越後騒動(読み)えちごそうどう

精選版 日本国語大辞典 「越後騒動」の意味・読み・例文・類語

えちご‐そうどう ヱチゴサウドウ【越後騒動】

江戸前期、越後高田藩のお家騒動。嫡子綱賢の死により藩主松平光長異母弟遺子を推す永見大蔵らと、妹婿国元の筆頭家老の小栗正矩の子を推す派とが、延宝七年(一六七九)から三年にわたって抗争。五代将軍徳川綱吉親裁両成敗、改易となった。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「越後騒動」の意味・わかりやすい解説

越後騒動
えちごそうどう

1679年(延宝7)~81年(天和1)、越後国(新潟県)高田藩の御家騒動。藩主松平越後守光長(えちごのかみみつなが)(忠直(ただなお)の子で2代将軍徳川秀忠(ひでただ)の外孫)は藩政を国家老に任せていたが、なかでも実権を握っていたのは光長の妹婿小栗美作正矩(おぐりみまさかまさのり)であった。これに対抗する家臣は、光長の弟永見大蔵長良(ながみおおくらながよし)を押し立て、家老荻田主馬(おぎたしゅめ)らを中心に結束し、小栗が奢侈(しゃし)で不忠者だと主張し、さらに、小栗の子掃部(かもん)を光長の養子にして主家を乗っ取ろうとしているとの噂(うわさ)を流した。1679年ついに反小栗派(お為方(ためかた)と自称し、相手を逆意方とよぶ)は武装して小栗邸に押し寄せたが、衝突は回避された。しかし幕府の知るところとなり、お為方の永見・荻田らが同年処罰された。これによってお為方はさらに憤激し、幕府に働きかけ、81年、前年5代将軍となった綱吉(つなよし)の異例の親裁となる。その結果、美作らが切腹、永見・荻田らが流罪となり、光長も家臣騒動を鎮められなかったことから所領26万石を没収された。光長は伊予松山藩預けとなったが6年後に赦(ゆる)され、その後98年(元禄11)光長の養子宣富(のぶとみ)が美作国岡山県津山藩10万石に封ぜられ、家を再興した。

[上野秀治]

『『高田市史』全2巻(1958・高田市)』

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改訂新版 世界大百科事典 「越後騒動」の意味・わかりやすい解説

越後騒動 (えちごそうどう)

1679-81年(延宝7-天和1)に越後高田藩松平家に起きた継嗣問題にからむ御家騒動。1674年正月松平光長の嗣子下野守綱賢が死んで子がなく,筆頭家老小栗美作は光長の異母弟市正(いちのかみ)の子万徳丸(15歳)を推して光長の承諾を得,将軍徳川家綱に謁して三河守綱国とした。市正の弟永見大蔵や家老荻田主馬らはこれをもって,美作がわが子掃部(かもん)大六を光長の嗣子にしようとしたが見込みがないので,少年万徳丸を立てて権力をほしいままにし主家を横領しようとするものと喧伝し,殿様のため(お為方)に美作(逆意方)を除こうと騒いだ。これが幕府に知られ,大老酒井忠清は美作を正しいと裁断した。しかし徳川綱吉が将軍に就任するや劈頭(へきとう),忠清の裁断を覆し前例のない将軍親裁の名のもとに美作父子を即日切腹に,大蔵,主馬ら多数を遠島にし,光長を改易に処した。
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百科事典マイペディア 「越後騒動」の意味・わかりやすい解説

越後騒動【えちごそうどう】

1679年−1681年に越後高田藩松平家に起こった御家騒動。藩主松平光長の嫡子綱賢の死後,養嗣子をめぐって藩内は藩政を主導してきた家老小栗美作の一派と光長の異母弟永見大蔵らの反美作派に分かれて3年越しの争いが続いた。大老酒井忠清の処置により反美作派が追放されていったんは落着したが,徳川綱吉の将軍就任で再び問題となり,綱吉の親裁で美作父子は切腹を命じられ,松平家は城地を没収された。
→関連項目徳川綱吉

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「越後騒動」の意味・わかりやすい解説

越後騒動
えちごそうどう

江戸時代中期,越後高田藩松平家に起った御家騒動。藩主光長は江戸在府が長く,国政の実権は光長の妹婿家老小栗美作守,糸魚川城代荻田主馬らにあった。延宝2 (1674) 年光長の嫡子綱賢が死んだため,光長の弟永見長頼の遺子万徳丸がいったんは養嗣子となったが,荻田や光長の弟永見大蔵一派は,家老小栗が自分の子掃部を嗣子にしようとしていると称して対立し抗争に及んだ。幕府は荻田一派を非として処罰したが,荻田一派は将軍代替に伴い再審を要求,天和1 (81) 年綱吉の親裁により小栗,荻田両派とも処断。藩主光長は城地没収のうえ,伊予松山藩に預 (あずけ) ,万徳丸も備前岡山藩に預となった。

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旺文社日本史事典 三訂版 「越後騒動」の解説

越後騒動
えちごそうどう

江戸前期,越後(新潟県)高田藩におこった御家騒動
1674年藩主松平光長の嫡子綱賢の没後,その継嗣に光長の甥万徳丸と家老小栗美作 (おぐりみまさか) の子掃部 (かもん) を推す両派に分かれ争った。重臣会議の結果万徳丸が継嗣と決定したが,小栗派は万徳丸を乱心者と称し光長を隠居させ反対派に対抗した。'81年将軍徳川綱吉の親裁で両派ともに処罰され,光長は領地没収となった。小栗については,藩主光長を助けて積極的な政治を進めた人物とみる評価もある。光長の家系は,その後美作 (みまさか) (岡山県)津山に再興された。

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歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典 「越後騒動」の解説

越後騒動
(通称)
えちごそうどう

歌舞伎・浄瑠璃の外題。
元の外題
万石取茶入墨附 など
初演
明治13.4(東京・市村座)

越後騒動
えちごそうどう

歌舞伎・浄瑠璃の外題。
初演
宝暦6.7(京・染松座)

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デジタル大辞泉プラス 「越後騒動」の解説

越後騒動

山岡荘八の長編歴史小説。1967年刊行。

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世界大百科事典(旧版)内の越後騒動の言及

【天和の治】より

…彼は前代の老中で彼の将軍就任を支持した堀田正俊を大老に取り立てるとともに寵臣を側近に集め,側用人の職を創置して側近の地位を老中同格にまで高め,将軍の意志を忠実に末端まで貫徹させうる機構を形成しようとした。これと並行して,前代に未解決であった越後高田藩の御家騒動(越後騒動)を親裁し,親藩筆頭の越後松平家を取りつぶしたのに引き続き,幕臣に対し仮借なく賞罰厳明の方策を励行した。そのため改易・減封処分を受けた大名は46家,旗本は100家余に達し,免職等の処罰もおびただしい数にのぼる。…

※「越後騒動」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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