輪王寺宮門跡(読み)りんのうじのみやもんぜき

改訂新版 世界大百科事典 「輪王寺宮門跡」の意味・わかりやすい解説

輪王寺宮門跡 (りんのうじのみやもんぜき)

日光山を総括,東叡山寛永寺を管領,比叡山の天台座主を歴任し,比叡山諸門跡首班に列した法親王。1613年(慶長18)天海が日光山貫主に補せられ,17年(元和3)徳川家康遺骸を日光山に改葬した。江戸幕府は24年(寛永1)上野忍ヶ岡に寛永寺を建立し天海を住職とした。天海没後弟子公海が日光山住職となり,54年(承応3)辞職すると,後水尾天皇第3皇子守澄(守徴)法親王が日光山・東叡山住職を兼ねるに至り,翌55年(明暦1)後水尾上皇は院宣をもって輪王寺宮の勅号を下したので,以後住職はこの号を称し,56年比叡,日光,東叡3山をもって天台一宗総本寺とした。門跡は平素東叡山本坊に住し,毎年4,9,12月に日光山に登って祭礼に臨み,寺務を決裁した。日光神領のうち門跡領は1800石である。歴代門跡は法親王が継ぎ,最後の門跡公現法親王は1868年(明治1)勅命により伏見宮に復帰,輪王寺宮は廃止され,翌年輪王寺称号,日光・東叡本山号も廃された。神仏分離によって日光では満願寺と東照宮・二荒山神社が分離したが,83年満願寺は旧号復称を県に願い許可され,輪王寺と改めた。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の輪王寺宮門跡の言及

【日光東照宮】より

…古代以来の日光権現に奉仕していた僧侶,社家らが東照宮にも混合奉仕し,大猷院奉仕も含めて複雑な機構であるが,諸事は東照宮を本とすることが定められた。日光一山は1613年(慶長18)天海が貫主となり,死後公海が門跡となり,54年からは輪王寺宮門跡が総括した。神領支配は目代(もくだい)山口氏が,日光守護は梶定良が担当したが,定良没後幕府は1700年日光奉行を新置し,91年山口氏は処罰され,日光奉行の権限は強化された。…

【能久親王】より

…北白川宮第2代。伏見宮邦家親王の王子で,初め輪王寺宮門跡となり,法名を公現と称した。戊辰戦争に際し奥羽越列藩同盟に擁せられたため,戦後謹慎を命ぜられ一時親王の身分を失った。…

※「輪王寺宮門跡」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android