連雀町(読み)れんじやくちよう

日本歴史地名大系 「連雀町」の解説

連雀町
れんじやくちよう

[現在地名]前橋市本町ほんまち一―二丁目

本町とともに城下町の根幹をなす南北通で、城下の総鎮守八幡宮大手門はこの通りに面している。南は町につながり、そのすぐ北の東側に八幡宮への参道がある。文政四年(一八二一)前橋町絵図(勝山氏蔵)では、参道の北側に領内の連雀頭木嶋氏の屋敷が描かれている。西は城内であるが、大手門までは両側町、大手門の北は東側のみに町屋のある片側町である。北端に札の辻があり、その北はくわ町に続く。貞享元年(一六八四)の「前橋風土記」に「民居、群工此に居る。是れ福島に到るの道路なり」と記される。連雀は連尺の意で物を負う道具をさす。そこから荷物を背負って売り歩く行商人の集住する町をさすようになったのであろう。

連雀町
れんじやくちよう

[現在地名]高崎市連雀町

南は檜物ひもの町・あら町・砂賀すなが町と一部がとおり町、東は通町、西はさや町・町奉行所など、北は白銀しろがね町・町・鞘町。高崎城大手門前にあたり、南北に通る中山道と東西の大手門通が町域中央南寄りで交差する。中山道筋の町の長さ一町三七間、大手門通は中山道の東側・西側とも一町四間(安政三年城下図)。西の横町を二丁目、東の横町を三丁目とも称した(高崎寿奈子)。「高崎志」に「連雀町ハ初箕輪ニアリ、慶長三年戊戌箕輪ヨリ此ニ移ル、箕輪ニ於テ大手門前ニ在シ町ナルヲ以テ、此ニ移リテモ亦城主ヨリ命ジテ大手門前ニ置、旧名ヲ不更ト云、名義未詳、昔ハ四方ヨリ簽著ヲ用テ物ヲ負来テ城下ニ売者ヲバ、毎年一度此町ノ長制アリテ銭ヲ征コトアリ、土俗コレヲ簽著運上ト号ス」と記される。

連雀町
れんじやくちよう

[現在地名]館林市本町ほんちよう一―二丁目

札の辻ふだのつじ(大辻)から東の大手門へ至る道沿いにある。西へたつ町が続き、中ほどから南へ大工だいく町が分れる。延宝二年(一六七四)の城下町図に町名がみえる。「館林記」には板葺家二八、男一〇九・女八五、馬一七とある。また同書によると、天正一二年(一五八四)二月相模小田原よりウイロウ売りが小田原北条氏支配下にあった当地に来て、例年のとおり小寺丹後宅に泊まった。

連雀町
れんじやくちよう

[現在地名]千代田区神田須田町かんだすだちよう一丁目

神田多かんだた町二丁目と同佐柄木さえき町の北側に延びる両側町。西は武家地、東は須田町一丁目、北は神田佐柄木町飛地。町名は連尺を製造する者が多く居住していたことに由来し、のちに連尺町を連雀町と改名(東京府志料)。もと筋違すじかい御門脇にあったが、明暦の大火後火除地となり現在地に移されたという。明暦三年(一六五七)の新添江戸之図では須田町の北に「れんしやく町」とみえる。なお寛永江戸図でも同じ場所に記される。移転の際町人の一部は多摩郡武蔵野御札茅場の千町せんちよう野に入植して新田を開発、のちに下連雀村(現三鷹市)となった(風土記稿)。公役町で、小間数は京間九九間余(安永三年小間附町鑑)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の連雀町の言及

【連雀商人】より

…戦国末期,豊臣秀吉がにわかに大名に取り立てられ,家人が不足して困惑したとき,伯母婿で清洲に住んでいた連雀商人杉原七郎左衛門を呼び寄せて家来にしたことが伝えられている。集団で行商してあるいた連雀商人たちが各地の城下町の特定地域に集住するようになると,そこは連雀町とよばれた。東国地方の城下の大手付近にはよく市が開かれ,連雀商人がそこに集まって商売を行い,やがて集住するようになって連雀座あるいは連雀町が成立した。…

※「連雀町」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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