選子内親王(読み)せんしないしんのう

精選版 日本国語大辞典 「選子内親王」の意味・読み・例文・類語

せんし‐ないしんのう ‥ナイシンワウ【選子内親王】

平安中期の歌人村上天皇皇女円融花山・一条・三条・後一条の五代の天皇五七年間、賀茂神社斎院となり大斎院と称された。その斎院は王朝文化人のサロンともなり、その有様は「大斎院前の御集」「大斎院御集」に詳しい。また和歌に秀で、「拾遺和歌集」以下に作品が見えるほか釈教歌家集発心和歌集」を残した。康保元~長元八年(九六四‐一〇三五)。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

デジタル大辞泉 「選子内親王」の意味・読み・例文・類語

せんし‐ないしんのう〔‐ナイシンワウ〕【選子内親王】

[964~1035]平安中期の歌人。村上天皇の皇女。12歳のときから57年間、賀茂神社の斎院をつとめ、大斎院と称された。家集「発心和歌集」など。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「選子内親王」の意味・わかりやすい解説

選子内親王 (せんしないしんのう)
生没年:964-1035(康保1-長元8)

平安時代の賀茂斎院,歌人。村上天皇第10皇女。母は藤原師輔の娘安子。975年(天延3)に11歳で賀茂神社の斎院になり,以後57年間,円融・花山・一条・三条・後一条の5朝に斎院として奉仕し,大斎院と称される。斎院には,宰相,馬内侍,斎院中務,斎院中将,右近,などの多数の女房を集め,〈歌のかみ〉〈物語のかみ〉を定めたりし,皇后定子(藤原定子),中宮彰子上東門院)とならんで,後宮文芸の発展に寄与した。《拾遺和歌集》以後の勅撰集に37首入集し,家集《大斎院前の御集》《大斎院御集》《発心和歌集》を残す。《大斎院前の御集》《大斎院御集》は,選子個人の家集ではなく,定子や彰子の後宮を《枕草子》や《紫式部日記》が記録するように,斎院サロンのありさまを伝え,《発心和歌集》は,斎院でありながら仏教に帰依し,《法華経》の法文を題にして詠んだ釈教歌55首を収めているが,釈教歌としても初期の作品に属し,家集は,みな文学史上特異な作品として注目される。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

百科事典マイペディア 「選子内親王」の意味・わかりやすい解説

選子内親王【せんしないしんのう】

平安中期の賀茂斎院,歌人。村上天皇第10皇女。大斎院(だいさいいん)選子とも。母は藤原師輔の女(むすめ)中宮安子。円融天皇から後一条天皇まで5代57年にわたって賀茂神社の斎院として奉仕し,大斎院と称された。歌人としてもすぐれ,彼女を中心とする斎院の人々の日常贈答歌を集めた《大斎院前(さき)の御集》《大斎院御集》が編まれた。藤原定子彰子のサロンと並ぶ大斎院サロンの様がうかがえる。また,仏教に帰依する心を詠んだ歌を集めた家集《発心和歌集》は釈教和歌集の嚆矢といわれる。

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「選子内親王」の意味・わかりやすい解説

選子内親王
せんしないしんのう
(964―1035)

村上(むらかみ)天皇第10皇女で、母は中宮安子。975年(天延3)賀茂(かも)の斎院(さいいん)となり、1031年(長元4)退下するまで、円融(えんゆう)・花山(かざん)・一条(いちじょう)・三条・後一条の5代57年間在任。大(だい)斎院と称された。退下後出家。紫野(むらさきの)の世俗を離れた地で、定子・彰子後宮と並び称されるがそれとは異質のサロンを形成、領導した。内親王を中心とする女房ほかの人々が日常生活を情趣化し詠歌した、斎院集団の記録が『大斎院前(さき)の御集(ぎょしゅう)』『大斎院御集』で、前者は内親王21~23歳、後者は51~55歳にあたる同一性格の家集である。また、内親王には、和歌により仏に結縁(けちえん)するための『発心(ほっしん)和歌集』(1012成立)がある。『拾遺集』以下の勅撰(ちょくせん)集に38首入集(にっしゅう)する。

 思へども忌(い)むといふなることなればそなたにむきてねをのみぞなく
[杉谷寿郎]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

朝日日本歴史人物事典 「選子内親王」の解説

選子内親王

没年:長元8.6.22(1035.7.29)
生年:康保1.4.24(964.6.6)
平安時代の斎院,歌人。村上天皇と中宮安子(藤原師輔の娘)の子。天延3(975)年6月賀茂の斎院に卜定され,以後57年間,円融・花山・一条・三条・後一条天皇の5代にわたり在職。異例の長期奉職により大斎院と称された。歌作に秀で『拾遺集』以下の勅撰集に37首入集。温厚な人柄と才知により,皇后定子や中宮彰子の後宮サロンに並ぶ大斎院サロンを主導した。『枕草子』『紫式部日記』に記された同時代人の大斎院評は興味深い。また『源氏物語』が大斎院の要望によって創作されたとする話も伝わる。家集に諸経の法文を題とした釈教歌集『発心和歌集』と,大斎院サロンの日常を描いた歌日記ともいうべき『大斎院御集』『大斎院前の御集』がある。斎院という特殊な環境に,藤原氏の権勢によらぬ超俗的で清尚風雅なサロンを築き上げた人物として注目される。

(中周子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「選子内親王」の解説

選子内親王 せんしないしんのう

964-1035 平安時代中期,村上天皇の第10皇女。
応和4年4月24日生まれ。母は中宮藤原安子。天延3年賀茂斎院となり,長元4年まで57年間つとめて大斎院とよばれた。和歌にすぐれ,斎院に後宮とならぶ文芸サロンを形成した。長元8年6月22日死去。72歳。家集に「大斎院前(さき)の御集」「大斎院御集」「発心和歌集」など。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「選子内親王」の解説

選子内親王 (せんしないしんのう)

生年月日:964年4月24日
平安時代中期の女性。村上天皇の第10皇女
1035年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の選子内親王の言及

【斎院】より

…年中行事である賀茂祭(葵祭)には斎院御禊,祭りの当日の渡御,翌日の還立(かえりだち)(祭りのかえさ)といったぐあいに重要任務を帯びた。歴代の斎院の中でも村上天皇皇女の選子内親王は,円融から後一条天皇までの5代,50余年間にわたって在職し,もって大斎院と称された。さらに選子に仕えた女房たちの中には優れた歌人が輩出し,一つの文芸サロンを形成した。…

※「選子内親王」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

靡き

1 なびくこと。なびくぐあい。2 指物さしものの一。さおの先端を細く作って風にしなうようにしたもの。...

靡きの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android