標高四〇〇メートル、平地から二〇〇メートル。国指定史跡。

延元元年(一三三六)七月大江広元の曾孫毛利時親が六波羅評定衆を辞して地頭職を有した所領吉田庄に下向、郡山の東南の峰に城を築いたのに始まる。その場所を「祐長老答国司広邑書」には郡山の東南峯、「芸藩通志」は「今の貴船社の上なり」と記し、古くから旧本城と伝える場所と一致する。時親以後、累代この城を居城とし、時親の曾孫元春は在世中「郡山殿」と称せられた(年未詳六月一九日付「毛利宝乗書状」毛利家文書)。時親より一一代の幸松丸が大永三年(一五二三)七月、九歳で夭折し、叔父元就が猿掛さるがけ城より移って宗家を継ぐことになり、同年八月一〇日に入城(「毛利元就郡山入城日記」同文書)

郡山城跡
こおりやまじようあと

[現在地名]白石市郡山

西下にさい川、その西に白石川が北流する。白石本郷東部の大萩おおはぎ山の西斜面に連なる標高一三四メートルの小独立峰の山頂部に位置する。南一キロを白石から角田かくだへの街道が通り、山頂から白石市街西北部が一望できる。「封内風土記」に「伝云、南部家先祖所居、館下有号竹花地、其家臣竹花内蔵諱不知居之」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「郡山城跡」の解説

こおりやまじょうあと【郡山城跡】


毛利氏城跡(もうりししろあと)

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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