近衛篤麿(読み)コノエアツマロ

デジタル大辞泉 「近衛篤麿」の意味・読み・例文・類語

このえ‐あつまろ〔コノヱ‐〕【近衛篤麿】

[1863~1904]政治家京都の生まれ。日清同盟を唱えて東亜同文会国民同盟会組織。また、対露同志会結成して対露強硬政策を主張。学習院院長・貴族院議長・枢密顧問官を歴任。

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精選版 日本国語大辞典 「近衛篤麿」の意味・読み・例文・類語

このえ‐あつまろ【近衛篤麿】

政治家。公爵。忠房の長男。号霞山(かざん)。京都に生まれる。ドイツ留学後、貴族院議員として政界に入り、日清同盟論を説いて東亜同文会を結成。また、対露同志会を組織して日露開戦を唱えた。学習院長、貴族院議長、枢密顧問官などを歴任。文久三~明治三七年(一八六三‐一九〇四

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「近衛篤麿」の意味・わかりやすい解説

近衛篤麿
このえあつまろ
(1863―1904)

明治時代の政治家。文久(ぶんきゅう)3年6月26日、忠房(ただふさ)の長男として京都に生まれる。母は島津久光(しまづひさみつ)の女(むすめ)光子。霞山(かざん)と号した。1873年(明治6)家督相続。1877年侍従職に任ぜられ、東京に移る。以後鮫島武之助(さめじまたけのすけ)の塾、大学予備門などに学ぶ。1884年公爵。翌年海外留学、ボン大学、ライプツィヒ大学に学ぶ。1890年帰国、貴族院議員(1896~1903貴族院議長)。1895年より学習院長。1903年(明治36)枢密顧問官。日清(にっしん)戦争直前の硬六派運動に参加して以後対外硬派として活動し、1898年には東亜同文会、1900年(明治33)には国民同盟会を組織し、「朝鮮扶掖(ふえき)・支那(しな)保全」を唱えた。明治37年1月2日没。嗣子(しし)は文麿(ふみまろ)。

[酒田正敏]

『霞山会編・刊『近衛霞山公』(1924)』『近衛篤麿日記刊行会編『近衛篤麿日記』(1968・鹿島研究所出版会)』『工藤武重著『伝記叢書258 近衛篤麿公――伝記・近衛篤麿』(1997・大空社)』『山本茂樹著『近衛篤麿――その明治国家観とアジア観』(2001・ミネルヴァ書房)』


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改訂新版 世界大百科事典 「近衛篤麿」の意味・わかりやすい解説

近衛篤麿 (このえあつまろ)
生没年:1863-1904(文久3-明治37)

明治期の政治家。近衛忠房の長子に生まれ,1873年幼少にして家督をつぎ,84年華族令制定にともない公爵となる。85-90年渡欧し,ボン大学,ライプチヒ大学に学んだ。第1議会以来貴族院議員となり三曜会の中心的指導者であった。93年末に現行条約励行建議案のために衆議院が解散されると貴族院有志とともに伊藤博文首相に忠告書を送り,民間の〈硬六派〉(立憲改進党,国民協会,同志俱楽部,同盟俱楽部,大日本協会,政務調査会)の運動を支持した。95年学習院院長,96年貴族院議長となる。日清戦争以後は,ロシアの満州進出を日本の脅威と考え,東亜同文会の会長として〈日清同盟〉論を唱え,義和団事件に際してのロシアの満州占領に抗議する国民同盟会の実質上の会長となった。一方で,大津事件(1891),選挙干渉問題(1892)で第1次松方正義内閣を糾弾するなど,藩閥政府には批判的で,政党とくに進歩党憲政本党に好意的立場をとった。文麿,秀麿はその子である。
執筆者:

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朝日日本歴史人物事典 「近衛篤麿」の解説

近衛篤麿

没年:明治37.1.2(1904)
生年:文久3.6.26(1863.8.10)
明治期の政治家。号は霞山。公家近衛忠房と島津久光の娘光子の長男。明治6(1873)年家督相続,祖父忠煕のもとで育つ。17年公爵。翌年政治学,法律学を学ぶためオーストリアに渡る。のちボン大,ライプチヒ大に学び,23年学位を取得して帰国,貴族院議員。翌年長男文麿誕生,夫人衍子は死去。28年学習院長,翌年貴族院議長に任じられ,死去時まで在職。近衛家は藤原氏系公家のなかでも家格が高くまた幕末維新期における祖父の功績もあって,明治天皇の大権による政治を支える若手の人材として早くから期待された。貴族院では三曜会を率い,政治雑誌『精神』を発行するなど,藩閥支配に代わる新しい政治を模索していた。貴族院懇話会系とも提携して責任内閣を唱え政府に脅威を与える勢力をなしていた。日清戦争(1894~95)後はアジア問題に関心を寄せ,31年東亜同文会を組織して「支那保全,朝鮮扶掖」を唱え,朝鮮,中国各地への駐在員派遣,現地新聞の発行,上海東亜同文書院の設立,揚子江海運への進出などに努めた。33年義和団事件を契機とする露国軍隊の満州地方(中国東北部)占拠に警鐘をならし,国民同盟会運動を主宰した。日清提携論や「東洋は東洋人の東洋なり」というアジア主義の思想を主唱。相撲を好んだ。北海道開拓,教育制度問題など関係した事業は多い。<参考文献>近衛篤麿日記刊行会編『近衛篤麿日記』全6巻

(酒田正敏)

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百科事典マイペディア 「近衛篤麿」の意味・わかりやすい解説

近衛篤麿【このえあつまろ】

明治の政治家。近衛忠房の子。号は霞山(かざん)。京都の生れ。公爵。貴族院議員として活躍,1893年の第5議会の条約励行建議案で民党とともに政府を攻撃。貴族院議長,枢密顧問官を歴任,日清戦争後,ロシアの満州進出を日本の脅威と考え,日清同盟論を唱え東亜同文会を組織,国民同盟会・対露同志会を結成し,アジア問題に関して国権的立場から運動を続けた。1895年―1904年学習院長。近衛文麿は長男,近衛秀麿は次男。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「近衛篤麿」の意味・わかりやすい解説

近衛篤麿
このえあつまろ

[生]文久3(1863).6.26. 京都
[没]1904.1.2. 東京
政治家。近衛文麿の父。左大臣忠房の長男。関白忠煕の孫。公爵。 1884~90年,オーストリア,ドイツに留学。 96年貴族院議長。 98年大アジア主義 (汎アジア主義) を唱えて東亜同文会を組織。 1900年国民同盟会,03年対露同志会をつくって対ロシア強硬論を説いた。同年枢密顧問官。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「近衛篤麿」の解説

近衛篤麿 このえ-あつまろ

1863-1904 明治時代の政治家。
文久3年6月26日生まれ。近衛忠煕(ただひろ)の9男。近衛文麿・秀麿の父。兄忠房の養嗣子となる。ライプチヒ大などでまなび,明治23年帰国し貴族院議員となる。藩閥政府を批判し,大陸政策に積極的にかかわる。アジア諸国の大同団結を主張して東亜同文会などを結成した。学習院院長,貴族院議長,枢密顧問官を歴任。明治37年1月2日死去。42歳。京都出身。号は霞山(かざん)。

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旺文社日本史事典 三訂版 「近衛篤麿」の解説

近衛篤麿
このえあつまろ

1863〜1904
明治時代の政治家
文麿の父。京都の生まれ。1885年ドイツに留学。帰国後貴族院で活躍。義和団事件後ロシアが満州を占領すると,1900年頭山満 (とうやまみつる) らと国民同盟会を結成。'03年には対露同志会を結成して,対露強硬外交を叫び,対露開戦の気運を高めるのに大きな役割を演じた。

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世界大百科事典(旧版)内の近衛篤麿の言及

【陸羯南】より

…この間,東邦協会,国家経済会,社会問題研究会,東亜同文会,国民同盟会などに参加する。1901年には近衛篤麿に従い清・韓を視察するが,このころから近衛との関係が親密化し,谷との関係がそれだけ疎遠となる。03年半ばより約7ヵ月欧州を漫遊した。…

【国民同盟会】より

…日露戦争前,貴族院議長近衛篤麿らが対露強硬の世論を巻き起こすため結成した国家主義団体。日清戦争後,日本の中国への勢力拡張をはかるため東亜同文会を組織していた近衛篤麿は,義和団鎮圧後も満州占領を続けるロシアに対抗するため,頭山満,佐々友房,犬養毅,長谷場純孝,柴四朗らと相談し,〈支那保全,朝鮮擁護〉を目的とする国民運動の展開を企て,1900年9月24日上野精養軒で国民同盟会を結成した。…

【対露同志会】より

…日露戦争に際して,対露強硬論を主張した国家主義団体。義和団事件後,ロシアの満州駐兵に反対して近衛篤麿らは国民同盟会を組織したが,1902年4月12日〈満州還付に関する露清協約〉が調印されたのを機として解散した。しかし,ロシア軍の満州からの第2期の撤兵が実行されないことが明らかになると,再び活動を活発化させ,03年4月8日,対外硬同志大会を上野公園梅川楼で開催,さらに戸水寛人ら7博士の対露開戦の主張(七博士建白事件)などが行われるなかで,同年8月9日,対外硬同志会は神田錦旗館で大会を開き,対露同志会と改称した。…

【東亜同文会】より

…1898年7月に東亜会と同文会が合流して成立,1900年には亜細亜協会を吸収,初代会長を近衛篤麿(貴族院議長,公爵)とし,会の中堅には荒尾精の日清貿易研究所(1890年,上海に設立)の門下が多い。会の三大事業は第1が《東亜時論》誌(1898‐99年の1年間),《東亜同文会報告》誌(1899‐1910年まで132号),《支那》誌(1911‐44年,36巻432号)とつづく時論誌の刊行,第2が東亜同文書院生による実地踏査記録をまとめた《支那省別全誌》(1920年に全18巻本)の編集・刊行,第3が東亜同文書院という学校(上海)の経営(1901年第1期生入学,39年大学昇格,45年廃校)である。…

【日本】より

…その一つの中心が杉浦重剛,三宅雪嶺らの雑誌《日本人》であり,もう一つの中心が《日本》で,両者は人脈的にも思想的にも密接な関係があった。新聞発行を資金面で援助したのは,創刊当初には谷干城,浅野長勲,のちには近衛篤麿らであった。《日本》の売物は,陸羯南の担当する社説,三宅雪嶺や福本日南らの執筆する論説などであった。…

※「近衛篤麿」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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