那須国造碑(読み)なすこくぞうひ

精選版 日本国語大辞典 「那須国造碑」の意味・読み・例文・類語

なすこくぞう‐ひ なすコクザウ‥【那須国造碑】

栃木県那須郡湯津上村の笠石神社にある石碑。高さ一二〇センチメートル、花崗岩製、八行一五二字の碑文が刻まれている。文武天皇四年(七〇〇)に没した那須国造韋提(いで)のために建碑されたもの。唐の永昌元年(六八九)の年号を用いているところから渡来人の作かといわれる。日本三古碑一つ。国宝。なすのくにのみやつこのひ。

なすのくにのみやつこ‐の‐ひ【那須国造碑】

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

デジタル大辞泉 「那須国造碑」の意味・読み・例文・類語

なすのくにのみやつこ‐の‐ひ【那須国造碑】

栃木県大田原市の笠石神社にある古碑。文武天皇4年(700)に没した那須国造韋提いでの徳をたたえて建てたもの。古代三碑の一。なすこくぞうひ。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

日本歴史地名大系 「那須国造碑」の解説

那須国造碑
なすこくぞうひ

[現在地名]湯津上村湯津上 笠石

笠石かさいし神社の堂内に安置される。「なすのくにのみやつこのひ」ともよばれる。庚子年(文武天皇四年と推定)一月に没した那須国造那須直韋提を顕彰追慕する頌徳墓碑で、同年をあまり隔てない頃に建立されたものと思われる。多賀城たがじよう(現宮城県多賀城市所在)多胡たご(現群馬県多野郡吉井町所在)とともに日本三古碑と称される。地元では雨乞や虫封じの祈願対象とし笠石と俗称する。国宝。

もともと草莽の間に遺却されていた碑は、延宝四年(一六七六)陸奥磐城の頭陀僧円順が里間の風聞を水戸藩領小口こぐち(現馬頭町)の名主大金重貞に伝えたことから世に知られるようになる(大金重貞「笠石御建立記」)。碑を実査し銘文の考証を試みた重貞は「那須記」を著し、天和三年(一六八三)領内巡行中の徳川光圀に献じた。この碑に注目した光圀は、儒臣佐々宗淳に碑の精査および保存を遂行させた。現在碑を納める宝形造の堂は光圀の計らいで元禄四年(一六九一)一二月に創設されている。のち光圀は碑の解明を求めて、宗淳らに湯津上村内の二基の古墳(現上・下侍塚古墳。当時は車塚といった)の発掘を試みさせ誌銘を求めたが果せず、出土遺物を採図して埋戻させている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「那須国造碑」の意味・わかりやすい解説

那須国造碑 (なすのくにのみやつこひ)

栃木県大田原市の旧湯津上村大字湯津上の笠石神社境内にある古碑で,700年(文武4)に没した那須直韋提(なすのあたいいで)の頌徳碑。長らく草むらの中に埋没していたが,1676年(延宝4)僧円順,庄屋大金重貞らによって発見され,83年(天和3)徳川光圀の知るところとなり世に現れた。形状から笠石碑とも呼ばれ,総高147.3cm,花コウ岩の角柱の一面を平滑にし,1行19字,8行152字が整然と刻まれ,文章も格調高い漢文体。内容は唐の年号で永昌1年(689・持統3)に那須国造で追大壱の位(685年制定の冠位四十八階の第33等)をもつ那須直韋提が評(こおり)の長官である評督(のちの郡大領にあたる)に任ぜられ,庚子年すなわち700年1月2日辰の刻に死去したので,後継者の意斯麻呂(おしまろ)らが碑を立て遺徳を追慕すると述べる。次に韋提が名族の後裔で国家の棟梁であり,一生に2度脚光を浴びたとし,粉骨砕身,その遺業を継ぐのが孝の道であると強調して故人を賛美し,最後に韋提の名声は翼なくして遠く伝わり,根なくして強固となったと結んでいる。碑文中の〈広氏〉は《新撰姓氏録》に豊城入彦命の後と見える広来津公を指すとする説が有力だが,普通名詞の名族の意であろう。また建碑者を新羅からの渡来人とし,彼らが本国で罪を許され,日本へ渡って韋提から厚い恩恵を受け,一生に2度蘇生したと解する説には賛成しがたい。建碑者意斯麻呂は韋提の後継者で渡来人ではあるまい。ただし撰文が渡来人の手になった可能性は大きい。

 本銘文は国造制や評制などに関する貴重な史料で,那須国造を氏姓制下の旧国造と見るか,律令制下の新国造と見るか,また689年当時現役の国造と見るか,元国造と見るかによって解釈が異なってくる。例えば現職の旧国造と見る場合,那須地方では大化改新後40余年にしてようやく国造制から評督制に移行したということになる。銘文の読みや解釈自体についても,佐々宗淳,新井白石狩谷棭斎蒲生君平,井上通泰,斎藤忠ら多くの人たちによって究明が試みられてきたが,なお未解決の問題が多く残されている。
執筆者:


出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

国指定史跡ガイド 「那須国造碑」の解説

なすのくにのみやつこのひ【那須国造碑】


栃木県大田原市湯津上にある古碑。那珂(なか)川右岸の段丘上、笠石神社の境内に神体として祀られている。高さ148cmの花崗岩製で、碑文が刻まれた石碑の上に笠状の石が載せられていることから、笠石と呼ばれている。那須国造で700年(文武天皇4)に亡くなった那須直韋提(なすのあたいいで)の事績を顕彰するために、息子と思われる意斯麻呂(おしまろ)らによって建立された。19字ずつ8行に刻まれた文字は、中国の六朝時代風の書体である。石碑は江戸時代になって発見され、領主であった水戸光圀(みつくに)が笠石神社の創建と碑の保護を命じたもので、1952年(昭和27)に国宝に指定された。多賀城碑(宮城県)、多胡碑(たごのひ)(群馬県)とともに、日本三古碑の一つに数えられている。JR東北新幹線ほか那須塩原駅から大田原市営バス「笠石神社前」下車、徒歩すぐ。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

百科事典マイペディア 「那須国造碑」の意味・わかりやすい解説

那須国造碑【なすこくぞうのひ】

栃木県大田原市にある古碑。碑文によれば,700年に死んだ那須国造韋提(いで)の遺徳をたたえ意斯麻呂(おしまろ)が建てたもの。碑石は花コウ岩,上に石をのせるので笠石(かさいし)ともいい,笠石ともで総高147.3cm。笠石神社にまつる。建碑には渡来人がかかわっていたとみる説もあり,国造制や(のちの)制についての資料として重要。国宝。
→関連項目徳川光圀

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

山川 日本史小辞典 改訂新版 「那須国造碑」の解説

那須国造碑
なすこくぞうひ

栃木県大田原市湯津上(ゆづかみ)に現存する古代石碑。上侍塚(かみさむらいづか)・下侍塚両古墳などが分布する古代那須地方の中心部に立地。上に笠石が乗る碑身の前面を平滑に磨き,152字の銘文を1行19字詰めで8行に陰刻している。銘文は「永昌元年」(則天武后の元号)すなわち持統朝の689年に那須国造の那須直韋提(なすのあたいいて)が評督(ひょうとく)に任じられ,「庚子年」すなわち700年(文武4)に没したことをしのんで意斯麻呂(おしまろ)らが建碑した旨を記す前半3行と,韋提を顕賞する漢文体の後半5行からなり,墓碑の性格をもつ。7世紀の評制の存在を示す金石文。中国六朝(りくちょう)風の書風と漢文をよくとどめ,日本三古碑の一つとされる。笠石神社の神体。国宝。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「那須国造碑」の意味・わかりやすい解説

那須国造碑
なすのくにのみやつこのひ

栃木県大田原市湯津上の笠石神社にある奈良時代の石碑。碑石はおおむね高さ 1.2m,幅 0.5m,厚さ 0.4mの長方形の花崗岩で,その一面に8行 19字詰,152字の碑文が彫られている。唐の永昌1 (689,持統3) 年に評督 (→ ) に任じられた那須直韋提 (なすのあたいいで) が庚子年 (700,文武4) に没し,意斯麻呂 (おしまろ) らが韋提のために建てた碑であることが記されている。国宝に指定されている。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の那須国造碑の言及

【那須国造碑】より

…栃木県那須郡湯津上村大字湯津上の笠石神社境内にある古碑で,700年(文武4)に没した那須直韋提(なすのあたいいで)の頌徳碑。長らく草むらの中に埋没していたが,1676年(延宝4)僧円順,庄屋大金重貞らによって発見され,83年(天和3)徳川光圀の知るところとなり世に現れた。形状から笠石碑とも呼ばれ,総高147.3cm,花コウ岩の角柱の一面を平滑にし,1行19字,8行152字が整然と刻まれ,文章も格調高い漢文体。…

※「那須国造碑」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

青天の霹靂

《陸游「九月四日鶏未鳴起作」から。晴れ渡った空に突然起こる雷の意》急に起きる変動・大事件。また、突然うけた衝撃。[補説]「晴天の霹靂」と書くのは誤り。[類語]突発的・発作的・反射的・突然・ひょっこり・...

青天の霹靂の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android