足利持氏(読み)あしかがもちうじ

精選版 日本国語大辞典 「足利持氏」の意味・読み・例文・類語

あしかが‐もちうじ【足利持氏】

室町前期の武将。第四代関東公方。満兼の子。上杉禅秀の乱を平定。永享一〇年(一四三八関東管領上杉憲実を討とうとして幕府軍に敗れ、同一一年、鎌倉永安寺自殺(永享の乱)。応永五~永享一一年(一三九八‐一四三九

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デジタル大辞泉 「足利持氏」の意味・読み・例文・類語

あしかが‐もちうじ〔‐もちうぢ〕【足利持氏】

[1398~1439]室町前期の武将。鎌倉公方くぼう。永享10年(1438)関東管領上杉憲実うえすぎのりざねと対立。幕府軍と戦って敗れ、鎌倉で自刃。→永享の乱

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改訂新版 世界大百科事典 「足利持氏」の意味・わかりやすい解説

足利持氏 (あしかがもちうじ)
生没年:1398-1439(応永5-永享11)

室町中期の武将。足利満兼の子。鎌倉公方(くぼう)4代。幼名は幸王丸。1409年(応永16)満兼の死を受けて鎌倉公方となる。翌年元服して将軍義持の偏諱(へんき)を得て持氏と称す。16年前関東管領上杉禅秀の乱にあい一時鎌倉を逃れたが,禅秀の動きに不安を感じた幕府の援助を得て反乱を鎮め再び鎌倉に戻った。その後,禅秀の残党弾圧に奔走し,公方権力の専制化を強めた。しかし,それに対する豪族層や中小武士層の反発も高まり,その支配の強化も容易ではなかった。その一方で,幕府との対抗関係もみられ,しばしば衝突を招いた。持氏は,京都改元に従わず旧元号を使用し続けたり,京都方の所領を押領したりした。義持の跡を継いだ将軍義教の強圧的な態度と持氏の反幕意識は,一時的な妥協では解決しえなかった。34年(永享6)には,持氏は大勝金剛尊像を鶴岡八幡宮に造立し,かつ血書願文を奉納して将軍義教と関東の反持氏勢力の打倒を祈願した。38年持氏は,子義久の元服式を将軍の偏諱を得ず独自に鶴岡八幡宮で強行したことで,幕府との協調を説く関東管領上杉憲実(のりざね)とも対立した。持氏がその後憲実打倒の軍を起こしたことで関東は内乱状態となり,幕府はこの機をとらえて憲実を援助し兵を関東に進めた(永享の乱)。持氏は各地で敗れ,武蔵称名寺で謹慎したが,義教は憲実の持氏助命の願いを無視して鎌倉の永安寺で自害せしめた。その子義久も,鎌倉の報国寺で自害した。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「足利持氏」の意味・わかりやすい解説

足利持氏
あしかがもちうじ
(1398―1439)

室町中期の武将。鎌倉公方(くぼう)第3代足利満兼(みつかね)の子。幼名幸王丸(こうおうまる)。1409年(応永16)父満兼の後を受けて家督を継ぎ、12歳で第4代鎌倉公方となった。翌1410年元服し、将軍足利義持(よしもち)の一字を与えられて持氏と名のった。1416年上杉禅秀(ぜんしゅう)の乱では、いったん鎌倉を逃れて駿河(するが)の今川範政(のりまさ)を頼ったが、まもなく幕府の支援を受けて反撃に転じ、翌1417年正月、乱を鎮圧した。その後、独自の支配権を東国に確立しようとして関東諸将討伐にしばしば出兵したため、幕府との対立をしだいに深めていった。1428年(正長1)に足利義教(よしのり)が将軍となると幕府への対決姿勢をさらに強め、両者の調停を図ろうとした関東管領(かんれい)上杉憲実(のりざね)は持氏に疎(うと)んじられた。1438年(永享10)長子賢王丸(けんおうまる)の元服に際して将軍の一字をもらう慣例を無視し、それをいさめた憲実を追討しようとした。将軍義教はこれを持氏討伐の絶好の機会ととらえ、諸将に命じて憲実を支援させ、持氏追討の兵を関東に下した。関東の諸将のなかにも持氏に背くものが続出、やがて敗北を悟った持氏は金沢(かねさわ)称名寺(しょうみょうじ)で剃髪(ていはつ)して道継(どうけい)と号し、ついで鎌倉の永安寺(ようあんじ)に入り謹慎の意を表した。しかし将軍義教はこれを許さず、翌1439年(永享11)2月10日、持氏は幕命を受けた上杉憲実らに永安寺を包囲され42歳で自害。この事件を永享(えいきょう)の乱という。法名は長春院楊山道継。

[田代 脩]


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朝日日本歴史人物事典 「足利持氏」の解説

足利持氏

没年:永享11.2.10(1439.3.24)
生年:応永5(1398)
室町時代の武将。満兼の子。幼名幸王丸。応永16(1409)年,父の死により4代鎌倉公方となる。翌年元服し,将軍足利義持の諱の1字を受けて持氏と称した。持氏は公方就任直後から分国支配の強化に意を注ぎ,応永20年には南奥州で活動していた叔父稲村御所足利満貞,篠川御所足利満直に代わって奥羽の直接支配に乗り出す。また分国内領主の処遇を巡って関東管領上杉禅秀(氏憲)とも衝突し,禅秀は辞任。応永23年禅秀とその与党による反乱に直面した(上杉禅秀の乱)。虚を衝かれた持氏は一時室町幕府分国の駿河に逃れたが,その後幕府の支援を受け勢力を挽回。禅秀一派を自殺に追い込んだ。以後持氏は禅秀の残党討伐に狂奔し,このため禅秀にくみした北関東の有力領主層の多くは,幕府に保護を求めて京都御扶持衆化する。応永30年には御扶持衆のひとり小栗満重が籠る小栗城を巡って,鎌倉府と御扶持衆の全面対決に発展し,小栗城落城後は北関東の御扶持衆は勢力を失った。 これにより両府の関係は険悪の度合いを深め,正長1(1428)年義持が将軍後継者を指名せず没するにおよんで,対立は最高潮に達した。将軍位を目指した持氏は,新たに将軍となった義教に慶賀使を送らなかったばかりか,年号が永享と改元されたのちも前年改元されたばかりの正長という年号を使用し続けるなど,幕府に対し自立の気概を示す。このときは持氏の謝罪で事無きを得たが,永享10(1438)年,嫡子賢王丸が元服するに当たり義教の諱を受けず義久と称したことから,今度は幕府との無為を願う関東管領上杉憲実との対立が表面化。上野白井城に退いた憲実を追って,持氏は武蔵府中に出陣する。ここに至ってとうとう幕府の介入を招き(永享の乱),敗れた持氏は金沢称名寺で出家。憲実の助命嘆願にもかかわらず,義教の命により翌年永安寺で叔父満貞と共に自害した。

(江田郁夫)

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百科事典マイペディア 「足利持氏」の意味・わかりやすい解説

足利持氏【あしかがもちうじ】

室町時代,第4代鎌倉公方。満兼(みつかね)の子。1413年奥羽の伊達氏,1417年上杉禅秀の乱を鎮定して勢力を増し,幕府との対立を強めた。将軍足利義持が没し,その弟義教(よしのり)が将軍になるに及び,1438年ついに持氏は挙兵したが,上杉憲実らに攻められ,翌年自殺した(永享の乱)。
→関連項目足利義教足利義持稲村御所小山田荘関東管領古河公方結城合戦

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「足利持氏」の意味・わかりやすい解説

足利持氏
あしかがもちうじ

[生]応永5(1398)
[没]永享11(1439).2.10. 鎌倉
室町時代前期の武将。第4代鎌倉公方 (1409~39) 。左兵衛督。満兼の子。父の死により家督を継ぎ,応永 20 (1413) 年には陸奥伊達氏の反乱を鎮圧した。同 23年前管領上杉氏憲 (禅秀) が,持氏の叔父満隆と結び,京都の将軍義持の弟義嗣と通じて起した反乱 (→上杉禅秀の乱 ) を幕府の援助を得てしずめた。これより持氏は,氏憲与党の征伐と称し,しきりに関東の諸氏を攻め,幕府の不興を買ったが,謝罪して,同 31年幕府と和を結んだ。正長1 (28) 年後嗣を定めずに義持が没したあと,僧籍にあったその弟義教が還俗して将軍になると,将軍への宿望を果せなかった持氏は,京都に攻め上ろうとしたが,関東管領上杉憲実に諫止され,事なきを得た。しかしその不満は,永享5 (33) 年の甲斐武田氏追討,翌6年鶴岡八幡宮への血書の願文奉納,翌7年陸奥稲村御所足利満貞征伐,翌8年幕府直轄の信濃への出兵として現れた。そして翌9年には終始幕府との調停に努めてきた憲実をも討たんとし,同 10年8月憲実が領国上野 (こうずけ) に籠居すると,幕府はついに持氏討伐に踏切った。幕府軍と憲実軍に攻められた持氏は,11月金沢称名寺に入って出家 (公卿補任は 10月) ,次いで鎌倉永安寺に移り,翌 11年2月同寺で自害。 (→永享の乱 )  

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「足利持氏」の解説

足利持氏
あしかがもちうじ

1398~1439.2.10

4代鎌倉公方(くぼう)。3代満兼の子。従三位左兵衛督。幼名幸王丸。法名長春院楊山道継。1416年(応永23)上杉禅秀の乱で一時鎌倉をのがれたが幕府の援助で鎮圧,以後政治基盤の強化をはかる。23年,勢力増大を恐れた幕府と全面対決の危機を招くが,持氏が将軍足利義持に謝罪の誓書を送り和睦。しかし足利義教(よしのり)が将軍になると関係は再び悪化。38年(永享10)持氏が,幕府と結ぶ関東管領上杉憲実(のりざね)を追討するため出陣すると,幕府は持氏討伐をはかり,永享の乱がはじまった。幕府軍と憲実軍の包囲,さらに三浦時高らの裏切りによって敗れ,武蔵国金沢の称名寺で出家,翌年鎌倉永安寺で自害。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「足利持氏」の解説

足利持氏 あしかが-もちうじ

1398-1439 室町時代の武将。
応永5年生まれ。足利満兼の長男。応永16年4代鎌倉公方(くぼう)をつぐ。上杉禅秀の乱では幕府の援軍をえたが,その後鎌倉府の権力強化をはかって幕府と対立。足利義教(よしのり)が6代将軍となると対決の姿勢をつよめる。永享の乱で幕府軍に敗れ,永享11年2月10日自害した。42歳。幼名は幸王丸。法名は道継。

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旺文社日本史事典 三訂版 「足利持氏」の解説

足利持氏
あしかがもちうじ

1398〜1439
室町中期の鎌倉公方
満兼の子。1417年上杉禅秀の乱平定後関東に勢力をはり,京都の幕府と対立,'28年前将軍足利義持が死に,義教 (よしのり) が後継者になると,対立は激化した。ついに'38年永享の乱をおこし,管領上杉憲実 (のりざね) を助ける幕府軍に敗れ,翌年鎌倉永安寺で自殺した。

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世界大百科事典(旧版)内の足利持氏の言及

【上杉禅秀の乱】より

…1416年(応永23)10月より翌年1月まで,上杉氏憲(禅秀)が鎌倉公方足利持氏に反して起こした室町時代前期の内乱。1416年10月前管領上杉氏憲は持氏の叔父満隆を奉じて持氏邸を夜襲した。…

【上杉憲実】より

…1419年(応永26)憲基の跡を受けて関東管領となった。上杉禅秀の乱以後,鎌倉公方(くぼう)足利持氏が幕府からの自立と公方権力の専制化をはかったのに対して,憲実は幕府との協調と妥協を主張したので,両者の間でしばし対立が生じた。とくに36年(永享8)持氏が信濃の内紛に介入しようとしたことに憲実が反対したこと,また38年持氏が慣例を無視して子義久の元服式を鶴岡八幡宮で強行したことなどで,両者の対立は深まった。…

【永享の乱】より

…1438年(永享10)8月から翌年2月にかけて,鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉憲実,憲実を援護する将軍義教との間の抗争に端を発した東国の内乱。幕府と鎌倉府の関係は両府の成立以来必ずしも良好といえるものではなかった。…

【鎌倉公方】より

…室町幕府による東国支配のために鎌倉に置かれた政庁である鎌倉府の長官。関東公方(くぼう)ともいう。足利氏の東国支配は,1333年(元弘3)12月建武政権下で足利直義が〈関東十ヵ国〉(相模,武蔵,上野,下野,上総,下総,安房,常陸,伊豆,甲斐)の支配をゆだねられ後醍醐天皇の皇子成良親王を奉じて鎌倉に入ったことにはじまる(鎌倉将軍府)。足利尊氏は,36年(延元1∥建武3)11月京都に幕府を開いたが,その嫡子義詮を鎌倉にとどめ,これを〈鎌倉御所(鎌倉公方)〉とし,そのもとに関東管領を配置して東国の政治一般にあたらせた。…

【下野国】より


[室町時代]
 義政の乱後,15世紀の関東はつぎつぎに大事件が勃発する。1416年(応永23)前関東管領上杉禅秀が,鎌倉公方足利持氏,関東管領山内上杉憲基に対して反乱を起こし,翌年禅秀側が破れて鎌倉雪ノ下で自害した。禅秀方には,那須資之,宇都宮左衛門佐,薬師寺,佐野左馬助,小山等の諸将,持氏方には宇都宮持綱,長沼義秀らがいた。…

【結城合戦】より

…1440年(永享12)3月,下総の結城氏朝が鎌倉公方足利持氏の遺子春王丸・安王丸を奉じて幕府に抗した戦い。持氏は永享の乱に敗れ前年2月に鎌倉永安寺で自殺したが,この持氏の死後も従来から続いている東国の混乱は鎮静化しなかった。…

※「足利持氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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