道璿(読み)どうせん(英語表記)Dào xuán

精選版 日本国語大辞典 「道璿」の意味・読み・例文・類語

どうせん ダウセン【道璿】

中国、唐の戒律宗の僧。禅・華厳にもくわしい。河南許州の人。天平八年(七三六)インド僧菩提僊那らとともに来日奈良仏教形成に重要な役割を果たした。大安寺で「四分律行事鈔」を講じ、また「梵網経疏」を著わす。華厳宗初伝禅宗の第二伝。天平宝字四年(七六〇)没。

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改訂新版 世界大百科事典 「道璿」の意味・わかりやすい解説

道璿 (どうせん)
Dào xuán
生没年:702?-760?

中国,唐代中期の律僧。姓は衛。河南許州の人。洛陽の大福先寺で定賓について律を,嵩山普寂より禅をうける。入唐僧栄叡(ようえい)らによる戒師招請に応じ,736年(天平8)インド僧菩提僊那(ぼだいせんな)らとともに,日本に渡り奈良大安寺の西唐院に入った。751年(天平勝宝3),勅によって律師となり,鑑真来朝の先駆として,東大寺大仏開眼の導師となるが,晩年に吉野の比蘇山に退き,《註菩薩戒経》を著す。来日に際して道璿は,《華厳経》章疏(教論と注釈)をもたらし,日本における華厳の初伝として知られるが,禅の第二伝でもあった。最澄は入唐に先立って,道璿の弟子行表(のちの近江国国師)を通して普寂下の禅をうけた。道璿は,《華厳経》浄行品に依拠して修行する一方,つねに《梵網経》を唱え,《註梵網経》をも著した。なお没年に関しては,59歳757年(天平宝字1)説もある。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「道璿」の意味・わかりやすい解説

道璿
どうせん
(697―760)

中国の僧。河南省許州に生まれる。姓は衛氏。のち洛陽(らくよう)の大福先寺の定賓(じょうひん)に受戒し律に通じる。ついで普寂(ふじゃく)(651―739)から禅・華厳(けごん)を学ぶ。733年(天平5)に日本僧栄叡(ようえい)(生没年不詳)、普照(ふしょう)(生没年不詳)が入唐(にっとう)し、道璿に日本へ戒律を伝えることを懇請。インドの菩提僊那(ぼだいせんな)、林邑(りんゆう)(インドシナ半島南東にあった国)の仏哲(ぶってつ)と遣唐船で来朝、736年5月大宰府(だざいふ)着。奈良・大安寺西唐院で律や『梵網経(ぼんもうきょう)』を講じ、多くの日本僧に授戒した。晩年、突然吉野の比蘇(ひそ)寺に引退。当時の僧の山岳隠棲(いんせい)を促した。『註(ちゅう)梵網経』『四季追福文』などを著す。

[木内曉央 2017年3月21日]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「道璿」の解説

道璿 どうせん

702-760 唐(とう)(中国)の僧。
嗣聖19年生まれ。栄叡(えいえい),普照の要請をうけ,天平(てんぴょう)8年菩提僊那(ぼだいせんな),仏哲らと来日。大和(奈良県)大安寺で律,禅,華厳(けごん)をおしえひろめ,天平勝宝3年律師となる。4年東大寺大仏開眼供養会(かいげんくようえ)の呪願(じゅがん)師をつとめた。天平宝字4年閏(うるう)4月18日死去。59歳。俗姓は衛。著作に「註梵網経(ちゅうぼんもうきょう)」など。

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世界大百科事典(旧版)内の道璿の言及

【大仏開眼】より

… 752年4月9日の法会には,天皇,上皇,皇太后以下多くの官人が参列し,1万人の僧尼を招いて盛大な開眼供養が行われた。開眼導師にはインドの帰化僧バラモン・ボジセンナ(菩提僊那(ぼだいせんな)),講師に隆尊,読師に延福,咒願師に唐僧道璿(どうせん)が起用され,行基の弟子景静は都講となり法会を総括した。ボジセンナの用いた筆墨は現に正倉院に伝わり,参集の人々とともに開眼に擬した開眼縷も伝わっている。…

※「道璿」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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