赤沢朝経(読み)あかざわ・ともつね

朝日日本歴史人物事典 「赤沢朝経」の解説

赤沢朝経

没年:永正4.6.26(1507.8.4)
生年:生年不詳
室町時代の武将,室町幕府管領細川政元の内衆。沢蔵軒宗益。加三。信濃国小笠原氏一族であったが,延徳3(1491)年将軍足利義材(義稙)の近江出陣に従軍した際,政元に鷹狩の技能を認められてその被官となった(尊経閣本『不問物語』)。延徳4年2月9日付の『蔭凉軒日録』で朝経の鷹狩が話題となっているところをみると,上洛したのはそれ以前であろう。その後,山城国上3郡(久世,綴喜,相楽)守護代となり,明応5(1496)年遊佐弥六左衛門を山城国に攻撃し,8年2月河内国17カ所代官に補任され,同年7月比叡山を攻撃,同年9月山城国に畠山尚順勢を攻撃するなど政元の部将として活躍した。同年12月から文亀1(1501)年6月まで大和国進軍,興福寺は神木を動座して朝廷に朝経退陣を要求した。同2年4月被官籾井,依利の両名に楊本荘を攻撃させたが,これに敗れると5月再び大和国に進軍,西大寺を炎上させるなどした。永正1(1504)年3月政元に反逆するが,薬師寺元一の執り成しによって6月赦免されて上洛。次いで同年9月元一の反乱が起こると,朝経もそれに与同した。2年6月再び赦免されて上洛し,政元より元のごとく山城上3郡の守護代に再任された。3年8月,畠山方国人筒井・越智氏らの征討のため大和国に進撃,法華寺や菩提山正暦寺,多武峰などで大合戦が展開された。同4年6月政元暗殺の際,丹後国一色義有方の一揆に包囲されて自殺。鷹狩の書『宗益相伝書』が残る。

(森田恭二)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「赤沢朝経」の意味・わかりやすい解説

赤沢朝経 (あかざわともつね)
生没年:?-1507(永正4)

戦国期の武将。小笠原氏の庶流。法名沢蔵軒宗益。管領細川政元の重臣として1499年(明応8)ころより活躍。山城国槙島を本拠として河内に畠山尚順・義英を攻め,大和において筒井氏らと対決した。一時政元と不和になったが許され,1507年京都で政元が討たれたことを聞き丹後より帰還しようとしたが,途中同地国人らの包囲を受け自害した。時に57歳であったとする説もある。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「赤沢朝経」の解説

赤沢朝経 あかざわ-ともつね

?-1507 室町-戦国時代の武将。
小笠原氏の一族。管領(かんれい)細川政元の重臣として,幕府料所河内(かわち)(大阪府)17ヵ所の給人や山城(京都府)上3郡守護代などをつとめる。永正(えいしょう)4年丹後(京都府)で一色(いっしき)義有(義季(よしすえ))と対陣中,政元暗殺の報をきき京都にかえる途中,宮津で一色方の国人一揆(いっき)に包囲され6月26日自害。通称は源次郎。号は沢蔵軒宗益。

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