近衛声明(読み)このえせいめい

精選版 日本国語大辞典 「近衛声明」の意味・読み・例文・類語

このえ‐せいめい コノヱ‥【近衛声明】

昭和一三年(一九三八)、第一次近衛内閣が出した対中国政策に関する三回の声明。第一回は同年一月、中国国民政府との交渉打切りを発表。第二回は同年一一月、抗日容共政策の放棄条件とする交渉の余地表明。第三回は同年一二月、善隣友好・共同防共・経済提携の三原則を示し、関係打開をはかった。

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デジタル大辞泉 「近衛声明」の意味・読み・例文・類語

このえ‐せいめい〔コノヱ‐〕【近衛声明】

昭和13年(1938)日中戦争処理に関し、第一次近衛文麿内閣が発した一連の対中国政策の声明。1月国民政府との交渉打ち切りを告げ(第一次)、11月これを緩和修正(第二次)、12月には善隣友好・共同防共・経済提携の近衛三原則をうたった(第三次)。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「近衛声明」の意味・わかりやすい解説

近衛声明
このえせいめい

1938年(昭和13)第一次近衛文麿(ふみまろ)内閣が対中国政策に関して発した3回の声明。同年1月11日の御前会議は、「支那(しな)事変処理根本方針」を決定し、国民政府の全面屈服拒否には新興政権の樹立をもって対応する強硬方針を明らかにした。その後、中国の回答をめぐり参謀本部の交渉継続論と政府の打切り論が対立したが、16日「帝国政府ハ爾後(じご)国民政府ヲ対手(あいて)トセズ」という政府声明(第一次近衛声明)を発表し、日中外交関係は事実上断絶した。その後、日本は中国への決定的打撃を与えることができず、解決の見込みのない長期戦の泥沼に陥り、11月3日「東亜新秩序声明」(第二次近衛声明)を発表した。声明は、日本の戦争目的は「東亜新秩序建設」にあり、国民政府が抗日容共政策を放棄すれば、新秩序建設の一員として拒否しないとした。第一次声明の「対手トセズ」という態度を修正して、和平への期待を示すとともに、国民党副総理汪兆銘(おうちょうめい/ワンチャオミン)を擁立する意図が盛り込まれていた。11月30日御前会議は「日支新関係調整方針」を決定、その3原則に基づき近衛は12月22日、「善隣友好、共同防共、経済提携」の根本方針を明らかにした(第三次近衛声明)。汪兆銘ら中国国民政府投降派は、これに呼応して脱出先のハノイで12月29日、国民党へ対日和平の決断を促す通電を公表したが、国民政府内で汪に呼応するものは少数で、国民政府の分裂、屈服を期待した汪兆銘工作は失敗した。

[粟屋憲太郎]

『矢部貞治著『近衛文麿』上(1951・近衛文麿伝記編纂刊行会)』『鹿島平和研究所編『日本外交史 第20巻 日華事変(下)』(1971・鹿島研究所出版会)』『藤原彰著『昭和の歴史5 日中全面戦争』(1982・小学館)』

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百科事典マイペディア 「近衛声明」の意味・わかりやすい解説

近衛声明【このえせいめい】

1938年1月16日に発表された中国政策に関する声明。日中戦争の拡大を危惧(きぐ)した参謀本部の石原莞爾ら不拡大派は,1937年秋ドイツの仲介で和平交渉を開始したが(トラウトマン工作),12月南京攻略で対中国強硬論が台頭。近衛文麿首相は〈国民政府を相手にせず〉と声明,同時に和平工作打切りを通告。
→関連項目近衛文麿内閣

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「近衛声明」の解説

近衛声明
このえせいめい

第1次近衛内閣において,近衛文麿首相が日中戦争に関してだした3度の声明。狭義には3度目の声明をさす。第1次近衛声明(1938年1月16日発表)は「国民政府を対手とせず」声明ともよばれ,日中戦争の解決にあたり,蒋介石政権を交渉相手とせず,新政権の出現を期待するというもの。第2次近衛声明(同年11月3日)は東亜新秩序声明ともよばれ,日中戦争の目的は「東亜新秩序建設」にあるとした。第3次近衛声明(同年12月22日)は「日支国交調整方針に関する声明」,いわゆる「近衛三原則」といわれるもので,重慶を脱出した汪兆銘(おうちょうめい)の親日政権樹立を支援するため,日中交渉の条件を提示した。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「近衛声明」の意味・わかりやすい解説

近衛声明
このえせいめい

第1次近衛内閣の日中戦争収拾,対中国政策に関する声明。都合3度出され,あとの2度は事態の推移に従って最初の声明を変更したものである。まず,1938年1月 16日,「爾後国民政府を相手とせず,新興支那政権の成立発展を期待する」と声明。次いで同 11月,国民政府といえども参加を拒否しない,と第1次声明を修正した。さらに同年 12月,中国との関係調整の根本方針として「善隣友好」「共同防共」「経済提携」をあげ,日中戦争の早期解決を模索した。

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旺文社日本史事典 三訂版 「近衛声明」の解説

近衛声明
このえせいめい

日中戦争中の1938年,第1次近衛文麿内閣による対中国声明
1938年1月,「国民政府を対手とせず」として新興政権の成立を期待し,これとの和平交渉の意志を示したもの。これによりかえって国民政府との和平の道を閉ざし,長期戦に突入した(第1次近衛声明)。同年11月,戦争が長期化する中で,先の声明を若干修正して,東亜新秩序建設の声明を発表した(第2次近衛声明)。

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世界大百科事典(旧版)内の近衛声明の言及

【東亜新秩序】より

…それは満州事変勃発前後の〈日満ブロック〉構想を一歩進め,〈日満支ブロック〉の実現を国策として決定したものであり,36年8月7日の広田弘毅内閣下の5相会議決定〈国策の基準〉に受け継がれた。37年7月7日に勃発した日中戦争は,日本の予想に反して長期戦となり,38年1月16日近衛文麿首相は,〈爾後国民政府を対手とせず〉,日本は〈新興支那政権の成立発展を期待する〉との声明(第1次近衛声明)を発し,国民政府との和平交渉の道をみずから閉ざした。ついで同年11月3日,近衛首相は日本の戦争目的が〈日満支三国〉の提携による東亜新秩序建設にあると声明(第2次近衛声明)し,さらに陸軍の謀略により国民政府反蔣介石派の汪兆銘が重慶からハノイへ脱出した直後の12月22日,日本と〈更生新支那〉との提携の原則は〈善隣友好,共同防共,経済提携〉にあるという近衛3原則を発表した(第3次近衛声明)。…

【日中戦争】より

…日本軍は点と線,つまり都市と鉄道とを握っただけで,その後方では中国共産党の指導で解放区が拡大し,戦況は年を追って不利となった。11月には近衛内閣はこの戦争の目的は東亜新秩序建設にあるとして中国にも協力を求める声明を出し,12月に日本軍の防共駐屯等の国交調整方針を示したいわゆる近衛声明を発表した。国民党副総理汪兆銘はこれに呼応して重慶を脱出し対日和平を提唱した。…

※「近衛声明」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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