身延(町)(読み)みのぶ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「身延(町)」の意味・わかりやすい解説

身延(町)
みのぶ

山梨県南部、南巨摩郡(みなみこまぐん)にある町。1931年(昭和6)町制施行。1955年(昭和30)下山(しもやま)、豊岡(とよおか)、大河内(おおこうち)の3村と合併。2004年(平成16)西八代(にしやつしろ)郡下部町(しもべちょう)、南巨摩郡中富町(なかとみちょう)と合併。町域は、富士川中流域の両岸にまたがり、早川が合流する。七面山(しちめんざん)の山頂北側一帯は当町の飛び地。JR身延線と国道52号、300号が通じる。富士川と早川が合流するあたりは、江戸時代から富士川水運の舟宿、交通の中継地として栄え、手漉き和紙(てすきわし)の名産地として400年以上の伝統をもつ。山林面積が多く、伝統的に林業が主体であるが、茶の栽培や県下有数のシイタケ栽培も行われる。富士川とその支流沿いに水田が散在するが、兼業農家が増えている。古くから季節労働や行商があったが、近年は静岡や甲府方面への通勤者が増加。また、身延山久遠寺(みのぶさんくおんじ)や「信玄(しんげん)のかくし湯」として有名な下部温泉、本栖湖(もとすこ)、毛無(けなし)山などの名所史跡があり、多くの観光客を集め、観光業が盛ん。南西部の大城渓谷(おおじろけいこく)には「糸魚川‐静岡構造線」が走り、地質学的に興味深い観察ができる。丸畑(まるばたけ)地区は、江戸後期の僧侶で日本中を巡って木彫仏を刻み続けた木喰五行明満(もくじきごぎょうみょうまん)(1718―1810)生誕の地で、ゆかりの仏像などが残り、「木喰の里微笑館」がある。国指定の重要文化財として、本遠寺(ほんのんじ)の本堂・鐘楼(しょうろう)堂、大聖寺(だいしょうじ)の木造不動明王(ふどうみょうおう)坐像、門西家住宅(もんざいけじゅうたく)(江戸時代の民家)がある。湯之奥(ゆのおく)には、甲斐(かい)金山遺跡のうち中山金山があり、国史跡である。上沢寺(じょうたくじ)のオハツキイチョウ、本国寺(ほんごくじ)のオハツキイチョウ、八木沢のオハツキイチョウ(やぎさわのおはつきいちょう)、身延町ブッポウソウ繁殖地は、国の天然記念物。

 身延山久遠寺は日蓮(にちれん)宗総本山で、全国から信徒、観光客が訪れる。1274年(文永11)日蓮は3年間の佐渡の流謫(るたく)生活のあと、信徒の波木井実長(はきいさねなが)の領地身延山に入り、西谷に草庵(そうあん)を開いた。これが久遠寺のもとである。日蓮は武蔵(むさし)国(東京都)で没したが、遺言により遺骨は身延に埋葬された。本堂、祖師堂、三門、奥の院など大伽藍(がらん)が山中にそびえ、門前には1.5キロメートルにわたって門前町が形成される。宿坊や旅館、土産(みやげ)物店などが建ち並び、身延山久遠寺参拝の観光収入が町の大きな財源となっている。寺宝として『絹本著色夏景山水図』(国宝)、『絹本著色釈迦八相(しゃかはっそう)図』(国の重要文化財)、『宋版礼記(らいき)正義』(国の重要文化財)、『本朝文粋(ほんちょうもんずい)』(国の重要文化財)などがあり、その一部を宝物館で展示する。面積301.98平方キロメートル(本栖湖の面積は含まない)、人口1万0663(2020)。

[横田忠夫]

『『身延町誌』(1970・身延町)』


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