那古寺(読み)ナコデラ

デジタル大辞泉 「那古寺」の意味・読み・例文・類語

なこ‐でら【那古寺】

千葉県館山市にある真言宗智山派の寺。山号補陀落山養老元年(717)行基創建で、承和14年(847)円仁再興と伝える。のち、源頼朝再建坂東三十三所最終札所。那古観音。

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精選版 日本国語大辞典 「那古寺」の意味・読み・例文・類語

なこ‐でら【那古寺】

千葉県館山市那古にある真言宗智山派の寺。山号は補陀落山。養老元年(七一七)行基の開創と伝えられる。建久年間(一一九〇‐九九)源頼朝により再建された。坂東三十三所の第三三番結願(けちがん)霊場。なごじ。那古観音。

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日本歴史地名大系 「那古寺」の解説

那古寺
なごじ

[現在地名]館山市那古

那古山の南面山麓、かがみヶ浦を眺望できる地にある。補陀落山千手院と号し、真言宗智山派。本尊は那古観音の名で知られる千手観音像で、坂東三十三ヵ所観音霊場の結願札所。かつては鶴谷つるがや八幡宮別当寺であった。養老元年(七一七)行基の開創と伝え、承和一四年(八四七)円仁が中興したとの伝承がある。建久年間(一一九〇―九九)源頼朝によって本堂・三重塔・仁王門などが建てられ、寺領数百町余を寄進されたと伝え、室町時代には里見氏帰依を得て隆盛であったという。聖護院道興も文明一八年(一四八六)「那古の観音」に詣でている(廻国雑記)山腹にあった本堂は元禄一六年(一七〇三)の地震で倒壊した。江戸時代には脇坊七坊(享保年間以降は西之坊・恵日坊・源養坊の三坊)を抱え、また当山を補陀落浄土とする信仰が広まり、参詣客で賑わった。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「那古寺」の意味・わかりやすい解説

那古寺
なごじ

千葉県館山(たてやま)市那古にある真言(しんごん)宗智山(ちさん)派の寺。補陀落(ふだらく)山千手(せんじゅ)院と号する。本尊は千手観世音菩薩(せんじゅかんぜおんぼさつ)。坂東(ばんどう)三十三か所第33番札所、安房(あわ)三十四か所第一番札所。717年(養老1)行基(ぎょうき)が元正(げんしょう)天皇の病気回復を祈願して、海中より授けられた霊木で千手観音像を刻んだところ、すぐに健康になられたので、勅命により堂宇を建立したのに始まり、847年(承和14)円仁(えんにん)の再興と伝える。建久(けんきゅう)年間(1190~1199)源頼朝(よりとも)が諸堂を再建し、鶴ヶ谷八幡(はちまん)社の別当寺となり、順次繁栄した。1703年(元禄16)地震にあうも、再建された。銅造千手観音立像は国重要文化財、多宝塔、繍字法華経普門品(しゅうじほけきょうふもんぼん)一巻は県文化財。

[眞柴弘宗]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「那古寺」の意味・わかりやすい解説

那古寺
なごでら

千葉県館山市にある真言宗智山派の寺。正しくは補陀落山普門坊千手院。養老1 (717) 年,行基の創設になるといわれ,勅願寺であった。円仁も一時とどまり,源頼朝,足利尊氏,里見氏,徳川家康などの保護を得た。安房国五大寺の一つで,坂東三十三所の一つ。

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デジタル大辞泉プラス 「那古寺」の解説

那古寺

千葉県館山市の那古山に位置する寺院。真言宗智山派。717年、行基による創建と伝わる。山号は補陀落山、院号は千手院、本尊は「那古観音」の名で知られる千手観音。

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